2019/10/31
文章を書くことはずっと苦手だったけれど、最近になってその苦手意識がまた強くなってきた気がする。
思ったことを言葉にすることが苦手だったのは、小学校の頃からだった気がする。
作文や読書感想文の類の課題が苦手、というか嫌いだった。
文章を書くのが面倒で、いつも最後の方まで残ってしまう宿題だった。
また、出来上がった文章を見ても、うまく言えないのだが、自分で書いた文章と思うことができずにいた。
読み返してみても、親や先生に言われた通りに書いて出来上がった文章としか感じなかった。自分の考えや意見が書かれていると感じることは全くなかった。
それでも、文章が出来上がるとガミガミ言われなくなるし、ある程度は褒められるので、そういうものなのだと思って作文は続けた。
中学校に入る頃にはすでに、「自分の気持ちとは無関係の適当な意見(できれば少し過激なもの)をでっち上げて、そこを骨組みにして文章を書く」というスタイルが出来上がっていた気がする。そうなってからは格段に文章は書きやすくなっていた。
作文や小論文の課題で提出するものはすでに、自分の本当の気持ちが全く入っていないものになっていた。中途半端に語彙力だけはあったので、少々過激な骨組みをもとに難しい言葉の継ぎ接ぎをすればなんとなく課題はできたし、なんとなく褒められていたように思う。
高校入試の勉強で小論述の問題を解き始めてからはこの傾向はどんどん強化されていった。とにかく時間内にある程度まとまりのある文章を書きさえすれば良いので、そこに自分の気持ちなどあるわけもなかった。この時期の勉強によって文章そのもののの構成力・表現力はついたのかもしれないが、自分の気持ちを表現する能力はみるみる衰えていったように思う。
高校に入ってからは、国語でも英語でも要約問題に苦しんだ。
文章化しやすさありきで「自分の主張」をチョイスして上手いこと組み立てていく、という自分のスタイルは、人の意見の要旨を拾い上げる能力には全く役立っていなかった。なまじ文章の構成力だけはあったので、的外れな内容を上手いことまとめる作業に終始していた。内容をコンパクトにまとめるとかそれ以前の問題として、文章を読む能力が圧倒的に低かったのだと思う。
自分の、文章を読む能力と書く能力の著しいギャップに自分でやっと気付けたのは、大学受験の勉強を始めてからだったと思う。
受験勉強期間中はひたすら、文章の読み方の改善に取り組んだ。
そして大学に入ってからは、文章を書く能力の方も低いのだということに気づき、落ち込む。(もう改善に取り組むだけの気合がなかった。ただただ落ち込んで、その頃Twitterを始めた)
小難しい単語を組み合わせて文をそれっぽく組み立てているだけでは、文章を書いているとは言えないのではないかということにここでやっと気づく。
『自分の』主張や意見をまとめるための力が無いことを知る。それどころか、日常で感じる自分のふとした気持ちを文章化できないことにも気づいてしまう。というか、自分の気持ちってなんだ? 今自分が感じているこの快の感情はなんだ? 興奮? 期待? 安堵? 他人に対する優越感? 美しいものを見たときの感動なのか、面白いものを見たときの失笑なのか…これがパッと言語化できない。自分の気持ちを表すための簡単な言葉が、脳みその中のすぐに取り出せる場所に無い。
感情を言語化して、さらに再び感情の側との整合をとるという作業。もともと、自分にとっては一切省略されていた作業だった。
自分の感情を表すための文章の使い方が、いまだに身についていない。
他人の主張を読み取るためとか、架空のでっち上げられた主張に肉付けをするためとか、周りの人との毛繕い的なコミュニケーションをするためとか、そういう文章の使い方しか自分はまだ知らない。
一貫性も具体性も全くないが、確かに胸の内にあって消すことが出来ない自分のこの気持ち。これを何とかして文章に起こしていく作業を、少しずつ始めたい。




