(88)悠汰
「麻矢さん、ごめんね。じゃよろしくお願いします」
午後4時、会社から麻矢に、電話をした。
どうしても今日中に終えなければならない仕事があり、上司は、誰かかわりのものにやらせるから残業はいいよ、と言ってくれたが、自分の仕事だったため、麻矢に悠汰の夕方のお迎えを頼んだ。
6時お迎えで構わなかったが、麻矢が「暇だし、悠汰と遊びたい」からと、すぐに迎えに行ってくれた。
麻矢が、悠汰を託児所から引取り、車に乗せているとき、携帯が鳴った。
「麻矢? 加山です。郵便物がたまってんだけど、悠に頼まれたものもあるの。
麻矢に渡しておいてくれって。なんか、昨日、矢作宛のも来てたし、矢作くん!」
「ちょっと、矢作矢作って連呼しないでよ!」
電話の向こうで加山は、笑っていた。
麻田矢作宛の郵便物は、重要なものが多い。
すぐ取りに行かなければいかない。
だけど、悠汰がいる。
「ねぇ、加山ちゃん? 今日は、悠はいるのかしら? お家に」
「昨日から関西に行ってるわ。帰りは明日…、午前中の新幹線の予定」
麻矢は、これから事務所に向かうと伝え、電話を切った。
「悠がいないんなら、問題なし! っと~。悠汰?
麻矢ちゃんちに帰る前に、ちょっと寄り道しよっか~」
後部席のチャイルドシートの悠汰に、言った。
「どこ!?」
「ん~、おいしいお菓子が、あるところよ!」
きっと、タレント部に行けばお菓子はあるだろうと、考えていた。
麻矢は、吉田プロに着き、事務所には悠汰を連れていけないので、4階の部屋に悠汰を連れて行った。
悠汰の鞄からお絵かき帳とクレヨンを出し、リビングの床の上で広げた。
「悠汰! 麻矢ちゃんダッシュでお菓子取りに行って、ダッシュで戻ってくるから
ここで麻矢ちゃんの美しいお顔を描いていてね、動いちゃダメよ?」
「うん!! わかったぁ~」
「あっ!! くれぐれも麻矢ちゃんのお顔には、点々のお髭をかかないようにね!」
「うん!! おひげ、やーたん!」
「……」
だまったまま麻矢は、リビングを出た。
「もぅ、完璧に女になっているのにぃぃぃぃぃ…うっ!
髭なんて生えてないでしょ! 結莉のバカ!!」
「髭の矢作」を描いて悠汰に見せたのは、結莉だった。
今では、そのお絵かきが、悠汰のお気に入りになっている。
麻矢は、バタバタと急いで、事務所に下りて行った。
******************
俺は一人、地方の仕事から1日早く東京に戻り、自宅の前でタクシーを降りると、
麻矢の車が止まっていた。
麻矢が戻って来ているのかと思い、事務所には寄らず、そのまま4階に上がった。
玄関のドアを開けると、小さい男の子の靴が揃えて、置いてあった。
「麻矢? 来てるの?」
不思議に思いながらも、リビングの扉を開けた。
誰もいない?
「麻矢? 子供の靴……、うわぁっ!!」
俺が、ソファの近くに行くと、子供が床の上でクレヨンを持って、俺の方を向いていた。
正直、ものすごく驚いた。
「彩香の…こ、ども?」
彩香の子供も驚いたのか、大きな目を見開いて、こっちを見て、固まっていた。
彩香もよく固まっていた…親子だ…。
「ご、ごめん…。ボクは…ママと一緒に…来たの?」
俺は、近づいて、彩香の子供と同じように、床に座った。
「まーたん!」
「まー、…たん…? 麻矢のこと?」
「うん! これ! まーたん」
見せてくれた絵は、肌色の上に青い点々が、散りばめられていた。
「………よく、わから…ない…」
彩香の子供がどうしてここにいるのかなんて理由は、どうでもよくて、
俺は、ただずっと彩香の子供を、見つめていた。
「名前…なんていうの? ん?」
「…うーたん!」
彩香の子供は、くれよんをもったまま、お絵かきをしながら答えた。
「うーたん…って、あはは~」
なんか、子供番組の人形の名前みたいだなぁ。
うーたんと言うことは、牛男とか、牛太郎、梅之新とか?…ありえん。
自分で考えておいて、アホらしくなった。
「うーたん、いくつ?」
顔を上げ、「にー」と言いながら、小さい指は1を、作っていた。
彩香はあの時、あと3ヵ月で2歳と言っていた。
あと、1ヶ月で2歳か。
あはは~、かわいいや~。
彩香の子供…
俺の心は、切なくなっていく。
悲しくなった。
「お兄ちゃんね、悠って言うんだ」
「うぅ?」
「ははっ、うー、じゃなくて、ゆう」
「うー! うーたん~」
……えっ?
俺は一瞬、指先に衝撃が走った。
「う、うーたんも ゆうっていう名前なの?」
「うん! うーた」
「うーた?……ゆーた?」
「うん!」
…………
俺が、ゆうたの頬を触ろうとした時、バタバタと足音が聞こえて、リビングのドアが開いた。
「悠汰~、おいしいプリン貰ってき…た…ぁぁぁぁ…」
急いで走って戻ってきたのか、麻矢は髪を少し乱し、手にはプリンと郵便物を持ったまま俺の顔を見て、目を真ん丸くしていた。
「まーた~~~ん」
ゆうたは、お絵かき帳を持って麻矢のところに、走って行った。
「麻矢?…この子…」
「あー、あのねー、頼まれたの。シメジ、今日、お友達と、お、お出かけで…」
「彩香って、北海道にいるんでしょ?
デパートで会った時、東京に遊びに来てたんでしょ? まだ東京に…いるわけ?」
「……ん、最近…だんなさまの出張で、よく、」
麻矢が話し始めたとき、俺の携帯が、鳴った。
修平からだった。
「もしもし…」
「悠か? 彩香、東京に住んでる! 結婚なんてしてないし、子供の名前は」
「ゆう…た…?」
「え? そうだよ? なんでおまえ知ってんの? 悠と同じ悠の字の悠汰だ。たぶん悠の」
「俺の子ど…も…?」
「へ? そうだよ? なんでおまえ知ってんの?
彩香が子供産んだ時期から計算すると悠の子供だよ! 彩香が浮気してなければ!」
修平は、一言多い。
「うん……修平さん、ありがとう。今、俺の目の前にいるよ。悠汰…」
「…そうなんだ……って、ぁあ!?」
驚いている修平には簡単に説明して、後で掛けることを伝え、電話を切った。
俺が、電話を切り終えると、麻矢は悠汰を連れて、リビングを出ていこうとした。
「麻矢! 待てよ!」
すぐに駆け寄り、麻矢の腕を掴んだ。
「本当のこと話せよ! 彩香、どこにいるんだよ! 言えよ!!」
俺が怒鳴ったせいか、悠太がビクッとなり、麻矢の足に、しがみ付いた。
「ご、ごめん…悠汰…」
悠汰の目線に合わせしゃがむと、悠太は、澄んだ目で俺を真直ぐに見て、
少しジッと見つめてから、言った。
「パパ……パパー!」
えっ…?
そして、抱きついてきた。
俺も麻矢も、驚いた。
急に抱きつかれて戸惑ったが、俺は、悠汰を抱きしめていた。
その体は小さくて、とても小さくて、俺は、涙が止まらなかった。
☆☆☆☆☆
悠との電話の後、結莉が、修平に近づいて来た。
「修平くーん? なにまたコソコソしてんのよ!! このコソコソ男!!」
「んあんだよ~結莉!! おまえだって、俺に秘密にしていることあんだろ?
言えよ! はけ!」
今日の修平は、強気だ。
「はぁぁぁ? 何言っちゃってんの? 修平くんに隠し事なんて…あるわけ…ない」
結莉の肩を掴んだまま、睨みつづける修平に、結莉は、視線をずらし天井を見た。
「なに目反らしてんだよ」
「うちの…天井高いなぁ。あっ、あんなところにくもの巣が! あとで取ってね?」
「ざけんなよ、結莉。彩香と悠汰のことなんて、悠には、バレてんだからな!」
「ええええーーーーー! いつぅ!?」
「さっき!」
「……そう…、ん~、まぁね、こうなることはわかっていたから、
手は打っておいたわけよねぇ。まぁ。悠にも修平くんにもバレたんなら、いっか!
ね? うんうん」
結莉は、一人うなずきながら、修平の肩を、パンパンと叩いて、高笑いをした。
☆☆☆☆☆
俺たちは、リビングに戻り、3人でソファに座った。
麻矢は、全てを話すといい、俺は、プリンをおいしそうに食べている悠汰を見つめながら、
麻矢の話を聞いていた。
麻矢が言った、彩香は、「彩香自身、自分のために俺から離れた」と。
だけど、誰の目から見ても、俺のためだ。
それは、結莉や麻矢もわかっていて、彩香が決めた道ならば自分達はそれを見守るしかなかった。
出来る限り、彩香と悠汰を支えようと、決めていたらしい。
俺は、彩香がいなくなっても、ずっと愛している。
だけど、心のどこかに裏切られたという思いもあった。
裏切られるより、裏切ったふりをし、悲しい思いをしながら時を過ごし、生きていかなければならなかった彩香は、どんな思いだったのだろう。
傷つけ合い、別れてしまったわけではないと、思っていた。
でも、結局は、俺が彩香を傷つけたんだ。
「悠? あなた、彼女できたんでしょ? シメジのこと、もういいんでしょ?」
麻矢が少し尖った口調で、訊いてきた。
「彼女?」
思い当たるところがない。
「デパートで、一緒だった…女よ」
紀美代のことを、言っていた。
彼女は大学時代の友達で、あの日は、別の友達の子供のクリスマスプレゼントを買いに行っていた。
紀美代は、すでに結婚していて、ただの友達だと言うと、麻矢は手のひらを返したように元気になり、
「あら! やだわぁ~! 私ったら、やきもち焼いちゃったじゃな~い」
と言い、いつもの高飛車な笑いをあげた。
そして、帰り際、「今日のことは、まだシメジには言わない。もう少しだけ、ちゃんと彩香の気持ちがわかるまで待っていてほしい」と、麻矢に言われた。
彩香には内緒で「また近いうちに悠汰は連れてくる」と言い、麻矢は悠汰を連れて自分の家に、帰って行った。
悠汰が、どうして顔も知らない俺のことを「パパ」と呼んだのか、
麻矢も俺もわからないままだ。
麻矢が帰りの車の中で、悠汰に尋ねたが「ひみちゅ」としか言わなかったらしい。
…………もしかして、超能力? 透視? 天才!
すでに親バカな俺がいる。
そして、俺はデパートのおもちゃ売り場で、
家の中で子供が乗って遊べる『三輪車トーマト』の三輪車を買った。