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プリマヴェーラ  作者: 淳・ブライド
第ー章
2/3

 時は三十年前に遡ります。私がまだ十歳の頃です。

 父がアメリカ人、母が日本人という事もあり、ハーフにあまり寛容ではなかった当時は、髪の毛の色や瞳の色で、よくいじめられていたものでした。

 

 子供という存在は、かけがえのないものですが、未完成の『人間』です。

 それ故に時として残酷で、息を吐くこと同様、簡単に人を傷つける言葉を投げつけたりもしますし、平気で他人の体を痛めつけることだってします。口にするのも憚られる様な事も、痣が出来るような暴力も、沢山受け続けました。

 非常に残念な事ですが、そういったいじめや差別は、永遠になくなる事はありません。どんなに綺麗事を並べたとしても、結局は共感・同一こそ人類の幸福ですし、大人子供関係なく、人間は自分よりも弱い者をいじめて快感を得るものですからね。その証拠に、強い者をいじめる人間なんてほどんどいないでしょう?

 ですが、泣き寝入りなんて真似は絶対にしたくはありませんし《こんな奴らに負けたくない》と逆に闘志を燃やしていましたから、私は数人の男の子を相手に、痣や傷だらけになりながら猛反撃しました。昔の私は非常に負けず嫌いで、血湧き肉躍る悪童だったんです。

 ()くして、その時は本当に辛く苦しい思いをしましたが、その境遇があったからこそ、今の自分があると考えています。

 人生には必ず、苦しい出来事が巡ってくるものです。生きていく上で最も重要なのは、そういう目に合った時のために、耐え忍ぶ力や、立ち向かう力を身に着ける事――そして、どんな時でも自分の味方でいてくれる人を見つける事なんだというのを、()()()()()()()学びました。


 ――真優(まひろ)は、ずっと私の味方でいてくれました。


 ケンカが終わって、誰もいない公園の手洗い場で、泥まみれになった顔を洗っている時のことです。

 夕日に染まった薄い雲が、ゆっくりと流れていきます。私はその空の(もと)、悲境に暮れていました。


「……くそ、あいつら、なめやがって」


 自分という存在を愚弄された悔しさから、目がじわじわと熱くなっていくのを、どうすることもできません。強がっていても、悲しいものは、悲しいのです。ですがそれを認めたくなくて、つい、乱暴な言葉を発してしまいました。


 なんでオレばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないんだよ。

 オレが何をしたっていうんだよ。

 みんな、オレのなにが気に入らないんだよ。


 そう思えば思うほど息が詰まりそうになりましたし、私を罵しる言葉の数々が脳内で駆け巡る度、やるせなさが一層強まります。

 涙をごまかす為に、もう一度、冷たい水で強引に顔を洗いました。静かな公園にバシャバシャと、水の音だけが響きました。

 蛇口を止め、むすっとした顔で空を見上げます。茜色に映える黒いカラスが鳴きながら、何の迷いもなく自身の(いえ)へ戻って行くのを見て、妬ましく思いました。


 家に、帰りたくない。


 『夕焼け小焼け』なんて歌がありますが、あれは恵まれた家庭を持った人たちのためにあるものだと、幼かった私は見解の広さに欠けていました。私が家庭に恵まれなかった事もあります。

 父は、とにかく異性にだらしのない人だったようで、私が母のお腹に出来たと分かれば、母を捨てて姿をくらましてしまうほど薄情な人でした。

 ですが、暴力沙汰を起こして、今は刑務所にいると風の便りに聞いています。しかし、生まれてから一度も会った事もない人ですから、他人事のように思えてなりませんでした。

 母も母で、ろくでもない異性と付き合っては毎回家を留守にしているか、連れてきてはイチャイチャしているかのどちらかです。

 機嫌のムラもあり、邪険に扱われる時もありますし、ぬいぐるみのように可愛がられる事もありました。ですが最近は前者で、家に帰っても外へ追い出される事が多くなりました。

 父も父なら、母も母です。憐れで、不快なほどに汚らしい『未完成の人間』で、その間に生まれた私が、一番憐れで醜い生き物だと感じていました。薄情者同士から生まれた、薄情な子だと。


 だからこんな目に遭うんだ。汚い生き物から生まれた汚い子だから、みんなオレを嫌うんだ。


 自分が何のためにこうして生きているのかさえ分からない程の失望感に苦しめられ、苛立ちが抑えきれず、自傷行為のように乱暴に濡れた顔を腕で拭いました。心の痛みに比べれば、体の痛みなんて騒ぎ立てるほどのことではありませんでした。

 こうしている間にも夕日は沈んでいきます。強く擦ったため視界はぼやけたままですが、渋々家へ帰ろうとしたその時です。

 一人の女の子が、ツツジの茂みに身を潜めて私を窺う姿が目に留まりました。

 思わぬ所に人が居たので、私の顔はみるみるうちに硬直し、警戒態勢に入ります。威嚇するような足取りで公園を出て行こうとしました。

 しかし、その子は慌てて私の所へ駆け寄ってきて「あのっ」と、気弱いながら勇気を振り絞った声で引き留めてきました。


「あの――だいじょうぶ?」


 不安げに、そして、心配そうに眉を寄せて私の顔を覗き込むようにしていいながら、綺麗に四つ折りにされたハンカチを私に差し出しました。

 不意の事に、驚きながらも、注意深くその手から視線を上へ辿っていきました。ぼやけた視界は、自然、正常に機能して、くっきりと見えます。

 私と同じ年くらいでしょう。その子は、可愛らしい顔立ちをしていました。濃く長い睫毛が縁取られた二重の大きな瞳は、傷一つついていない水晶玉のように純度が濃い清らかさがあり、あまりの透明感に、私は言葉を失い、張り詰めた気を緩めてしまいました。

 私の様子を見て、不審に思われていると捉えたのか、彼女は言い訳をするような焦った口調で言いました。


「ご、ごめんね。実はケンカしてた所、ずっと見てて…止めに入りたかったんだけど、こわくて、動けなくて…」


 と、申し訳なさそうな顔をすると同時にどんどん声が小さくなっていきます。最初から見ていたという事は、泣いている所も見られていたという事です。私は居心地が悪くて口をへの字に曲げて、眉を寄せました。

 けれども、女の子が男の子の粗暴なケンカの仲裁に入るのは相当な勇気が必要です。怖くて当然でしょう。怯えながら物陰に身を潜めていたと思うと、少し心が痛みました。

 複雑な気持ちで「べつにいいよ」と、警戒心丸出しで素っ気なく言いながら、半ば乱暴にハンカチを受け取りました。

 ピンク色の花柄の刺繍が入ったいかにも女の子と言った可愛らしいもので、使うのも抵抗がありましたが、せっかく差し出してくれたのですから受け取らないわけにもいきません。それで黙々と顔を拭いました。

 公園には、再び静かな空気が流れます。

 今の所、この女の子から敵対心を感じません。大体、敵対心(そんなもの)を持った人が、安易に清潔なハンカチなど差し出すでしょうか。

 顔を拭いている僅かな隙に、その子を窺います。相変わらず不安そうに胸に握り拳を当てながら、私を見守っていました。

 疑り深い私の目から見ても、その様子は演技とも思えないし、虫一匹も殺せないような気弱さを見受けましたから、気を張っているのが何だか馬鹿馬鹿しくなって、少し警戒を緩めました。


「もう夕方なのに、女の子がこんな所で一人でいると危ないぞ」


 ため息交じりに、また素っ気なく言いましたが、その子は、私の顔をじっと見たまま何も答えようとしません。答えようとしないというよりも、私の声が全く届いていない様に見えました。

 あまりにもじろじろと見てくるものですから、それがとても不快で、露骨に不機嫌な顔で


「なんだよ。人の顔をじろじろ見て」


 と、不機嫌に言いました。


 どうせあいつらと同じで、この子もオレの見た目が変だとか思ってるんだろ。


 そう思うと、再び怒りがこみ上げてきます。

 心にもない言葉を浴び続けたためか、自分でも辟易とするくらい被害妄想が激しくなっていました。それ故に、プライドもコンプレックスも過剰になっていたのでしょう。自分に自信をなくしていたんですね、今思えば。

 ですが、その子はハッとして慌てて首を振りながら「ううん」と言いました。


「とっても、きれいだなって、思って」


 最初、言っている意味がわからず「はぁ?」と、私は拍子抜けしました。私の卑屈な考えとは全く違う、意外な言葉が返ってきた事に驚きを隠せなかったのかもしれません。


「髪の毛とか、お日様の光をいっぱい吸い込んでるみたいでキラキラしてて、でも目はお星さまが詰まってるみたいで、すごく素敵」


 とても衝撃的な言葉でしたが、とても素敵な言葉でもありました。


 ――そんな風に言うやつ、いるんだ。


 生まれて初めて、自分が少しだけ特別な存在だと思えた瞬間でした。

 だけど私はその時、無性に恥ずかしくて「バ、バカじゃねぇの!」と顔を真っ赤にして怒鳴ってしまいました。

 恥ずかしかったけれど、本当に嬉しかったんです。

 子供の照れ隠しとは言え、悪い事をしてしまったと思います。彼女も慌てて謝ってくるものですから、余分、罪悪感に責められました。

 気恥ずかしい気持ちは、まだ胸にニキビ跡みたいに残っていましたが、そのあと私たちは、何気なくベンチに座って、何気なく会話をしました。


「おまえ、この辺のやつ?見かけない顔だけど」

「えっと、最近まで神奈川県の横浜市って所に住んでたんだけど、お父さんの仕事の都合でこの街に越してきたの」


 へぇ、と、いまいちピンときてない漠然とした返事をしました。まだ十歳でしたから、神奈川県の横浜市なんて言われても、どこにあるのか分からなかったからです。遠い所からやってきたのだろうという事は、何となくわかりました。


「だから、まだお友達ができなくて…」


 寂しそうに言って、可愛らしい顔を俯かせました。《友達がいないのは、随分つまらないだろうな》と、人の事を言えませんが、そう思いました。女の子は特に集団行動を好みます(もちろん個人差はありますが)から、尚更でしょう。

 少しの間を置くと「ねぇ」と彼女は私の方を向いて、おずおずと、でも期待を含んだ上目遣いで見つめます。


「明日も、あなたはここに来る?」

「そんなの聞いて、どうすんだよ」

「うん、その…あの…」


 その子は言い淀み、もどかし気な顔をしています。そのキョロキョロと彷徨う目は何の曇りもなく、何の汚れもない、こちらが揺らいでしまいそうな程の透明度でした。

 大体の予想はついていました。『友達になってほしい』或いは『一緒に遊んでほしい』と言いたいのでしょう。迷いながらも言葉を伝えようとする懸命な姿勢から、その想いがひしひしと伝わってきました。

 《なんでオレなんかと》と疑問を抱きましたが、純真無垢な気持ちを向けられ、拒むことなどできません。それに、満更でもありませんでした。

 言いかける言葉を遮るように「ヘンなやつ」と言って立ち上がり、その子の目の前に立って、手を差し伸べました。


「わかった。明日もここへ来るから、来いよ。一緒に遊ぼう」


 観念したように言うと、私の手の平をきょとんとした顔をして見つめ、花の蕾がぱあっと開く場面の早送り映像のようにみるみる笑顔を浮かべ「うんっ」と、嬉しそうに元気よく頷き、私の手を躊躇なく握りました。柔らかくて、洗い立ての衣服のようにさらさらと清潔な手をしています。

 そのまま手を繋いで、公園を離れました。彼女の家はすぐ近くにあるという事なので、送ることにします。家に帰りたくないのもありますが、車が多く通る所でもありましたし、女の子が一人で帰るには危ない時間帯でしたから。

 ふわふわした足取りで並んで歩いていると、彼女は「あのね」と、口を開きます。


「あのね、さっきのケンカはとてもこわかったけど、あなたがあの子達に一人で立ち向かってる所を見て、勇気があってかっこいいなぁって思ったの。わたしなら、絶対できないもの」


 私に屈託のない笑顔を向けて、言いました。

 それにしても、ひねくれ者の私の目から見て眩しいほど飾り気がなく、真っ直ぐな女の子です。真っ直ぐすぎて恥ずかしいと思えるくらいで、無性に頭を掻きむしりたくなりました。初めて自分と正反対の人種を目の当たりにすると、どうしていいのか判断が鈍ります。


「……零一」


 私がぽつんと名前を言うと、彼女は


「え?」


 と首を傾げます。


「オレの名前、古川零一。たぶん、おまえと同じ年」


 ぶっきらぼうに今さらながら、自己紹介をしました。

 彼女の真っ直ぐさにほんの少し触発されたのもありますが、私と友達になりたいと思ってくれた彼女に対して最低限の礼儀だと思いました。

 彼女は丸い目を数回瞬きをしたあと、私に柔らかく微笑みました。


「うん、一緒だね」


 私は、どうしてか、地を踏む足を止めそうになりました。

 異物扱いされ、除外される痛手の日々を味わう私にとって、『一緒』という言葉が、私の心を軽やかにしてくれたんです。そのありふれた言葉と繋いだ手の温もりに、どれほど救われたことでしょう。

 ねぇ、真優。大人になった今でも、君は私の支えになっているんだよ。


「わたしは、金田真優(かねだまひろ)。仲良くしてね、零一くん」


 繋いだ手にぎゅっと可愛い力を加えながら、私の顔を覗き込むように小首を傾げます。誰かに『仲良くしてね』なんて言われた経験もなかったので「ふんっ」と顔を真っ赤にして照れながら、顔を逸らしました。

 ――その帰り道での会話も、真優の笑顔も、手の感触も、三十年経っても昨日の事のようです。四十年の歴史が刻まれたかさついた手を見つめ、色褪せる事のない真優を想いました。

 この出会いが、私の一生の宝物になりました。

 後に、一生の後悔となったのです。

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