僕は忘れ者
翌週の休日はあいにくの雨模様で出かけられなくて、僕は机に向かって魔法のノートを開く。忘れたくないことを書き残す、ではなく、思い出したいことを書くノート。
「えぇ~っとぉ。春の大三角は……」
当然、三角形を結ぶために必要な星座は三つ。しし座、おとめ座、は覚えてるんだけど後のひとつは何だっけ。ほら、たった三つなのにもう忘れてるっていうね。
「ん~……しし座、おとめ座……」
呟きながら、思い浮かべながら、ノートに書く。すると、手が自然に、さらさらと動いた。
「そうだ……三つ目の星座、うしかい座だった……」
自分の記憶だっていうのに、取り出せなかったはずのそれが不自然に浮かんでくるみたいな、奇妙な感覚。
星座だけだったら割と思い出せるんだ。もっと思い出せないのは三つの星座の一等星。三角形を結ぶのは星座全体じゃなく、それぞれの星座で最も強く輝く星なんだから。
「あれはデネブ、アルタイル、ベガ……って、それは夏の大三角だってば」
とっても有名な歌のフレーズにあるから、そっちは強烈に覚えてしまっているんだよね。
「春の大三角……」
そう呟きながら書いていたら、また、操られるようにペン先が動く。さっき書いたそれぞれの星座の下に。うしかい座、アルクトゥールス。おとめ座、スピカ。しし座、デネボラ……。
今までの人生で何度も耳にした情報だから、思い出すことさえ出来たならその響きはとてもしっくりくるものだった。
「すごい……本当に思い出せちゃった……」
せっかくなので夏の大三角も思い出せるか試してみよう。あっちは逆に、一等星の名前を強烈に覚えすぎて、それぞれの星座を忘れがちだから。
デネブ、はくちょう座。ベガ、こと座。このふたつは元から自信がある。
「アルタイルはぁ、えーと……わし座!」
こっちも成功だ。これはもう偶然とは思えない。
好きなことなのに、覚えられない。覚えていたいのに忘れてしまう。今までそれでずっと悩まされてきたから、こんな簡単に、それも道具に頼って覚えられるんなら便利なのかもしれない。
でも……どうしてかなぁ。なんだかちょっと、すっきりしない心地だった。
翌日、日曜日。梅雨時だからなのか、今日も冴えない空模様。雨こそ降っていないけど灰色じみた空で、いつ降り出してもおかしくない。けれど、朝食をいただきながら見た天気予報では一応、降水はないことになっている。
『おはよー、みく! ワタシのノート試した? どうだった?』
部屋に戻ると、待ち構えていたようなタイミングで彼女が声をかけてくる。
「あなたの言っていた通り、ちゃんと思い出せたんだけど……ごめんね。なんとなく、思い出せて嬉しいって感覚になれなくて」
『そうかもねー。だって、あなたに向いてないことをわざわざ、魔法でさせてるようなものだもん』
あ、やっぱり。彼女はいつでも、ボクのことはお見通し。こうなることがわかっていてあえて貸してくれたんだ。
『手が勝手に動いたみたいでしっくりしなかったんじゃない?』
「たぶん、そう。操られて勝手に動いたみたいな感じでさ」
『ワタシもあなたのノート、読ませてもらったけどね。忘れたくない! って必死だから、かなーり詳細に書いてるよね。ノートのメモ書きなのに、ちゃんとした読み物や資料集みたいで、読んでてけっこう面白かったよ』
「そ、そお? なんだか照れちゃうね」
『だから、みくはね。きっと、書くことそのものも割と楽しんでやってるんじゃないかなってワタシは思うのよ』
「う~ん……」
僕は、ひとりで机に向かってる時間が一番好きだ。それで何をやっているかというと、忘れたくないことをノートに書いたり。過去に書いたノートを読み返したり。お気に入りの図鑑を眺めて、覚えておきたいなぁって思うことがあったらそれも書き写したり。まぁ、結局覚えられてないわけですが。
『そういえば、ノートに書いてあるのって星のことだけじゃなかったわね』
「確か、今そっちにあるノートには、石について調べた時のメモが多いかも。昔、川で拾った不思議な石があってね。名前を知りたくてずっと、図鑑で調べているんだけど」
僕の机に飾っている、手のひらサイズの小さな洞窟みたいな石。たぶんあれは、元はこの倍の大きさの石だったのが、半分に割れたんだと思う。その中に空洞があって、黒く光る水晶みたいな石が隠れていたんだ。
ボクの知り合いには石に詳しい人もいなくて相談も出来ないし、売り物でもない石をお店に持って行って鑑定してもらうなんて迷惑だろうから、自分で調べるしかないと思ってそうしているんだけど……案の定というか、こんなにたくさんの石について調べて、何度も書いているっていうのに、覚えている知識は漠然としている。おぼろげ~に石の名前を覚えているけど、それぞれの特徴や色などは覚えきれていない。
でも……。
「そうだね……僕、何度も何度も、同じことでも。休みの日、ひとりでこうやって調べてノートに書くの、楽しいのかもしれない」
『なんでも一発で覚えられちゃう人なら、そういう楽しみ方も出来ないじゃない』
「うん」
『本当に好きなの? って誰かに疑われたら、そのノート、はいどうぞって見せてあげたらいいのよ』
僕自身が覚えてなくても、僕の書いたノートからその人が、興味ある個所を見つけてくれたら。さすがに僕だって自分の書いたものを読みながらならそのことを思い出して話せるはずだ。うん、楽しそう。とはいえ、この前の人とまた会って話したいかっていうとそれは別問題だから、また別の人との機会にね。
僕に必要なのは僕だけのクローバーのノートで、魔法のノートは必要ない。お互いに、鏡を介してノートを返し合った。
「ありがと。あなたのおかげで悩みがひとつ解決したみたい」
『どういたしまして~。みくは今日、これからどうするの?』
「せっかくお休みだし、曇り空だし。近くを散歩して紫陽花探しでもしてみようかなぁ」
紫陽花っていうのは、曇り空の方が綺麗に見えるらしい。こういう単発のネタみたいな情報はちゃんと覚えていられるんだけどなぁ。
『一緒に見に行けなくて、残念だわ。楽しんできてね』
以前、鏡を持って一緒に出掛けたら同じ景色が見られるのか訊ねてみたことがある。その時は濁して教えてくれなかったけど、つまりそうやって一緒に出掛ける気はないってことなのかもしれない。
一緒に出掛けられないし、顔を見られないし、手も繋げない。僕はあなたのことを何も知らない。
それでも彼女は、僕だけの、「一等の友達」だってことだけは、確かな真実なんだ。