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クメールの微笑み  作者: 船木千滉
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第3話(その2)

すみません、誤植がありました!

お詫びして訂正します。

 帰国を前にして、私はプノンペン南西のシアヌークビルへ行くことにした。


 ここは前国王の名を冠していて、首都プノンペンから南西はへ約250キロの距離にある。日本のODAで開発されたハイウエーAH11の国道4号線を使っても、その道路事情から五時間は掛る。


 朝六時、私は補佐官の紹介で採用したトォアの運転で、プノンペンのホテルを出発した。


 彼は補佐官の古い友人の息子で、シアヌークビルの出身だった。補佐官と彼の家で夕食を頂いたことがあった。初対面のとき彼は、若さには似合わない憂いのある表情をしていた。


 彼は採用後プノンペンへ移り、補佐官の邸宅近くにあるアパートへ夫婦で住んでいた。通いで邸宅の手伝いをする奥さんは色白で、華僑の出であろう。ただトォアは今も憂いを帯びた表情をしていた。


 朝ホテルを出たころに夜が明け、街にはメコン川から立ち登る朝霧が靄っていた。私は助手席に座っ/て、窓から移ろう朝を見ていた。


(また俺も遠くへ来たものだ……)


 二十年勤めた商社を早期退職で辞めて五年、割増の退職金の一部を使って有限会社を興したが、仕事柄あちこちを訪ねて歩いた。そんな私でも、プノンペンの街の夜明けは殊のほか郷愁を覚えていた。


 そんな感傷に耽っている私に、トォアが話しかけてきた。

 とかく相手の顔色や心を読むのは、決してサリーの婦人だけではなかった。


「ここが、ポルポトのミュージアムです」

 そう言ってトォアは私の目を覚まそうとしたのか、左前方の建物を指し示した。


車は日産の中古でアメリカ仕様の左ハンドル、すでに25万キロは走っている。組合員の会社が扱う車を輸出してきた。ただ買手がつかないまま、現地で社用に使っていたのだった。


 トォアは正面を見据えたまま、控えめに右手を上げていた。

「ボス、今度ミュージアム、見に行きますか……」

 と、トォアが珍しく自分から質問をしてきた。


「うん?、いや止めとこう。俺はSight seeingじゃあないし」

「Yes……sir」

 と、彼の返答がいつにも増して暗かった。


私も感受性に関しては、トォアに負けず劣らず持っていた。だが正直、私は虐殺の跡を見たくなかった。それが例えこの国の歴史だとしても、である。


 初めてカンボジアを訪ねてから、もう何度も補佐官と会っていたが、彼は、幼少期にメコン川の畔でテニスをしたことや、モスクワ留学のときのことは話したが、ポルポトに触れたことはなかった。


 それはカンボジアの黒歴史だからかも知れない。だが私にしてみれば、まずこの国で自分にやれることをするのが先だと思っていた。q


 ただ私は、そんな自分の考えをトォアに話したことはなかった。


  車は郊外へ向かい早朝の光景は爽快だった。空には一点の曇りもなく、窓の外はどこか見慣れたものに変わり、そこで大勢の人が三々五々働いている。道は狭いのだが、トォアは速度を上げた。


 遅い車がいれば、赤土の側道へ飛びだしては追いこす。集落に入れば道沿いにバラック建ての店が並び、その前に車が何台も停まる。


 やがて目新しい工場に近づくと、人間を満載したトラックやバンが次々と到着する。その前で車から降りて工場へ通う連中相手の、いかにも稚拙な屋台がフル回転していた。


だがそこを過ぎれば折から常夏の陽の下、行く先にアスファルトの逃げ水が見え隠れする。


 高速道路とは名ばかりで、赤茶けた側道との間を白線が仕切り、低木の緑に覆われた小高い丘の真ん中を、車は軽快に走っていった。


 途中ハイウエーの左右には水田が広がり、酷く痩せた水牛が雄々しい角を突きあげては白い体を身震いさせる。その傍らにはまだ幼子にしか見えない子供らが、狭い畔道で飛び跳ねて遊んでいた。


「この辺は、平和だね……」


 やはりプノンペンを離れて、私は身も心も解放されていた。そんな私に、相変わらず無口なトォアが前を見たまま答える。


「ええ……、でも、みんな貧しくて――」

「ああ……、でも私が子供の頃、日本も同じように貧しかった」


「Is that so……」

 と、トォアは素っ気なく呟いた。


それを聞いて私は、なんの気なしに放った言葉を後悔した。考えてみれば彼はまだ二十代、私と二まわり違う。そんな彼に、的外れなことを言ったのかも知れない。


 それはもう二十数年前、私が畑違いの重役と話していて感じた孤独感、いや疎外感のようなものを与えたのではないかと危惧した。


 当時私は、月に百五十時間を超える残業に追われ、なにかと仕事の憂さを晴らさずにはおれず、街へ飲みに出ることが多かった。


 三つ子の魂百までもではないが、大学を出て造船所に入った私は、ある意味初心だった。その造船所がつぶれて、三十歳で転職した商社は派閥争いに明け暮れ、最後は力関係ですべてが決まっていった。


 かつては無から始まり、良い船を造るために酒を飲んで激論した。だが商社は、創意工夫しても利益が出なければ無に帰した。酒は憂さを晴らすために飲むものだった。


そんな私は、いつしかポルポトの悪行を見ずして、牧歌的な風景を愛でる男に成り下がっていた。


 確かに車窓の風景は昔の日本に似ている。だがそれがどうした。私は自分の心の変遷に気付きながら、それでも私は黙っていた。


「ボス、なぜ日本人は一年に三万人も、Suicideするのですか?」

 と、トォアが突然そう切りだした。ここは私も答えねばなるまい。


「ああ……、この前市内の学校を訪ねた時も、女の子が聞いたね」

 と、構えて答えた私は、この際彼とじっくり話そうと覚悟した。


(つづく)

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