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クメールの微笑み  作者: 船木千滉
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第6話「遺跡に響く僧侶の声」(その1)

 侍が落書きともいえる墨書を残したのが十七世紀ならば、いずれにしても江戸時代の初めである。実際にジェット機が飛ぶ現代であっても、日本からカンボジアへ入るには一日仕事である。


 それが江戸から長崎まで一ヶ月以上もかかって歩いていた時代に、数千キロも離れたカンボジアへ、いったいどうやって辿り着いたのかというのか。


 それを思うだけで、私の頭に蔓延っていた宿酔いが薄らいだ。トォアとサムについて回廊の中を歩きながら、ひとり空想に耽っていた。


 アンコールワットは、もはや朽ち果てた遺跡でしかない。だがそこを訪れる観光客を相手に、様々な仕事を生業とする人々が集い、日々の生計を立てている。


 元々ヒンズー教の寺院として建てられたものの、為政者の衰退で放棄され、その後仏教寺院として再建されている。宗教寺院を中心の人が集うのは、古今東西なにも違いないのであろう。


 歴史小説を読み漁る私としては、なんとか拙い知識を繋ぎあわせて空想を増強しようとしていた。侍が遺跡を訪ねた頃、戦国という未曾有の混乱は収まっていた。その点、敗戦後の日本と近しいものがある。


 勝ち負けはともかく、戦後の復興に向けて為政者の目は海外へ向かう。


 バックパッカーではあるまいし、一人の侍が母の病気治癒のために数千キロの旅に出るとは思えない。その裏には秀吉との戦で衰退していた明を探るとか、アジアの国情を見るとか、何らかの密命があったのではないか。そんなことを思い巡らすうちに私の脳は覚醒していた。


 俄然興味が湧いてきた私は、サムにもらったペットボトルの水を一気に飲んで、あとは麦藁帽子を取って頭の天辺からかけた。心身共に目を覚ませと、犬のように身震いして自分を鼓舞したのだった。


 まるで異星人でも見るようなトォアとサムの表情をよそに、私は回廊を周りはじめた。この遺跡、朽ち果ててはいたが、至るところにはっとするものがあった。生けとし生けるもの皆共に今を生きていた。


 回廊の周りにはゆったりと草を食む水牛がいた。見るからに痩せ細った体なのだが、それはいかにも草を美味そうに反芻している。


 そうかと思えばガジュマルの太い根の上に立ち、森に向かって手を合わせる僧侶がいた。黄金色の袈裟を身に纏い、聞き慣れぬ念仏を唱えていた。


 だがそれは聞いているだけで腑に落ちるような気がした。

(ひょっとして侍は、ここが祇園精舎だと思ったのか……)

 まさかと思いながら戻ってみれば、もう僧侶はいなかった。


 そこにはガジュマルの樹に冒された土塀や、朽ち果てた石の伽藍があるばかり。だが私の耳の奥底には、顔の見えぬ僧侶の声が響き続けていた。


(つづく)




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