わずかな勇気
「……あ。おはようございます。」
「…………。」
いつもと変わらず、会釈だけ返ってくる挨拶。それが気まずいような、いい加減心地よいような、何とも言えない今日この頃。
自分にもこんな時期があったな、とひと回りほどしか違わない過去をしみじみ振り返るようになるとは、時間の流れというものは実に残酷なものである。まあ、性別も違えばそのデキだってまるで違うのだが、そんなことは今この場においてはとても些細なことだ。
今日こそは何かが変わるかもしれない、なんて夢見がちで多感な時期はとうに過ぎ、こなせどこなせど終わりの見えない業務と目まぐるしく変化する社会のただなかでもがき続け、ふと気がつけば20代も残りわずかといったところ。
こんなんでいいのか、とどこか抗うように自問していた人生は、こんなんでいいのか、となかば無理やり言い聞かせるようになっていた。
それでも、東京という街にいつまでもしがみついているのでは説得力のかけらもない。期待していない、諦めたという言葉はいつの時代も質量を伴っていないのだろう。何となくだが、分かってきた。
「お次にお待ちの方、どうぞ。」
「お願いします。」
最寄りの駅と自宅のちょうど間くらいにあるコンビニに入り、お決まりの文句が耳に入る。
昔は早起きをして弁当なるものを作り、そのあまりを朝に食べていたが、最近はろくに朝食もとらず、もっぱらゼリータイプのエネルギー食品で飢えを凌いでいる。
昼食は会社のそばにある飲食店に入るか、コンビニで買うかの二択。朝にもコンビニに寄るのだからそこで買えばいいものの、朝のほとんど回らない頭ではお昼に食べたいものひとつ決められない。
食事を作らないかわりに捻出されたであろう時間を睡眠時間に充てればいいものの、何気なく開いた動画サイトをいつまでも消せないまま、電池切れのスマートフォンと同衾しながらロマンスの欠片もない朝を迎える。
昨日見ていたものの少なくとも三割は何も思い出せないのだから、早く寝てしまえばよかったと自己嫌悪に陥る朝。それはいつも、自分の心とは裏腹にどうしようもなく眩しかった。
店員とのやり取りもそこそこに、何の感動もないまま最寄りの駅の広場へ向かう。
三年ほど前までは周囲の目なんて心底どうでも良かったが、何となく悪いことをしているような気がして駅のホームでゼリーを流し込むのはやめた。時代か老いか、一抹のきまり悪さに耐えられなくなったのである。
社会人になりたての頃に決めたよりも二本ほど遅い電車に乗り、戦場とも墓場ともつかない地へと向かう。
押し寿司のような混み具合ではないにしろ、その残滓というか瘴気がいまだまとわりつく車内は、なけなしの生気さえも奪っていく。
車内の大半の人間がそんなに嫌なら辞めちまえ、と悪態をつこうと誰も口に出すことはしないから、我が国の同調圧力というものはたいそうご立派なものである。かくいう自分もその一員であることからは目をそらしつつ、待ち遠しさなどつゆほどもない目的地へと揺られていく。
定時などという概念はまやかしだ。
世間一般の勤め人より遅い出だからといって定時を過ぎて良い理由にはならないはずだが、なぜか年度末というだけでこんな時間まで働いている。疲労はあるが酒を入れる気にもなれず、ただまっすぐ、あの壁と布のあるだけの部屋まで帰るのみだ。
なにか懇ろな関係があるわけでもなく、趣味らしい趣味もない。仕事が恋人かと問われれば、単にパトロンのような関係であるから離れがたいだけであって、情熱なんてものはみじんもない。
今日の業務が昨日のものとどう違うのか、それすらもあまり思い出せないほどだ。
そんな日々を繰り返すだけなのに、風呂をはじめとした生きるためにつきまとう身支度をひと通り済まさなくてはいけない。
誰に見せるわけでもないのに、なぜこんなにも手順を踏まなくてはならないのだろうかと、ほとほと嫌になる。ただどれだけ嫌になったからといって、その手順を踏まない選択を少しだけ不快に感じてしまう自分は、よく社会に躾けられたのだろう。
そんな社会へのせめてもの抵抗こそが動画サイトであり、今日もまた無機質な排熱だけが手に残る一夜を奴とともに過ごすのだろう。
繰り返し、繰り返しの日々。
強いて変わるとすれば道ですれ違うぼやけた顔と天気くらいで、あとは全て昨日までの使いまわしを疑いたくなるほどだ。
だからといって何かを変えようという気概はなく、今日という日を繰り返す、ただそれだけ。そう思いながら今日もドアを開けた。
「あっ、おはようござい……」
「……ざいます。」
制服姿から解き放たれたらしい若人から出た、はかなげで淡い笑みと音。まだ硬いつぼみのようなぎこちなさではあったものの、確かにそう感じられたのだ。
それは事の些細さと釣り合わないほどの衝撃で、出かかった挨拶もそのままについ唖然としてしまった。
その無様さをあまり気にも留めず、いつも通り会釈をしてから去る背中は、言葉では言い表せないほどに大きく感じた。
それからどのくらいの時間、そこに立ち尽くしていただろうか。
それは瞬きすらできないほどのわずかな時間だったかもしれないし、季節がひとつ過ぎ去るほど長い時間だったかもしれない。そんなくだらない考えをどこかにうっちゃり、いつもの道を行く。
「お次にお待ちの方、どうぞ。」
「お願いします。」
「……袋はどうなさいますか。」
「…………えっ、あっ。お、お願いします。」
いつもしているはずのやり取りに加わった真新しい問答の意味を理解できず、変に間が開いてしまった。
ただ自らがカウンターに置いた商品を見るやいなやその意味を悟ることのできた自分は、この時ばかりは腐っても社会人であったことを心底ありがたく感じたのだった。
いつもの駅前広場にたたずみ手元の袋を眺めると、サンドイッチがふたつとコーヒーがひとつ。
変化のない日常に浮かびあがる違和感はきっと、誰が見ても気づかない。もしかすると今日の自分でなければ、過去の自分をどれだけ集めようとも気づくことができないかもしれない。
そのほんのわずかな甘痒さが封を切らせたコーヒーは、自分が思うよりほんのわずかに苦かった。
お久しぶりです。朝日向です。
今回はごくありふれた、勇気ともつかない勇気のお話でした。
無機質な日常にどこか彩りが添えられたのなら本望です。