(4)提出できない辞表
また月曜日がやってきた。
先週末、孝志は帰ってこなかった。
まぁ、二人で家にいたところで、ほとんど会話もないから、いなくて結構なんだけど…
会社に着き、スケジュールボードを見る。
孝志の名前の下には、今日回る営業先数か所のあとに、直帰とすでに書かれてある。
どこに直帰するのやら…
別れてもいいと思っているような男なのに、なぜ彼のスケジュールを確認してしまうのか。
そんな自分がいやだ。バカっぽくて、みじめっぽくて女丸出しで…
いや、女なのだからいいのか。
前はボードで確認なんてしなくても必ず孝志が「本日のスケジュール~」
と言って朝食を食べながら教えてくれていた…
また要らぬ思い出にしたっている自分に呆れる。
孝志とは職場恋愛だった。
最初に話しかけてきたのはあいつだ。
容姿は、真面目な感じで話し方も真面目だった。
ただそれは会社にいるときだけ。
プライベートの孝志は陽気でおもしろい。いつも私を笑わしてくれていた。
会社の顔とプライベートでの顔のギャップに惹かれていったのかもしれない。
洗いざらしの髪を無造作にあげるしぐさが好きだった。
会社では見られないバカ笑いをする孝志の姿が好きだった。
あぁ、もうすべてが過去だ…
私の孝志に対する思いも過去形に入っている。
社内の人間は私と孝志の関係は誰ひとり知らない。
隠していてよかったと今更ながら思う。
そして、私のデスクの一番下の引き出しには「辞表」が入っている。
寿退社ではない、一身上の都合のための辞表。
私がこの会社を辞める決心をすることに、間接的ではあるが背中を押してくれた
女子社員が、今私のデスクの向い側に座っている。
まぁ、どこの会社にでもいると思われる「噂話好きな女子」。
家のカレンダーに赤いマークを付けたあの日から10日後、社員食堂でランチタイム中の
私を含めた数人の女子に、彼女は情報を提供してくれた。
「ねぇねぇ、知ってる?聞きたい?教えちゃおうかな〜、んーでもどうしようかな」
彼女が、私たちのテーブルにニコニコ顔でやって来た。
この手の話が苦手な私は、早めにランチを終えて席を立とうと思っていた。
彼女は、みんなの注目を浴びてうれしそうにしゃべり始めた。
が、その話の内容に私は重すぎる眩暈を覚え、平常心を保つために、湯のみの冷めた
お茶を一気に飲み干し、むせまくった。
「ちょっと、彩香!大丈夫?!」
同僚に心配されつつ、顔が紅潮していく。
お茶のせいなのか、話の内容からきた血圧急上昇のせいなのかわからないが、
心の動揺は咳でごまかした。
「斎木孝志の彼女は、総務部の今年入社した21歳の極かわ小西和美」
これが、自慢げに話してくれた彼女の最新社内ネタで、私が倒れかけた話の内容だ。
孝志が小西のフェロモンアピールに落ちた…らしい。
新入社員の中でピカ一に極上にかわいい女と、男子社員が個々に口にしている女だ。
…孝志…、若い女に走ったのか。
まぁ、彼女に言い寄られて落ちない男はいないだろうなぁ。
女の自分でさえ、深くうなずく。
あきらめもつく。
比べものになるわけがない、彼女と私。
小西和美…よりによってなぜ会社では、ぜんぜんイケていない孝志に好意を
持ったのだろうか。
彼女は孝志の同棲相手が私だと知っているのだろうか。
ぐちゃぐちゃと、いろいろなことがめくるめく頭の中を整理すこともなく、
仕事もまともにせず、退社時間まで過ごしたあの日、家に帰り辞表を書いた。
「同じ会社になんて、いたくなーーい」
無責任かな…こんな理由で会社を辞めるなんて…
でも、別に責任ある仕事をしているわけでもない。
キャリアウーマンを目指しているわけでもない。
「ないないづくし」で問題ない。
次の仕事なんてすぐ見つかる。お気軽に考えていた。
孝志が別れ話をしてくれたら、即効次の日に提出して、次の人生ステップに行くぞ!と、
カウント待ち状態だった。