(6)ピンクの傘をお返しなさい!
「うわぁ…高ー。なんでホウレンソウが一束298円!!んげっ!ナスが五本198円!
しょうがない…三本98円のキュウリにしよう…」
都会の野菜たちは高すぎる。
田舎に帰れば裏庭でナスやキュウリが普通にぶら下がっているというのに…
私は、野菜の値段の高さに一人つぶやきながら、会社帰りにスーパーで買い物を
していた。
お肉コーナーで鶏肉を物色していると、肩をムギュっと掴まれ声をかけられた。
「雨の日のシメジ?!傘!!!返してちょうだい!!」
「い、痛い…」
す、すごい腕力…ドスの効いた声。
横を見ると綺麗なお姉さんが立っていた。
あ!!あの土砂降りの日のカッコイイメンズの人の年上の彼女!!
「あ、あ、そ、その節はお世話になりました」
傘を借りただけなのに、それも勝手にそちらさんが貸してくれたのに、
私はお姉さんの迫力と腕力に負けて、深々と頭を下げてお辞儀をしてしまった。
「で、私のあの傘、もちろんあるわよね?!」
「は、はい…あります。う、うちに…」
どもりっぱなしだ…
怖い…私は涙目になった。
「あ~ん、あるならいいわ。お気に入りの傘だったのに、悠がシメジに貸すって
言うもんだから~しぶしぶシメジに貸したのよ~」
お姉さんの声のトーンが上がったことなど、ビビっている私は気がつかない。
「で、シメジ、いつ返してくれるのかしら?私の大切な傘。ん?」
「え、えーと、えーと…私の家ここから10分くらいなので 20分くらい
待っていただければ、往復ダッシュで持ってきますので!」
スーパーの買い物籠を持つ手が震える。
私は怯えていた。
もともと身長が170cm以上ありそうなのに5cmほどのヒールを履いているお姉さんは
私を見下ろし、ものすごい威圧を投げかけてくる。
「ん~~そう。じゃ、お買いものしてから角のカフェで待ってるわ」
「は、はい!」
なぜか私は右手を挙げて敬礼してしまった。勝手に手が動く。
厳しい訓練を受けるようなところには参加したことなどないのに、自分の行動が
わからない。
お姉さんは失笑していた。
とりあえず、急いでレジに向かい買い物をし、猛ダッシュでマンションに帰り、
買い物袋を放り投げ、花柄の傘を握りしめ再び猛ダッシュで走り始めた。
こんなにダッシュをしたのは生まれてはじめてかもしれない。
走るのなんて大嫌いで、学生の頃の体育だってなにか理由をつけてはさぼっていたのに。
人間、必要になると一生懸命走れるんだなぁ~こういうのも火事場の馬鹿力って
いっていいのかなぁ。
などと、酸素のなくなりつつある頭で考えながら必死にカフェに向かった。
「いらっしゃいませ~」 お店の人の声が小さく聞こえる。
息が切れすぎて耳に心臓があるんじゃないかと思うくらい、心臓音があごから耳に
抜けて行く。
お姉さんは小指を立ててティーカップをつかみ、優雅に紅茶を飲んでいた。
「お、お、おまたせ…しまぁ……しましたぁ」
切れ切れの声と、ヨレヨレの体でお姉さんの所へ近づいた。
「あら~そんなに急がなくても大丈夫だったのにぃ~」
涼しげな顔だ。
さっきの『おらおら~早く持ってこい!』オーラは影をひそめて無くなっていた。
「傘!ありがとうございました!」
直立不動できびきびと体育会系のようなお礼を言い、緊張した顔の私は傘を差しだした。
お姉さんは傘を受け取りながら笑いだした。
「ははは~、おもしろ~いシメジ。まぁ座って落ち着いたら?一緒にお茶飲みましょ?
何飲む?」
「あっ…じゃぁ、普通のコーヒーで…」
「この子にレギュラーコーヒーお願い」
顔見しりらしいウエイトレスに片手をあげ、しなりとオーダーしてくれた。
私はお姉さんの真向かいに座り、水を一気に飲み干し「はぁぁぁぁ」と、
無意識に長いため息をついてしまった。
少し力が抜けた。
「あっははは~」
細く長い指で口を隠すように上品に笑ってはいるが、大笑いだ。
私の何がおもしろいのか全くわからん。
「シメジって学生さん?OLさん?」
「えっ?OL…です…?学生という年齢じゃないし…」
…その前に…シメジ?…シメジってなんのこと?
そういえば、スーパーのところでも「シメジ」という言葉を耳にしている。
「あの、シメジって…なんのことでしょうか。ところどころにシメジという
単語が出てきてますが…なんですか?」
お姉さんは私の顔をまっすぐに見て、今度は思いっきり吹き出して笑った。
「あっははは~、あはは、あーーお腹痛い~~」
私の顔を見てまた笑った…
お腹がよじれるくらい私の顔はおもしろいのだろうか?
一応『下の上』程度の顔だと思っているのに、こんな綺麗な人に顔を見て
笑われる自分に落ち込んだ。屈辱だ…。
「あっ、ごめ~ん。あはは、シメジってあなたのことよ」
「へっ?」
「だってあなたシメジみたいな髪型してるじゃない?キノコちゃんとかよくあるから
シメジにしたわ。あの日、私が命名してあげたのよ」
ありがたく思いなさい!くらいの勢いで言われた。
キノコじゃなくて、少し大人な雰囲気をかもし出したショートボブのつもりなのに…。
本人の思いと第三者からの目の温度差をヒシヒシと感じた。
「シメジの本名なんて言うの?」
シメジってミドルネームでもニックネームでもないし、その前に本人許可してないのに、
お姉さんはごく自然にシメジを連呼する。
「櫻田彩香です」
「さやかかぁ。ふ~ん、かわいい名前ね?私は美坂麻矢」
うっ、名前まで綺麗なんだ…
「美坂さん…?」
「あっ、麻矢でいいわよ。名字なんて堅苦しいわ~」
「麻矢さんはモデルさんかなんかですか?綺麗だから…」
「あら~ん、モデルだなんて!うれしぃ。でも、ちがうわよ~」
なんだか声が一オクターブ上がったような気がしないでもない。
「この間、私に傘を貸してくれた男性も格好よかったし。
二人とも素敵だからモデルさんかと思ってました」
「あぁ、悠のこと?」
―――彼は悠って言うんだ。年下の彼氏なのかな。
「はい。なんかとてもお似合いなカップルでした。美男美女で」
「似合ってる?悠と私」
「はい!とても!」
麻矢はまんざらでもない顔をし、紅茶を一口飲むとカップに薄らと付いた口紅を
サラリと親指でふき取った。
こういう行動を一つの流れとして自然にできてしまうとは、麻矢は品のある女性なの
だろう…。美しい人はあくまでも美しいのか。
私のカップには口紅の跡もない。朝、化粧をしたあと化粧直しをしたことがない。
女としてどうなんだろう、自分。
麻矢はその後、この町で生まれ育ったこと、お店を経営していることなどを話してくれた。
最後の方は女二人でコスメの話で盛り上がった。
そして、私はその後も麻矢に「彩香」と呼ばれることはなく、ずっと『シメジ』と呼ばれ
続けた。
最初の方は「シメジはさぁ~」といわれれば「彩香です!!」と返していたが
途中から自分の無駄な抵抗に気付き、私は『シメジ』になった。
麻矢のお休みは月曜日にとっているという。
せっかくお友達になれたのだから、次の月曜日にディナーでも食べにいらっしゃいと
誘われ、仕事が終わり次第麻矢のマンションに行く約束をして別れた。