(86)二年の月日
悠がくれた小さな命、今でも時間は、私たちを成長させてくれている。
だけど、そんな時間は、私の心の中から、まだ悠を消してはくれない。
「ありやとぅ。やーたん! ケーキ!」
「んぁ? ちょっと待って! 悠汰! やーたんて何? ん? お答えなさい!」
「やーたん! やちゃくぅ~~」
「……んなっ!」
麻矢は、私の顔を見て睨んだが、私は、とっさに目を反らした。
「…シメジ!!!!! どういうこと!
なんで『まーたん』が『やーたん』になっているの!」
「私じゃない、結莉さんだよ! この間、麻矢さんの本名を…教えてあげるって、
悠汰とお話してたもん~矢作ちゃんって…」
「んまっ! 悠汰? やーたんじゃなくてぇ、麻矢ちゃんって、呼びましょうねぇ」
麻矢は、必死に私の息子・悠汰に、自分の名前を教え直していた。
あの日、酔って眠っていた悠を残し、あの部屋を出てから、2年と少しだけ時が経っていた。
麻矢と結莉にだけ話した、私が、悠の元を離れる理由。
ゴーディオンの全国ツアーが始まって、終盤を迎えた頃、私のお腹の中に悠汰がいることがわかった。
私が「一人で産んで育てるつもりだ」と、言った時、麻矢と結莉は強く反対した。
悠に話し、二人で育てろと言われたが、私はどうしてもそれができなかった。
もし、子供が出来たと言えば、彼は、一生私たちの傍にいてくれたはず。
だけど、それは、私のわがままでしかない。
結莉が、私に訊いた。
悠から離れるのは「彩香自身のためなのか、それとも悠のためなのか」
「私自身のため」と、答えると「わかった…」と、一言だけ言った。
もし私が「悠のため」と答えたとしても、たぶん結莉は何も言わず、
うなずいてくれていたと思う。
ただ、自分たち、麻矢と結莉だけには、ちゃんと連絡を取るように約束をさせられた。
社長と加山には、本当の事は言わず、一身上の都合を理由に、悠のこともすべて終わりにして、北海道に帰るということを、麻矢に同席してもらい、話した。
社長も加山も悠を心配して、頭を悩ませていたが、私の決心が固いことを知ると
「悠のことは、私たちにまかせなさい」と、社長が言い、私はみんなに迷惑をかけ、
心配をかけ、北海道の実家に帰った。
悠がいるからゴーディオンがあるのではなく、ゴーディオンがあるから悠がいる。
ファンの人たちは、ゴーディオンを、悠を、愛してくれている。
悠を一人占めするわけには、いかなかった。
あの時の、佐久間悠の人生の中には、櫻田彩香は、必要ないと、考えた。
そして、この先、私よりもっと大切な人が現れて、しあわせになってくれたら、
私はそれでいい。
それが、一番いいと思っている。
出産の時、麻矢と結莉が実家にいる私のところに、出産準備を手伝いに来てくれた。
「男だから子供が産めない麻矢」「女だけど子供の産めない体の結莉」
二人は出産に立ち会うと言い、少し前から勉強していた。
でも、私が分娩台の上に乗ると、「あっ、私はもぅ…ダ…メェ…」と、麻矢が気を失い…
結莉は音楽家なのに「ヒーヒーフー」のリズムが、途中でわからなくなり、息を吸いすぎて意識がなくなり…
分娩室から最初に出てきたのは、私ではなく、この二人がストレッチャーで運び出された。
今でも櫻田家の笑いのネタになっている。
結莉と麻矢に会っても、悠の話は、一切しない。
私がいなくなった後の、悠の様子は、私も何も聞かなかったし、二人も話そうとはしなかった。
テレビに出演してる悠の笑顔だけは、今も、時々…見ている。
そして、悠汰が1歳になるころ、私は実家を出た。
両親や兄夫婦からは、実家に残るように説得させられたが、私は悠汰と二人で生きて生きたかった。
札幌市内で生活を考えていたが、東京に出て来いと、結莉に言われ、悩み、
最終的に私は、東京という場所を選んだ。
仕事は、結莉が紹介してくれて、住まいは麻矢が紹介してくれた。
麻矢の父親の持ち物のマンションをいくつか紹介されたが、どれも私には身分不相応だった。
家賃は要らないと言われたが、そこまで甘えるわけには行かず、私のお給料で悠汰と二人ちゃんと生活できればいいからと断った。
そして、麻矢が見つけて来てくれたのは、一応、2間ある小さいアパート。
私と悠汰には、十分だった。
仕事は、結莉の知り合いの設計会社で、事務をすることになった。
「この子に、残業させんじゃないわよ!」と、結莉は一声で、社長を脅し、
私は、定時に帰れている。託児所にも近い。
たまにどうしても残業が出てしまう時は、麻矢か結莉が、悠汰を迎えに行き、
麻矢の家で、預かってくれていた。
麻矢は、今、リチャードと一緒に暮らしているので、悠汰が悠に会うことは絶対に
なかった。
吉田プロに居た時もそうだ。
私は、周りの人たちに恵まれ過ぎている。
私のわがままは、いつもみんなに支えられている。
感謝の気持ちは絶対忘れないようにしている。