(89)愛しているから…
麻矢の店「テオーリア」に、結莉は、来ていた。
個室に入り、麻矢と相談することにしたが、呼んでもいない修平も付いて来ている。
「なんで修平くんが付いてくるのよ! 来なくてもいいって言ったでしょ?」
「いいじゃねーかよ! 俺だって悠たちのこと心配してんだぜ!
それに結莉が、他に隠し事してねーか、それの方が、心配だし…」
「よく言うわよね。修平くんだって、悠と、こそこそ隠れて彩香のこと
調べていたじゃないの?」
「まぁまぁ、お二人さん、落ち着いてよ。いやぁ~ね、こんなところで喧嘩なんかして、
ほんとにもぉ、恥ずかしぃったらありゃしない」
麻矢は、グラスにワインを注ぎながら、見慣れた夫婦喧嘩に、呆れて言った。
「麻矢、おまえの話し方、年寄りくせーんだよ! 年齢ごまかしてんじゃね?
10万60歳くらいなんじゃねーの?」
「んまっ!!! 乙女をつかまえて!! なにが年寄り臭いのよ!!
それに10万って何よ! 私は亀じゃないわよ!」
「あっ、もう亀取っちゃったんだっけ? あはははは~、悪りぃ悪りぃ~」
「キィーーーー!! なんなのよ!」
修平の言葉に、麻矢は、ワイングラスをテーブルにバンッと、置き、憤慨し始め、
今度は、修平と麻矢が揉め始めた。
「……あのさ、早く相談しよ。それに、いくら亀でも10万年は生きられないし、
修平くんさぁ、下ネタ止めようね? お下品んだから」
結莉が、真顔で二人を見て言った。
くだらない喧嘩のあと、3人が相談した結果、結莉が、彩香の本当の気持ちを、訊くことになった。
ただ、修平と麻矢は「こいつに任せて大丈夫か?」という疑問は、持っている。
いつも突拍子もないことをしては、周囲を振り回す。
笑ってごまかすのも、結莉はお得意だ。
そして、麻矢が、悠汰が悠のことを「パパ」と呼んで、ビックリしたと話すと、
結莉が、手を上げた。
「あっ! それ、私!」
「何が?」
麻矢と修平が、不思議な顔をした。
結莉は一人、勝手に作戦を開始していた。
悠汰が生まれて三ヵ月後、結莉は、一人で北海道にやって来た。
悠汰に会うのは、出産以来二回目だ。
そして、その日から始まる「作戦」の長期計画を持参していた。
クレジットカードサイズのクリアケースに悠の写真を入れ、ポケットに忍ばせ、
彩香が別の場所に行っている時、お風呂に入っている時、夕食を作っている時、
結莉は、常に悠汰と二人きりになる瞬間を、いつも待っていた。
二人になると、ポケットから悠の写真を、悠汰に見せていた。
「これがパパ! パパだからね! パパだよ!」
悠汰が「ばぶ ばぶ」と、言うと、結莉は満足気に「よしよし」と、頭を撫でていた。
万が一会った時、どんな角度の悠をみても分かるように、写真はたびたび新しい物を用意した。
結莉いわく、
「悠汰サブリミナル攻撃! いつかは会える!」長期作戦で、ある。
それは、悠汰が1歳になり、もうすぐ2歳になるいまでも、続けられていた。
悠汰が、話せるようになると
「ママには絶対内緒!」と、おもちゃで釣り、写真を見せていることを口止めさせていた。
「てなわけよ! あはっ! これで少しはおもちゃ売り場から解放されるわぁ。
でもデパートで会ったとき、悠汰なんにも言わないから、作戦失敗かと思っちゃった
あのあと、悠太にもう一度、復習させたんだぁ、私!」
「……」
「……」
麻矢と修平は、まったくわけのわからない作戦に、ポカンとした。
「よくそういうこと考えられるわよね~結莉。もし、会わなかったらどうなってるのよ」
「絶対、会えると思ってたよ? ふふん~」
結莉は、ピースをした両手を顔の横につけ、少し上を向いて、鼻高々に言った。
「だよなぁ! 俺たちみたいに、運命で繋がってると会えちゃうんだよ、なっ!」
「ね~! 修平くーん!」
結莉と修平は、ハグッた。
「……バカ夫婦…」
「なんか言った?」 「なんか言った?」
二人は、声を揃えて、麻矢を見た。
「ステキなご夫婦~って…」
麻矢は引きつった顔のまま、ワインを飲み干した。
☆☆☆☆☆
修平が関西で仕事のため、一人でつまらないから、悠太を連れて遊びに来るように、結莉に誘われた。
悠汰を寝かせたあと、二人で飲み始めた。
「彩香は、何のために悠から、離れたんだっけ?」
つまみを突いていた私に、結莉が、いきなり訊いてきた。
私が、悠から離れた理由。
悠のため…、彼の先のことを、将来のことを考えたから。
私には、悠汰がいれば、いいと思った。
「私さぁ、20歳の時に、事故で両親と婚約者一度に、亡くしているでしょ?」
結莉は、自分の過去を話始めた。
「あの時…あの時から、愛する人を失うのが、ものすごく恐くなったの」
少しだけ微笑み、結莉は、続けた。
「ねぇ、死んだ人、触ったことある? 冷たいんだよね、すごくさぁ。
何を問いかけても、何も答えてくれない。
なぜ自分だけ生きているんだろうって、毎日毎日夜ひとりになると考えていた。
その時思ったの、私には、何が残っているんだろうって。
何もないじゃない…? 愛していた人たちが、いないの…。
何も残っていない、失うものが無くなった者は、一番強くて恐ろしい。
だけど一番弱くて悲しい。何度か、死のうと思ったんだよ? こんな私でも。
ホームの上にいて、あと一歩踏み出せばいい…って感じの所に立っていたこともあった。
だけど、その一歩を神様は、許してくれなかった。生きなさいっていうことかな? 」
今日の結莉は、いつもと違っている。
テキーラを目の前にして、手をつけていない。
大切な話をしてくれているのが、わかった。
私は、黙ったまま聞いていた。
「その後、修平くんに出会ってさ、好きになっていった。
今度は、彼がいなくなったらどうしようって、恐くて、恐くて、どうしようもなくて、
修平くんから逃げた、自分のためにね。私は…、自分のために逃げた…」
「だけど、修平くん、追っかけてくるんだよね…、あはは。
失う前から逃げてる自分におかしくなってさぁ。ちゃんと、修平くんと向き合った。
そしたら…、そしたらね、修平くん、暖かかった…。
生きてんだもん、当たり前なんだけどね、ふふふ」
結莉は、笑いながらも、少し涙ぐんでいた。
そして、結莉は、私の目を真っ直ぐに見て言った。
「彩香は、悠のこと、愛してる」
「えっ…」
結莉は、疑問符ではなく、断言して私に言う。
結莉は、いつも直球を投げてくる。
それは、私がいつも逃げようとしているところに、投げてくる。
「そのバングル…、悠とお揃いでしょ?」
私は、思わず、バングルをシャツで隠した。
悠がくれたバングル。
一度も外していない。
外したくなくて、悠のこと忘れたくなくて…
どこかで繋ぎ留めて置きたかった、悠とのこと。
「見て?」
結莉が、胸元からネックレスを出した。
細い鎖には、リングがペンダントトップとして、付いている。
「これね、婚約指輪。死んじゃった彼との。ずっとつけてるの…離れたくないし、
忘れたくない。だけどね、これは、もう、すでに思い出の品!」
そう言うと、結莉は、私の右手を掴んで、持ち上げた。
「ねぇ、彩香? 彩香のこのバングルは、思い出じゃないんだよ? まだ生きてる。
悠は、死んでなんかいない。彩香は逃げる必要はない。離れる必要もない。
それなのに、彩香は、悠から大切なものを奪って、悠汰から大切なものを取り上げた。
それが何か、分かるでしょ? 悠から奪ったもの、彩香自身と悠汰。
悠汰から取り上げたものは、悠。悠が一番可哀相、捨てられた女に今も愛されている!
悠と悠太のしあわせ、考えたことある?」
そう言い終わると結莉は、今日、始めてのテキーラを口にした。
私は、何も言えなくなった。
悠と悠太のしあわせ……。
悠のためと思っていたこと、それは、誰のためでもなかったの?
私の勝手なわがままだったのかもしれない。
だけど、悠には…もう…
私は、デパートで会った悠と一緒にいた女性のことを、思い出していた。
悠は、もう、前を向いて歩いている。
私が願っていたように。
「……悠には、もう彼女がいるから…」
「あぁ、あれね、あの女ね…ん…あれは…」
結莉も、思い出したようだった。彼女の存在。
「だから、私はもう……私には悠汰もいるし、結莉さんや麻矢さんもいる。
大切な人が沢山いるから大丈夫! 悠には、悠の幸せを見つけてもらいたい」
「それは、悠をまだ愛しているから?」
「うん! 悠を愛しているから!」
「んー、そっか! わかった!」
結莉には、嘘はつけない。
すべて見透かされてしまう。
結莉はそのあと、悠のことは一切話題にせず、修平のバカ話や麻矢のまぬけな話をオフレコと言って、笑いながら話してくれた。
私は、悠を愛している。
ずっと愛している。
悠がしあわせならそれでいい…
自分で決めたことなのに、涙が出てくる。
私は…うそつきだ…
本当は、悠のそばにいたいと、ずっと思っている…
だけど、振り返ることなんて、できない。
そこには、悠は、もういない…。