2019/08/08
白々しい。
最近、ぼくの周りにいる人が妙に白々しく感じる。
前から変わらず白々しくて、受け取り手の僕の方が気づいてしまっただけなのかもしれない。
ぼくの周りの人に対する接し方が変わっていったせいで、周りの人から疎まれるようになったのかもしれない。
本当のところは、わからない。
このぼくを除けば、世界にはぼくの人生、ぼくの他人からの見られ方、ぼくが感じるこの白々しさに興味を持つ人なんていない。
ぼくが積極的にこの感情の原因の究明をし始めない限りは、この胸の内にあるものはただの幻覚、ただの漠然とした絶望、上手に言葉をあてがうこともできないような悲しみ、そういうものの域を出ない。
白々しい。
ぼくの前にいる知人たちが、ただただ記号としての言葉とか儀礼としての行動を並べているだけのように見える。
それだけでも十分にやりづらいのは確かなんだけれども、
さらに厄介なのは、彼らは確かに、ぼくには見せない生の人間としての感情とか質感を持ち合わせていることが、はっきりとわかることである。
彼らはロボットでもゾンビでもなく、人間でありながら、ぼくの前ではその人間性を必死に押し殺して、愛想よく定型をなぞることに全力を尽くす。
この気味の悪さはなんなんだろう。
幼児が、自分がおだてられていることに気がついてしまった時の、親への怒りとか。
自分からすでに心が離れていることがわかりきっている恋人に対して、それでも愛想笑いを浮かべる時の、悲しさとか、気まずさとか。
例えるならそういうものが混ぜあわさった結果できたような気味の悪さを、いろいろな知人に対して感じてしまう。
今まで仲が良かったはずの、そして今でも仲がいいのだとぼくは願っている、友人に対しては、これを特に強く感じてしまう。
自分なんてものは、他の知人が自分自身の人間性の能力を割いてまで付き合うに足らない存在であること、
他の知人のバックグラウンドとして、その人の心の部分を介さない簡易な処理で済まされてしまう存在にすぎないこと、
これらをものすごく痛感しているまさに最中である。
実家で暮らしていた頃は、親、特に父親が自分の心の部分にまで介入してくることにとてもうんざりしていた。
また、大学に入ってから1年、2年すぎるくらいまでは、
ぼくの周りにいた人も、ぼく相応に他人の処理に慣れておらず、またお互いについてよく知っておらず、
その不器用さや情報の不完全性が、逆に心の部分を介しての人間同士の交流を生み出していたのだろう。
しかし、東京5年目、大学生活4年目となった今となっては、
ぼくも、周りの知人も、すっかり処理にこなれてしまった。
誰とも特に親しくなれていないぼくは、様々な他人の、親しくない人間に対しての処理の仕方を味わった。
こういう処理を受けると、たとえ初めましての人でも、またたとえそれが初めての状況下での出来事でも、
とてつもない既視感、もっというと、もううんざりするほどになれている緩い絶望感、それだけが自分の考えの全てを支配するようになった。
この場を済ませるという目的以外の意味を持たない言葉と行動。これを途中でやめると「失礼」で「非常識」にあたるらしい。
「失礼」とか「非常識」という、相手の肌に押し付けるための烙印をお互いに隠し持ち合って、それも、もはや烙印を持ち合っていることすら了解済みであるはずの両者がわざわざ隠し持ち合って、互いが互いにとってほとんどなんの意味もない存在であることを馬鹿丁寧に、烙印を使わないで済むようにして確かめあうためだけの、無意味な時間。
すでにすっかり格付けが済んだ相手に対する、プリセットの対応。対応の冗長さを削るための労力すら、ぼく相手には割きたくないらしい。
今ぼくの周りにいる人間とは、これ以上何かが起こるわけでもなく、このまま熱的死する、対人関係。
そこに人の温もりはない。
ぼくから見たら、ぼくだけが人間。
ぼく以外の人間から見たら、ぼくだけが人間じゃない。
どの眼を通してみるかの違い。大した違いではない。ぼく以外にとっては違いすらない。




