2025/11/5
漫然と生きて、世の中にありふれた扇りに身を任せ自分の身の振り方を決めて、自分の身に起こったことは運命であるから仕方がないと片付けて、何者かになることを諦めて、ただ毎日息絶えるまで過ごそうと決めた。そんな決心とは無関係に、虚無感は毎日やってきて、俺を捕まえて離さない。
孤独という辛さはありふれていて、これまでの先人たちが何百億回も経験してきた主観であるから、その中の賢くて感性豊かな人が、きっとその辛さを上手に書き表していてくれるだろうとは思う。しかし、俺は怠惰であるから本を読もうともしない。孤独を押し殺して、煽られるがままに日中を過ごし、夜に後悔し、朝は恐れおののくばかりの毎日。
「世の中の大半の人間は、あなたの敵でも味方でもない」
なるほど正しい事実だとは思うが、今の俺にはどうしても信じられない。個別具体の事例になれば、いつも俺は世の中の平穏と安寧を見出す悪者、痴れ者、不調法者として扱われる。この自分の主観など必要とされない世界で、そんな世界の見え方をカウンセラーもどきに相談してみれば「卑屈にならないで」とだけいう。卑屈の押し付けは社会不適合者の証で、社会の害となるから、それを治せという理屈だと思っている。間違っても、この俺の身など案じているはずもなく。世界がつつがなく回っていくために、この俺は治療を受けなければならない。治療を「受けようとしなければ」ならない。
「助かろうとしない者は、もう助からない」という決め台詞を言われるのだけが悔しくて、その一心だけで健常な方向を目指すふりだけを続けている。健常にはなれない。そこに向かうふりだけを、続けている。助かろうとしている者を助ける、とは誰も言っていない。だから誰も俺を助けない。本当は、もう誰も俺のことを見ない。開き直ってしまえば「助かろうとしない者」というレッテルを簡単に貼られるから、それだけがどうしても癪に障るから、俺は頑張れている気がする。
善良な弱者として憐れまれて死ぬか、死んで当然の弱者として思われて死ぬか。それを選ぶための裁量が、俺にはギリギリ残っているだけである。生き長らえれば生き長らえるほど、その裁量すらも失っていくのだろう。勇気のない自分は、きっと当然に死すべき者となるまで生きながらえて、ある日ぽっくり死んだ時には「あいつは当然の報いを受けたのだ」との言葉で結ばれるか、あるいはそんな言葉すら送られずにただ消えていくのだと思う。
誰にも見られずとも、なにかを積み重ねて自己満足できるように、自分自身を飼い慣らしていくしかないのか。これからの世の中はきっと俺のことを「孤独を楽しもう」とでも煽るのだろう。孤独はきっと、ずっと辛い。特別な才能もなく、愛嬌もなく、機転も利かず、ただここに書いて孤独の辛さや恐怖や惨めさを紛らわしているだけである。孤独は楽しくない。あと何年生きなければならないのだろうか。




