(9)泣かさせていただきます
月曜日。
金曜日に提出した辞表はまだ受理されていないが、一応あと一ヶ月でこの会社から
離れる予定だ。
部長からは「寿退社か!!」とうれしそうな顔をされたが、「ちがいます」という
冷ややかな私の顔を見て「あっ、だよな…うんうん」変に一人で納得された。
今日は、仕事終わりに麻矢の家へ行く約束をしている。
地元の駅から自分のマンションに向かう途中にある並木道沿いに、4階建ての建物がある。
マンションなのか、一軒家なのかよくわからない少し変わった大きな建物。
人の出入りも多いようで、いつも不思議に思っていた。
そこが、麻矢の住まいだった。
6時30分過ぎに駅に着き、麻矢に連絡を入れた。
ディナーの準備もそろそろ終わるので「早くいらっしゃい!」と言われ、駅から走った。
麻矢に何か言われると、ついついダッシュをしてしまう自分……犬かよ。
建物の前に着いた。
マンションのようなエントランスではなく、大きな扉が二つ並んでいる。
玄関が二つ…?二世帯住宅?
私がドアの前でうろうろしていると、一つのドアが開き、若い女性が出てきた。
「なにか…?」
「美坂麻矢さんのお宅は…」
「美坂さんでしたら、あちら側ですけど?」
私はお礼を言って麻矢の家のチャイムを鳴らした。
「は~~い」 インタホーンから麻矢の声がした。
「彩香です、着きました!」
「そのまま中に入ってエレベーターで4階に来て!4のボタンを押すのよ!」
……子供じゃないんだから、4階のボタンくらいわかります…
言われるままにロックの外された玄関を入り、4階に向かった。
エレベーターが開くと麻矢が待っていてくれた。
「あ~~ん。シメジ~~まってたわよ~」
「は、はぁ…どうもお邪魔します…」
麻矢が思いっきりハグッてきた。
い、良い香り…。クンクン~。
犬だ。やっぱり私、犬になってる…
麻矢から漂ういい香りと胸の柔らかさに、女ながら照れてしまった。
「さっ、早くお入りなさい」
「これ、私が大好きなお菓子なんです。麻矢さんのお口に合うかわからないけど、
おいしいので召し上がってください!」
手土産で買ってきた会社の近くの和菓子屋のお菓子を渡した。
「うふっ。ありがとう~いい子ね、シメジ!」
すでに『シメジ』といわれることになんの抵抗もなくなっている自分がいる。
広いリビングに通された。
落ち着いた色合いの家具、シンプルに統一された綺麗な部屋。
奥にあるダイニングテーブルの上には、すでに和洋折衷の料理が用意されていた。
「今日は悠が仕事で3時ごろ出かけちゃったから、二人で楽しく食べましょう?」
なんだか麻矢を見ていると、すべてが完璧な人間に思えてしまう。
綺麗でスタイル抜群で上品で、時折怖いけど基本やさしい。
料理も上手で、住まいもデカイ家…
一度しか見た事のない悠の顔は忘れつつあるが、悠にはもったいない女性に
思えてくる。
二人で散々食べまくり、リビングに移動した。
「シメジはお酒OK?」
「ん~飲めることは飲めるけど、得意なほうじゃないです」
「じゃ、軽く飲みましょ?」
麻矢はソファの前のテーブルにお酒を並べ始めた。
ウォッカを飲んだことがないと言ったら、すぐ出てきた。
私は今までにないくらい、いろいろな種類のお酒を飲んだ。
というか、飲まされた。
ぜんぜん軽くはなかった。
そして、酔いにまかせて麻矢に孝志の話を始める。
男と別れたこと、孝志への未練などないのだけれど、
「子供なんていらないよと言っていた孝志が、浮気相手に子供ができたからと、
とっとと相手の女の所に行ったことがムカつくんです!!」
延々と訴えている私に、麻矢は「うんうん」とずっとやさしく聞いてくれていた。
話している途中から、やはりこれは未練なのかと自分で自分が可笑しくなり、
笑いが出てきたが、それはいつしか涙になった。
鼻を啜る私の膝に麻矢はティシュの箱を乗せた。
「シメジ!そんなシクシク泣いてないで、声だして泣いたら?
誰も見てないんだから!ね?」
「うっ…ま、まやしゃ~~~ん」
麻矢の膝に、顔をうずめて泣きはじめた私の頭を撫でながら言った。
「シメジ?おめでとう!」
「……」
優しい声の麻矢、だけど言葉の意味がわからなかった。
「これから新しい恋が出来るのよ!それに次はいい男見つけて、素敵なことが
たくさん始まるの。わかる?だからね、今日は思いっきり泣きなさい。
我慢しなくていいから…泣いて、明日また日が昇ったら笑おう、ね」
「まやしゃん…まやしゃんは、おとにゃでしゅ…うっ、うぇ~~ん」
ほとんどロレツの回らない泥酔状態の私だったが、麻矢の声はちゃんと心に
入って来ていた。
麻矢のかけてくれた言葉に、喉までで止めていた悔しさがあふれ、
涙がどんどん出てきた。
酔っぱらいながら泣いてひどい顔だったに違いない。
だけど、泣くということは大切なことだとも思った。
次のステップに進める。