(90)見上げた空は… (完)
悠汰の2歳の誕生日の日。
麻矢の実家に呼ばれた。
両親が海外に旅行に行っていて留守だから、結莉も呼んで、広いお家で、悠汰の誕生日パーティをしてくれることになった。
結莉は、少し仕事で遅れると連絡があり、前日から実家に戻っている麻矢が迎えに来てくれるのを、駅の改札で、悠汰と二人、待っていた。
この駅に来ることも、この改札に立つことなど、もう、ないと思っていた。
霧のようだった雨は、雪に、変わりはじめていた。
珍しい…東京に雪。
「ゆき!」
空を見上げた悠汰を見て、思い出してしまった。
初めて会ったあの雨の日。
雨が降っても思い出したことなんてなかったのに…
なぜ、今日、雪なのに思い出してしまったのか。
この駅に来たからかもしれない。
自分で自分が、おかしくなった。
「ママ、たのしい?」
「ん? ふふっ。うん! 悠汰と一緒だし、雪降ってきたしね? すごいね? 雪」
一人で笑っている私を変に思ったのか、悠太が、不思議な顔をしていた。
「もうすぐ、まーたんが迎えに来るからね? 寒くない? 大丈夫?」
「うん!」
私は、あの日と同じように、空を見上げた。
一人で見ていた雨の落ちる空。
今は、小さな手を握って、雪の降る空を、見ている。
俺は、雪の中を走っていた。
3日前、麻矢から連絡が来た。
「悠? 土曜日は、お家にいるの?」
「いるよ? なに?」
「ん? 別に? いるなら、いいわ」
麻矢は言葉尻を濁した。
そして、数分前、今さっき、その意味がわかった。
「悠? これから駅に行きなさい。彩香と悠汰が待ってるわ」
麻矢から、電話が入った。
携帯を放り投げ、麻矢が置きっぱなしにしていったピンクの傘を握って、
俺は、駅に向かった。
歩道に吹きつけ、俺に吹きつける雪の中を走っている。
ねぇ、彩香、知ってる?
あの雨の日から、俺の全てが始まったこと。
君に傘を差し出して、俺の恋は、始まった。
少し格好つけて、貸したピンクの傘。
君は驚いた顔をしていた。
俺は、すごく君のことをかわいいと思った。
次の日から、俺は、何度もあの駅に通ったんだよ。
電車になんて乗らない俺が、出かける時は、電車に乗ったり、
用もないのに駅のスーパーに行ったり、君に会いたくて、探したんだ。
ストーカーみたいだけど、俺は真剣だった。
だけど、会えなくて、見つけられなくて。
君が、麻矢と一緒に家に居た時、俺はどうしていいか、わからなかった。
君は酔って、頬に涙の跡を残して眠っていた。
あの時、神様に、麻矢に、感謝した。
駅に着く頃には、ぼたん雪になっていた。
小さな手を繋いで、雪空を見上げている彩香を、見つけた。
空を見上げている彩香、あの日と同じだ。
俺の息は、切れて苦しいけど、顔は、微笑んでいる。
彩香がいなくなった日から見ていた長くて辛い夢。
俺はその夢から覚めても、いいんだよね。
俺たちは何も、変わっていないよね。
もう一度、ここから始められるよね。
俺は、彩香の後ろに立った。
俺に気づいて、振り返った下から見上げる大きな瞳に、
「シー」と、静かに口に指を持っていくと、
同じように「シー」と、口元に小さな指を、あてる。
悠汰のママはね、悠汰のパパの一番大切な、大切な人なんだ。
俺は、彩香を後ろから静かに抱きしめたまま、ピンクの傘の柄を、彩香の腕にかけた。
「よろしかったら…どうぞ。3人じゃ、小さいかもしれないけど、
彩香と悠汰と俺と、3人でいれば、雨でも雪でも、暖かいよ、きっと」
彩香を抱きしめていたあの頃と、変わらない大切なぬくもり。
俺たちは…何も変わっていない。
いつも俺は、君の傍にいるよ。
彩香、君がいつ振り返っても、俺はここにいる。
とても長い話数でしたが、読んでいただいた方、本当にありがとうございました。