(3)雨にも風にも…負けた
家に着くころには足元はビショビショになっていた。
一人で傘を差してもこんなに濡れてしまっているのに、相合傘のあの二人は大丈夫
だったのだろうか…などと考えながら、玄関に、借りた花柄の可愛い傘を立て掛けた。
隣には味気ない3本のビニール傘が並んでいる。
私の傘は…全部…透明のビニール…だ。
スーパーで傘を買うことを拒んでいた理由の一つ、これ以上ビニール傘を増やしたくない…
だった。
傘なんてビニール傘で十分だと思っている。
雨にぬれなければいいだけの道具。
あぁ、この差か…
私はその可愛い傘の持ち主の女性の顔を思い出し、自分と比べてしまった。
…確かに彼女は、この傘が似合う。
私は、やっぱりこの傘か…
並んでいる彼女の傘と自分のビニール傘を、少し離した。
ささやかで、ものすごく無駄な抵抗。
あ〜なにくだらないこと考えてるんだろう、私。
最近、意固地になりつつある。
25歳の時から付き合っている彼氏と、たぶん、もう終わりになる気配。
一緒に借りたこのマンションも最近彼はほとんど帰って来ない。
別の女性のところに行っていることは知っている。
そして今日も帰って来ない…と。
30手前でつまずいた…か…私。
卓上カレンダーに、赤いマジックで付けた点を眺めた。
ちょうど今から23日前、私だけが知るマークが付いている。
あの日、孝志の携帯が鳴った。
彼はシャワーを浴びていた。
携帯の着信音は無造作に置かれた彼の鞄の中で鳴っている。
私は音が気になって、というより携帯の向こう側でCALLし続ける相手が誰なのか
気になり、見ていたテレビドラマから視線を離し、鞄を見続けた。
しばらく鳴っていたCALL音が止み、テレビに顔を向け直す。
急に固定電話が鳴った。
何も悪いことなどしていないのに私は一瞬ビクついた。
4回目のコールが鳴った時、私は電話に出た。
「もしもし?」
私の声に驚いたのか、ほんの少しだけの沈黙の後、その人は小さな声で
「孝志いますか?」 つぶやくように言った。
私が電話に出たことに驚いたのは確実だろうけど、戸惑う様子もなく孝志を
呼び捨てするということは、私の存在は知っていての対抗意識だろう。
私は受話器を持っていた右手の動脈がキュンと固まる感じを覚えた。
孝志の浮気相手の存在。
遠慮気味に話す声。
かわいらしい声。
弱弱しい声。
長い髪を緩く巻いた色白な線の細い女性…?
見えない相手の姿形を勝手に想像する。
「孝志なら、今シャワー浴びているから…出たら折り返し電話させますけど、
どちらさまでしょうか?」
私の口調は強い。
そう、あなたより、孝志と今一緒に暮らしている私の方が立場的に上です。
とでも言いたげに…
いやな女だなぁ〜私って、彼女の返事を待ちながら自分で自分に苦笑いをする。
「あ…いえ、また掛け直します」
――― ツ―――――
という音が流れる受話器を眺めていた。
先に電話を切られた…
孝志がシャワーから出てきた。
「どうした?テレビの音消して…見てないの?」
電話が鳴り、テレビを消音にしていたことを忘れていた。
「うん…なんか…携帯鳴ってたよ」
しらじらしく言ってみる。
「携帯…?」
「鞄の中でずっと鳴ってた…」
テレビを見ている私の視野に入っていた孝志は、鞄から携帯を取り出し、
画面を見たあと、チラッと私を見たのがわかった。
私はテレビを…見ている…
テレビの中ではシリアスなドラマが展開されている。
何もおもしろくはない。だけど私の口角は上がっている…
誰から?
そう聞いてみたい。
でも聞かない。
ただの友達からだよ。とでも言いたげに孝志は、メールを打ちながらキッチンの
冷蔵庫を開けビールを取り出し冷蔵庫の扉を閉めた。
ダイニングの椅子に腰かけ、プルトップに手をかけたときメールの着信音が
テーブルの上で響いた。
私は孝志に背をむけてソファに座っている。
孝志の表情はわからない。
「彩香…オレ、ちょっと出かけてくる」
やっと私に振りむくチャンスを与えてくれた言葉がこれか…
私は振り返らず、90度だけ顔を横に向けて孝志の顔を見ずに聞いた。
「こんな時間に?どこ行くの~?」
そしてまた顔をテレビ画面に向けた。
「ん?健がさぁ、なんか、仕事のことで落ち込んでいるらしいから、
ちょっと飲みに行ってくる」
「健くん…?健くんって…」
私はそのあとの言葉を飲み込んだ。
健は孝志の大学時代からの友人。彼は確か昨日から恋人の弥生ちゃんの実家・九州の
両親に結婚許可を得ようとあいさつに行っている。
孝志も知っているはずなのに、あせっていたのか健の名前を出してしまった。
「そう。いってらっしゃい」
「あ…う、うん…じゃ、ちょっと行ってくる。遅いかもしれないから先に寝てていいよ」
孝志は健が九州にいることを思い出したのか、声がうわずっていた。
玄関のドアが閉まる音と同時に、私は座っているソファにゴロンとひっくり返った。
メールで呼びだしたらすぐ来てくれる人がいる。
一緒に住んでいる女を残してでもすぐ来てくれる人がいる。
はいはい…あなたの勝ちですよ…
私はソファの上で孝志の浮気相手につぶやいた。
結局、その日から23日経ったが、孝志はまだ私に別れ話をしてこない。
「別れてあげる」
私から言うのは簡単。
「別れてください」
そう言うはずの孝志の言葉を待っている。
少しだけ負い目を負わせたい私の最後の意地悪だ。
窓を開けた。雨はまだ止みそうにない。
私の長いため息は雨音に消されたと同時に、急に風が強くなった。
雨は横なぶりになり、私の顔にあたり始めた。
雨にも負けて
風にも負けた…
そして、あの女にも…
私…負けっぱなしです。