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朝は必ずやってきます。
どれほど心に癒えない傷を負っていようとも。
逃れようのない現実に直面しても、絶望に打ちひしがれようとも。
それなのに、その度に街の目覚めの力強さに驚かされるのはどうしてだろう。
私、古川零一が営んでいる喫茶プリマヴェーラの鍵を開ける手を止めて、緑滴る街路樹を見上げました。朝日を浴びた緑の木漏れ日は、宝石のように輝いています。
薄水色の空は寝起きでぼんやりしていますが、太陽の光は力強く、街や、木々や、今日という何気ない日常に生命を吹き込んでいるように見え、私には、それら全てが奇跡の様に感じました。
平生という奇跡を目の当たりにしながら、石鹸のように清潔なそよ風が、私の髪や頬を撫でます。
その時『あぁ、あの子だ……』と思いました。
真っ白で素直で、穢れを知らない、天使みたいなあの子だ、と。
――今日で、もう三十年も経つんだな。
時の移ろいに、感慨にふけました。こうしている間にも、一分一秒と、時間は遠慮なく過ぎてゆく。毎日慌ただしく過ごしながら。
少し冷たい空気を一つ吸い込むと、私は開店準備に取り掛かる為、店の中へ入りました。
さて。開店時間の午前八時までにやらなければいけないお仕事は沢山あります。お客様により良いひと時を過ごして頂く為に、気合を入れて仕込みに勤しみました。
届いたばかりのコーヒーの生豆を焙煎機に注ぎ込み、じっくりと加熱作業を行います。焙煎度合いは、浅炒りから深炒りまで全部で八段階に分かれていますが、私の店では幅広い年齢層の方々がお越しくださるので、どなたでも親しめる標準的な五段階のシティローストを提供しています。
換気のため開けている窓から新鮮な風が入り込んできて、焙煎したてのコーヒーの香りが店一杯に広がって、清らかな空間がより一層広がりました。
今日は午後から気温がぐんと上がって暑くなるそうなので、念のため水出しコーヒーを少し多めに作る事にしようと考えながら、カウンターキッチンを動き回っている時でした。
「おっはようございまーす」
裏の勝手口から、聞き慣れた軽やかで朗らかな声が明るく響きます。厚手のマフラーを巻いたアルバイトの小松くんです。
「さっぶぅ!」と、肌寒さに震えながらマフラーを外す彼の頭には、三日月の様に反り返った寝癖がついていました。
「おはよう。相変わらず今日も元気だね」
「元気だけが取り柄ですからね。おかげで風邪なんかひいた事ないですよ」
と、鼻声で言いながらエプロンを身に纏うと、若者特権の颯爽とした動きで仕事を始めます。
――鼻の頭を赤くしながらよく言うよ。
店内の掃除に取り掛かる小松くんの姿を目で追いながら、微笑まずにはいられませんでした。風邪をひいた事がないという人は、大抵、ひいている事に気付いていないというのがほとんどです。
しかし、それは毎日を全力で頑張っているからなのだと、小松くんを見ていると思います。
小松くんは、見た目は芸能人にいそうな綺麗な顔をしているのですが、当人は外見に気を遣う様子は全くないようでした。
今日みたいに髪に寝癖がついていたって気にしませんし、服の首元や袖なんかは大体よれよれです。センスも独特で、以前なんかは“犬しか信じない”とプリントされた変わったスエットを着ていました。(ちなみに彼は猫派です)
それでも、身長の高さと手足の長さのおかげで着こなせていて、違和感がなく、逆に様になっていました。見た目のいい小松くんは、何を着ても似合うのです。
元々アルバイトを雇うつもりはなかったのですが、大学時代の友人――松田憲明という男で、今は出版社で働いています――に「ちょっと面倒見てやってくれ」と頼まれたのがきっかけでした。
憲明と小松くんは、小規模で行われた作品展覧会で出会ったそうです。
憲明は一ミリの興味もないアート雑誌の編集部に所属しており、しぶしぶ記事の担当をしていました。その際の取材が、出会いのきっかけだったようです。
というのも小松くんは普段画家として活動をしているのですが、まだ無名なので、画家だけでは十分な生活を送ることが困難な状況だったらしく、それを見兼ねた彼が私の所へ連れてきたというわけであります。
「お前、最近店の方は忙しそうだし、一人くらい雇っても問題ねぇだろ」
他人事のような口調に《無責任な》と心の中で思いましたが、有り難い事にお客様の来店が多くなってきているのは確かで、猫の手も借りたいとまではいきませんが、お手伝いさん一人くらい居てくれれば助かりますし、問題ありませんでした。
一応面接をして、その場で採用した時の小松くんと言ったら、それはもう凄い喜びようでした。
「雇ってくれるんですかぁ!?ありがとうございますっ、精一杯やるのでよろしくお願いします!」
礼拝堂に掲げられた十字架を見上げながら神様に祈りをささげる信者のように、手と手を組み合わせ、溢れんばかりに目を輝かせていました。
中々アルバイトが見つからない日々が続いていたようで、途方に暮れていたと涙ながらに訴えていた彼は、迷子になって泣き喚く幼稚園児のようでした。
採用の理由としては、小松くんのそうした従順な性格と、誰に対しても自然体でいられる素敵な人柄でした。憲明が可愛がる理由も充分わかります。
そんな小松くんを雇って、早くも二年になりました。今も創作活動を続けるかたわら、あの時言った言葉通り精一杯勤めてくれていますし、持ち前の明るさで常連のお客様にも可愛がってもらえて、楽し気な毎日を送っています。
――あの子が売れっ子になって辞めちゃったら、この店は寂しくなっちゃうんだろうな。
店内の掃除を終えた後、鼻歌を歌って箒と塵取りを持って掃除をしに外へ出る小松くんの後姿を見送りながら、そう思いました。
小松くんは掃き掃除、私は看板メニューのパンケーキの生地をかき混ぜている時でした。
「あーっ、小松くんだぁ!」
外から子供の元気な声と、ランドセルのガチャガチャという賑やかな音が一斉に小松くんに向かって近づいてきました。小松くんに懐いている小学生たちでした。
店の前がちょうど小学校の通学路ですので、この時間帯は必ず子供たちがそこを通るからか、毎朝彼らは遊び交じりに挨拶を交わしています。今日は手遊びのようにハイタッチをして、スキンシップを取っていました。
子供が好きな私はその元気な声に釣られて、作業を一旦止めて、表へ出てしまいました。子供たちは私に気付くと「おじさん、おはよう!」と、パッと明るい笑顔を向けて近づいてくれました。
「あれ、おじさん、なんだか甘い匂いがするね」
一人の女の子が、子犬みたいに私のエプロンをクンクンと嗅いで言います。エプロンには、生地が少し跳ねていました。
「鼻がいいね、今、パンケーキの生地を作ってたんだよ」
「あのふわふわパンケーキを?こんな朝早くに?」
きょとんとした表情で首を傾げます。海外では朝食としてベーコンや目玉焼きを添えて食べるのが定番ですが、女の子にとって、パンケーキは御三時に食べるものだと認識しているのでしょう。
「朝ごはんに食べるお客様もいらっしゃるからね」
そういうと、女の子は「へぇ~」と、ポカンとした返事をしました。
「ちぇ、大人はいいよなぁ、好きな時に好きなもの食べられてさ」
眼鏡をかけた男の子が羨ましそうに唇を尖らせました。私もこの子達くらいの年頃、同じ事を思っていたものですから、気持ちは痛いほどよくわかります。
しかし、現に大人でありながら生活苦である小松くんが「ほんとになぁ」としみじみ同意する姿を見ると、今日は賄いで何か美味しい物でも食べさせてあげようという情けが湧き出ました。
そこで、ふと、良い事を思いつきます。私は子供たちの背丈に合わせて、身を屈めながら声を潜めて言いました。
「実はいま、お店で出す新しいメニューを考えてるんだ。色んな人の意見を聞きたいから、学校が終わったら試食しに来てくれないかい?」
「えぇ、本当!?いいのっ?」
「ただし、お家の方の許可をもらってからね」
そうと決まれば、子供たちは嬉しそうに声や体を弾ませました。
朝から無邪気にはしゃぐ子供達を見下ろして《こんな小さい体のどこにこんなエネルギーを隠し持っているんだろう》と、とても不思議に思うと同時に、唇が綻びます。その有り余るエネルギーで、空や、太陽や、風や、土や、木々をより一層温かくさせ、世界を明るく照らしてくれているのでしょうか。
子供と言う存在は、本当に尊い。彼らのそういった真っ直ぐな反応や言葉は、我々大人にやりがいを与えてくれるものです。
さて、もうそろそろお互い時間が差し迫っています。子供たちは渾身に手を振りながら「いってきまーす!」と挨拶をして、ぱたぱたと可愛らしい足音を立てて走り出しました。
「車には気を付けるんだよ」
ありきたりな忠告ですが、心からの言葉です。この辺りは特に、自転車や車の通りが多い。そんな私の心配も露知らず、子供たちは呑気な返事をして学校へ向かいます。
私はゆらゆらと振った手を力なく下ろして、子供たちを見守りました。
――何事もなく、平和な一日でありますように。
――せめて、私の目の届く限りの人が、誰も傷つきませんように。
切なる願いを胸に、私はくるりと体を店の方へ向けました。
「……さてと、そろそろオープンしようか」
「古川さん、俺も試食させてもらえるんですか?」
小松くんの期待が含まれた弾む声が、しんみりした私の気持ちを少し和らげてくれて、自然に笑みがこぼれます。
「お仕事を一生懸命してくれればね」
「やった!じゃあ決まりですね」
確信しきった堂々たる笑顔で、やる気に満ちたように肩を回す仕草を見せました。男の子特有の、単純さです。
さぁ、『CLOSE』と表示した木製のプレートを『OPEN』に裏返して、今日という素晴らしい一日の幕を開けます。
来店してくださるお客様が、笑顔になってくれる事を願いながら。