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ギャング系令嬢フロウの成り上がり

作者: チェレステ

 パーショネル王国の中心部。言うなればそこは、上流階級の国民だけが住むことを許された、特級地区である。

 天を衝くようなパーショネル城がそびえ立ち、それを取り囲むように数多の豪邸が並んでいる。

 数多の豪邸のうちの1つ── アルモーニ邸の書斎に、ヴェッジ・アルモーニはいた。

 机に向き合いながら、己の婚約者についての情報が記載されている報告書に目を通す。


「この女が俺の婚約者なのか」


 婚約者の名前はフロウ・シュルト。名門貴族シュルト家の一人娘であり、当主の隠し子である。彼女はつい最近まで、平民として暮らしていたそうだ。

 シュルト家当主は、妻との間に子供が恵まれないまま、病で帰らぬ人となってしまった。跡取りはどうするのか── その問題について誰もが考え始めたとき、当主の遺書が発見された。

 それによって、フロウの存在は明るみに出た。たとえ浮気相手との子供でも、血の繋がりのない他人に家督を譲るよりは良いと思ったのだろう。

 浮気相手との間に子供が恵まれるのは、運命の皮肉としか言いようがない。

 シュルト家当主の血を引く唯一の子という理由で、シュルト家の令嬢として迎えられることになったらしい。


「お飾りも良いところだな。家柄は良いが、少し前まで平民だった女を嫁にできるか。俺の品位に傷がつく」


 事前に調査をしたのは正解だった。

 この婚約には、裏がある予感がしたのだ。

 シュルト家の格は、アルモーニ家より上である。理由がなければ、シュルト家の一人娘の婚約話が自分に舞い込んでくるはずがない。

 うまい話には裏がある。貴族の間で行われる策略謀略を見続けて、ヴェッジが学んだことだ。

 フロウが元平民だと気づかれたとしても、格下の家ならば強引に押し切れると考えたのだろう。かと言って、アルモーニ家の男が相手ならばシュルト家の名にも泥はつかない。

 つまり、ヴェッジは丁度良い男だったのだ。

 明らかにこちらを見下した態度に、ヴァッジは苛立ちを覚える。


「……この婚約、白紙にするか。そうだな、そうしよう。上を目指すからには、それに相応しい女を選ばなければな」


 シュルト家に劣るとはいえ、アルモーニ家は由緒正しき貴族であり、相応の格がある。

 ヴェッジが何をしなくとも、安寧とした生活は約束されている。たとえ、フロウとの婚約を受け入れたとしても。

 しかし、ヴェッジは現状に満足していなければ、このまま終わるつもりもない。

 もっと上を目指したい。要するに、偉くなりたいのだ。そこに特別な理由はない。強いて言えば、そうせずにはいられない性格に生まれたからだ。

 そのためにも、足手まといを背負いこむわけにはいかない。

 後日、シュルト家との婚約パーティーがある。

 そこで、婚約破棄を高々と宣言する。自分を騙していた報いを受けさせるのだ。









 婚約パーティー当日。

 シュルト邸の大部屋を会場に、シュルト家とアルモーニ家の面々が一堂に集まっている。

 本日のパーティーでの発表を以って、ヴェッジとフロウの婚約は正式なものとなる。彼らは今日はめでたい日だと言いながら、ワインが注がれたグラスを景気良く傾けている。

 当然、パーティーの主役であるヴェッジも出席している。

 ヴェッジはパーティーの様子を眺め、笑みが溢れそうになるのを必死に堪える。

 呑気な様子の彼らが、今から慌てふためく姿を想像すると、愉悦の感情が湧き上がってくる。


「すみません、ヴェッジさんでよろしいですか?」


 使用人を引き連れた女性が話しかけてきた。


「ええ、そうです」

「やっぱりそうですか。初めまして、私がフロウ・シュルトです」


 ヴェッジは目を見開いて驚いた。目の前の女性がフロウだとは思わなかったのだ。

 実は今日が、フロウと初めて顔を合わせる日だ。

 フロウの立ち振る舞いには、上流階級の人間を思わせる気品がある。急遽取り繕ったのだとすれば、涙ぐましい努力だ。事前の調査がなければ、ヴァッジも騙されていただろう。


「フロウさん、パーティーの前に伝えたいことがあります」

「何でしょう?」


 今がそのときと判断したヴェッジは、会場の隅々まで声が行き届くように大きく息を吸い込んだ。


「フロウさん。誠に心苦しいが、君との婚約を破棄させてもらう」


 音が、消えた。

 誰もが動きを止め、ヴェッジに目を向ける。


「……理由を聞かせてもらっても?」


 意外にも、誰よりも真っ先に反応したのはフロウだった。その様子には少しも変化がなく、たった一言、息を吐くように婚約破棄の理由を問いかけてきた。不気味なくらい堂々としている。


「理由は君自身が誰よりも知っているだろう。調べたところによると、君はシュルト家当主の隠し子なのだろう。しかも元平民で、貴族としての教育も受けていないらしいじゃないか。そんな君と婚約するなんて、アルモーニ家の男としてのプライドが許さない」


 アルモーニ家の面々は衝撃的な事実を知り、目を丸くしている。

 しかし、シュルト家の面々は── 騙している側であるはずの彼らは、たった今隠していた真実が露わになったというのに、妙に落ち着いている。


「そうか、お前が言いたいことは理解した」


 次の瞬間、フロウの態度が一変した。気品溢れる女性から、獰猛で恐ろしい何かへと。

 フロウはテーブルの上のナイフを掴むと、ヴェッジの足元に無造作に放り投げた。

 ヴェッジだけでなく、フロウを除いた全員が頭に疑問符を浮かべる。


「指を詰めれば、婚約破棄を認めてやる」

「つ、詰める……?」


 静かな、けれど威圧感のあるフロウの口調から、とんでもなく不穏な雰囲気を感じる。


「詰めるってのは、どういう意味だい……?」


 無意識のうちに声が震える。

 許されるなら、全力で逃げ去りたい。

 しかし、それをしてしまえばもっと恐ろしいことになると、ヴェッジの本能が告げている。


「そのナイフで指を一本切り落とせって言ってるんだよ。さあ、好きな指を選びな」


 フロウは顔色一つ変えずにそう言い放った。

 空気が凍る。

 誰もが聞き間違いか、冗談の類だと思った。

 しかし、フロウの剣呑な雰囲気が、そんな都合の良い思い込みを許さない。

 ヴェッジの顔は真っ青になり、額には大粒の冷や汗がいくつも浮かんだ。


「な、何を馬鹿なことを言ってるんだ!? そんなことできるわけないだろ!!」


 フロウはヴェッジの襟元を掴み、そのまま顔前まで乱暴に手繰り寄せる。

 端整なフロウの顔立ちは、怒りでこれでもかと歪んでいた。


「ガタガタとふざけたこと抜かしてるんじゃねえぞ、テメエ!! 大勢の前で私の面子に泥を塗って、タダで済むと思ってんのか!? あ゛あ゛!?」

「ひいっ!!!??」


 情けない悲鳴が己の口から漏れ出たことに、ヴェッジは気づかなかった。気付く余裕がなかった。

 フロウの恫喝は、それこそ悪鬼の咆哮と錯覚してしまうほど恐ろしかった。華奢な身体のどこから、そんな声が出てるのだろうか。

 それを至近距離から浴びせられたヴェッジは、ただただ震えるしかない。フロウが元平民だった事実は、頭から完全に吹き飛んだ。

 フロウは突き放すようにヴェッジから手を離す。


「いいか、私は根に持つ性格だ。受けた仕打ちは絶対に忘れねえし、報復だってキッチリ遂行する。もしもこの場でケジメをつけないってつもりなら、お前も晴れて私に喧嘩を売った馬鹿どもの仲間入りってわけだ。そして私は、そんな馬鹿どもには例外なく地獄に落とした。当然、お前もそうなる」


 先ほどとは打って変わり、フロウは淡々と語る。まるで本を読み上げるかのように。

 虚偽や誇張は一切感じられない。それが逆に、ヴェッジの不安を煽る。

 ふと、ヴェッジは自分の足元に視線を向ける。拾われるのを待つように、ナイフはそこに落ちている。


 ──指を切り落とすしかない。


 ヴェッジは決意した。しかしそれは、諦念からくるものである。高潔な覚悟には程遠い。

 指を切り落とすか、後々それ以上の苦痛を味わう。他の選択肢はない。

 どちらがマシかと問われれば、誰もが前者を選ぶだろう。

 指を切り落としたら、痛いのだろうか。いや、痛いに決まっている。その痛みを想像しただけで、悪寒が全身を駆け巡り、胃の中身がせり上がってくる。

 痛いのは嫌だ。しかしそれ以上に、フロウを敵に回すのが恐ろしい。

 身を屈め、ナイフを拾おうとする。

 切り落とすなら、利き手じゃない方── 左手の小指だろう。日常生活の支障も最小限のはずだ。

 手が震えて、思うようにナイフを拾えない。ただ、拾いたくないという気持ちが強いのも否めない。


「ただ、私も鬼じゃない。そんなに指を詰めるのが嫌なら、もう1つの道を用意してやろう」


 頭上から聞こえたのは天使の啓示か、それとも悪魔の囁きか。

 徐々に視線を上げる。

 行き着いた先にあるのは、相変わらず冷酷無慈悲を体現した双眸で見下ろすフロウだった。


「土下座して、婚約破棄を撤回しな。そうすりゃ許してやるよ」


 その言葉が耳に届いた瞬間、手足が吸い込まれるように地面に着いた。アルモーニ家次期当主のプライドが邪魔をする余地などありはしなかった。

 そのまま流れるように、ヴェッジは額を地面に着けた。これ以上ないくらい、綺麗な土下座のフォームである。


「前言撤回します!」


 屋敷全体に響き渡るような声だった。

 しかし、ヴェッジは気づかない。

 婚約破棄を撤回したということは、フロウと夫婦にならなければならないことを。

 その事実に気づいてしまい、指を切り落とせば良かったと後悔するのは、すぐ先の未来である。









 婚約パーティーの後、フロウはシュルト家当主の隠し子であり、元平民という事実は水面の波紋のように広がった。

 平民とは、貴族に支配されるべき存在である。

 貴族の間にはそんな認識があるからこそ、パーショネル王国中の貴族は、フロウを軽蔑するようになった。

 しかし、彼らはその軽蔑をあくまで心の内だけに留めている。

 何故なら、フロウがシュルト家の一人娘であることは揺るぎのない事実だからだ。面と向かって悪辣な言葉を吐ける者はいない。

 しかし、ルッカ・アミダーメは違った。面と向かって、胸の内でくすぶる怒りの炎を叩きつけてやりたいとさえ思っている。

 今日、それを実行するには絶好の日だ。

 パーショネル城で社交界が開催され、フロウもそれに参加しているのだ。

 パーショネル城のとある一室で、ルッカは取り巻きの女たちと集まっていた。


「貴族と平民の絶対的な格の違いを、私たちが教えてあげなければなりませんわ」


 「正義は我にあり」と言わんばかりの口調で、ルッカは胸にくすぶる怒りを言葉にして吐き出す。そして、取り巻きの女たちも同調するように頷く。

 フロウにここまで強烈な怒りを抱いているのは、当然ながら理由がある。

 ルッカにとって── いや、パーショネル王国の女性にとって、ヴェッジは憧れの的なのだ。整った顔立ちに加えて、貴族としての才覚も優れている。彼を夫として周囲に紹介できれば、どれだけ鼻が高いだろうか。そんな妄想をした者も少なくない。

 そんな彼の婚約者が平民上がりの女など、納得できるはずがなかった。

 ヴェッジが土下座をして婚約破棄を撤回したという事実は、ヴェッジの名誉のために極秘中の極秘とされている。だからこそ、知っているのはその場に居合わせた者だけである。


「行きますわよ、皆さん」

「「「はい、ルッカ様」」」


 ルッカは取り巻きの女たちを引き連れ、ルッカのいる場所に足を進める。

 パーショネル城にいるのは間違いない。歩き回れば、いずれ出会うはずだ。


「いましたわ、ルッカ様」


 取り巻きの女の1人が、ルッカに耳打ちする。

 渡り廊下の先に、フロウがいた。こちらに向かって歩いてくる。

 とても元平民とは思えない、凛とした立ち振る舞いである。しかし、それが余計に鼻につく。

 ルッカは自ずと浮かんだ傲慢な笑みを、口元を上品に手で覆って隠す。

 仮面を剥ぎ取り、か弱い平民という本性を晒してやるのが楽しみで仕方ない。


(今ですわ!)


 すれ違う瞬間、フロウの進行方向に足を出す。

 足を引っ掛け、転ばせてやる。軽い挨拶のつもりだった。

 しかし、ルッカは相手を見誤った。手ならぬ足を出してしまった相手は、無慈悲な鬼である。

 フロウは鉄槌のように足を振り下ろした── 地面ではなく、伸ばされたルッカの()に。

 みしり、と骨の軋む不快な音がした。フロウの踏みつける力が、か細い脛にダイレクトに襲いかかる。

 折れなかったのか、折らなかったのか。それはフロウのみが知ることである。


「いっ── ひぎゃああぁぁぁ!!!??」


 遅れてやって来る激痛に耐えきれず、ルッカは地面をのたうち回る。その悲鳴は、まるで泣き叫ぶ赤子のようだ。

 だが、それも仕方ない。彼女は痛みを経験しないで育ったのだから。

 取り巻きの少女たちも、顔を青くして右往左往するしかない。


「随分と可愛いことしてくれるじゃねえか、ええ?」


 フロウは戯けたように話しかけるが、目の奥は少しも笑っていない。羽をもがれた羽虫を見るように冷徹だ。


「私はな、怒っちゃいないんだ。足を引っかけて転ばせるなんざ、まるでガキの悪戯じゃねえか。だから私も、ちょっとした悪戯(・・)で仕返ししたんだ」


 これだけのことをやっておいて、フロウは自身の所業を「悪戯」と述べた。

 ここに至って、ルッカたちはやっと理解した。

 この女── フロウには、関わってはいけない。

 蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


「ま…… 待ちなさいよ……! 待って、置いてかないで……!」


 足の痛みが尾を引いているのか、ルッカは未だに立ち上がれない。

 しかし、そんな彼女に手を差し伸べる者がいた。

 フロウである。

 差し出された手を凝視する。

 何のつもりなのか。この手を掴んでいいのか。様々な疑問が次々と浮かんでは消える。


「……」


 ルッカに残ったなけなしのプライドが、手を差し伸べたフロウに軽く睨みつけるような視線を送らせる。

 手を差し伸べるという行為が、フロウが下手に出ていると勘違いさせてしまったのだ。

 その視線に気づいたフロウは、笑顔を浮かべた。とても楽しそうな(・・・・・)笑顔を。


「派手な喧嘩をしたいなら、いつでも大歓迎だ。だけどな、一度おっ始めたらお互い(・・・)気が済むまで終わらないぜ?」


 誰が言っていたのか── 笑顔とは本来、敵意の感情を表したものである。

 フロウの笑顔は、まさに剥き出しの敵意だった。


「きゅう……」


 どうにか起こしていたルッカの上半身が、地面に吸い込まれる。あまりの恐怖に、彼女は意識を手放すのを選んだのだ。


「ハッ! 野良犬の躾の方がまだ手応えがあるぜ」


 嘲笑うかのように言葉を吐き捨てた後、フロウは躊躇いなく気絶したルッカを置いて立ち去った。









 シュルト家は目覚ましい成長をしている。

 今まで貴族が見向きもしなかった賭場、娼館などの後ろ暗い仕事を取り仕切っているからだ。

 シュルト家は業者から利益の何割かを徴収する代わりとして、彼らの後ろ盾となっている。シュルト家の名前を出せば、質の悪い客も借りてきた猫のように大人しくなるのだ。

 当然、この事業(・・)を主導しているのはフロウである。圧倒的なリーダーシップと、どこから仕入れたのか分からないノウハウで、あっという間にパーショネル王国の裏を支配した。

 そんな理由もあって、シュルト家には定期的に莫大な金が転がり込む。その資金ぶりたるや、王族に次ぐ一大勢力と言ってもいい。

 他の貴族が慌てて真似をしようとしたが、既にシュルト家の支配が及んでいない地域などほとんどありはしなかった。フロウの真の恐ろしさとは、水面下で事を進める慎重さと狡猾さである。

 シュルト家の屋敷の最上階。そこには、シュルト家当主の仕事部屋があり、実質的にフロウの個室となっている。

 そこでは定期的に、幹部を交えた集会が開かれる。

 幹部とは、フロウ自らが見定めた各エリアを統括する者たちのことである。

 そして今、まさにその集会が開かれていた。


「おい、西エリアの賭場がみかじめ料の支払いを渋っているみたいじゃねえか。かれこれ数ヶ月分の滞納だぞ。どういうことだこれは?」


 フロウの言葉に、西エリアを担当している幹部の男は顔を青くする。

 だが、それも無理はない。フロウの冷徹な目に晒されて、平気でいられる人間は数少ないだろう。


「す、すみませんフロウお嬢様……! 例の賭場のオーナーが、中々の曲者でして── ウゲェッ!?」


 次の瞬間、幹部の男は右頬に強烈な痛みを感じた。

 突然の衝撃に踏ん張ることもできず、そのまま地べたに倒れこむ。


「馬鹿野郎、ここでは姐さんと呼べって言ってるだろうが!」


 幹部の男を殴ったのはヴェッジだった。その表情は怒りで険しく歪んでいる。

 フロウは「お嬢様」と呼ばれることを嫌っている。公の場以外では、フロウのことを「姐さん」と呼ぶのが暗黙の了解だった。

 殴られた幹部は新参者だった故に、フロウを「お嬢様」と呼んでしまったのだ。


「そもそも、その賭場がみかじめ料を払わねえのは、お前が舐められるからじゃねえのか!? 何とか言ってみろよ、ええ!?」


 ヴェッジは倒れたままの幹部の男に、何度も蹴りを叩き込む。

 幹部の男の口から、短く、くぐもった悲鳴が断続的に漏れる。悲鳴だけではなく、赤黒い血も口からヘドロのように湧き出る。

 このままでは危険な状態に突入するのは、誰の目から見ても明らかだった。


「ヴェッジよお、その辺にしとけ」


 凄惨な現場を目の当たりにしても、フロウは何でもない様子でヴェッジを制する。


「はい、姐さん!」


 ヴェッジはすぐさま蹴るのをやめた。

 不満のカケラもない表情に、聞いている側が清々しく感じるほど快活な返事。その反応はまさに飼い主から命令を下された忠犬である。

 ヴェッジは形式上、フロウの夫である。

 しかし、実態は見てのとおりだ。フロウの右腕のような立場に収まり、心の底からの忠誠を誓っている。いつからそうだったのか定かではない。共に暮らしているうちに自然と、フロウのカリスマに魅入られたのだ。


「さっきの話は、世間話の延長みたいなもんだ。忘れてもらっても構わねえ。お前たちに集まってもらったのは他でもない。この(ブツ)についてだ」


 フロウはテーブルの上に小さな紙包を投げる。

 何の変哲もない紙包だが、この場にいる全員が正体に心当たりがあった。


「これは…… アヘックですか? これを摂取すると、一時的に極上の快楽に包まれるという……」


 極上の体験するには、当然代償がある。

 使用を続けてしまえば、アヘックなしでは生きていけないほどの中毒に陥り、やがて命を蝕むほど重い幻覚症状が引き起こされるのだ。

 アヘックは別名「悪魔の粉」とも呼ばれていて、パーショネル王国での流通は禁止されている。


「ああ、そうだ。これが私のシマ(領土)で広まってやがるんだ」

「!」


 フロウは忌々しげに顔を歪めるのは、アヘックを嫌っているからだ。憎んでいると言ってもいい。

 だから、フロウはアヘックを取り扱っていない。逆に厳しく取り締まっている。アヘックのビジネスは莫大な利益を生むが、そんなのは関係ない。誰に何を言われようと、絶対に譲れない一線なのだ。

 パーショネル王国全土は無理にせよ、フロウが目を光らせているこの街では、アヘックは一掃されたはずである。

 それなのに、こうしてアヘックが流通しているのはつまり── 誰かが、アヘック流通の手引きをしていることを意味する。


「私たちがやっていることを、周りの連中は他人の儲けを貪る阿漕な商売だとほざくかもしれねえ。だがな、私は人として仁義は通していると自負している。私たちのやってることで、助かっている人間はそこに必ずいるんだからな」


 フロウはただ単に利益を貪るのではなく、経営改善や従業員の待遇改善などにも、積極的に乗り出した。

 それはフロウのこだわりであり、シュルト家の利益の観点から言えば無駄以外の何者でもない。

 どうしてそんな無駄なことを、と思っている連中は大勢いる。

 しかし、少なくともヴェッジは理解している。そのつもりである。

 フロウのその行為は── こだわりは、フロウ・シュルトを形作る上で欠かせないピースなのだ。それがなければ、フロウはフロウでなくなってしまう。

 アヘックに対する態度も、それと同じである。


「だがな、(ヤク)は別だ! 人の未来に破滅しかもたらさねえ! こんなもんを売りさばいている野郎はクズ以下だ! ぶっ殺しても許せねえ!」


 机に握り拳を振り下ろす。

 めきり、と机が軋む音がした。

 それはフロウが初めて見せる、本気の怒りだった。


「ここからが本題だ」


 フロウは燃え上がる怒りに蓋をする。

 言葉や表情こそ平静さを取り戻しているが、その目は絶対零度の冷たさを帯びている。


「この街からアヘックを一掃するぞ。売人と、そいつらを手引する野郎諸共にだ」

「「「かしこまりました」」」


 フロウの命令は絶対である。異を挟む者など誰もいなかった。









 その日から、シュルト家はアヘック根絶に向けて活動を開始した。

 売人を片っ端から見つけ出し、誰が手を引いているのか身体(・・)に聞いた。

 今後の生活が懸かっているのもあって、売人たちも中々口を割ろうとせず、中々に手間がかかった。

 それでもフロウたちは、根気強く調査を進めた。

 そしてとうとう、諸悪の根源に行き着く。


「パーショネル王国の貴族、ディアス・ヴォロスがアヘックを売り捌く手引きをしているらしいです。売人たちもほぼ口を揃えてそう言っているので、ほぼ間違いないでしょう。口から出任せで貴族の名を出すほど、連中も愚かではないはずです」


 シュルト家当主(フロウ)の仕事部屋では、報告書を読み上げるヴェッジの声が響く。

 フロウはそれを、どこか満足気な顔で聞く。


「流石の手際だな。よくやったぞ、ヴェッジ」

「ありがとうございます」


 ヴェッジは嬉しそうに頭を下げる。

 こうも短時間で黒幕の正体を知れたのは、ヴェッジの功績が大きい。売人の確保から、情報の聞き出しまで、ヴェッジは率先して動いてくれた。

 ふと、フロウは語り始める。


「……ヴェッジ、私はお前を買っているんだ。貴族ってのはどいつもこいつも、与えられた地位で満足するボンクラばかりだ。けれど、お前は違う。常に上を目指していた。向上心を忘れなかった男だ」


 ヴェッジは衝撃を受けた。

 フロウが自分のことをどう思っているのか、気にならないと言えば嘘になる。ただ、それを聞き出すのは失礼な気がして、胸の奥底に封じ込めていた。

 フロウが自分のことをどう思っていようと、受け入れる覚悟はしていた。それでもまさか、こんなにも評価されているとは夢にも思わなかった。


「お前には、栄光を掴み取る資格がある。だから私は、お前を選んだんだ」


 その言葉に、喜びの感情が湧き上がるのと同時に── 言いようのない不安に襲われた。

 フロウは心の内を滅多に曝け出さない。それが今、こうして目の前で起きている。

 何かの前触れのような気がしてならない。


「ど、どうしたんですか、姐さん? 突然、そんなことを言って……」

「二度とは言わねえ。忘れてくれ」


 フロウは軽く微笑んだかと思うと、席から立ち上がった。


「残念だが今日は、パーショネル王国貴族の歓談会があってな。楽しい悪だくみはその後だ」


 表向き(・・・)の仕事も、シュルト家にとっては欠かせないものだ。

 だからヴェッジは、歓談会に向かおうとするフロウを止められない。嫌な予感がするから行かないでくれなんて、言えるはずがない。


「じゃあな、行ってくる」


 その心情を察しているかのように、フロウはヴェッジの肩を軽く叩いてすれ違う。

 部屋を出るフロウの背中を見送りながら、ヴェッジは祈る。どうか無事に戻ってくれと。




 ──しかし、その祈りは届かない。




 パーショネル王国の街中でフロウの乗る馬車が突然爆発したという、あまりにも残酷な報せがヴェッジを待ち構えているのであった。









 灰色の雲が覆う空の下、ヴェッジは草花の生い茂る草原で立ち尽くしていた。

 降り注ぐ雨が、容赦なくヴェッジの体を濡らす。

 しかし、ヴェッジは傘を開こうとしなければ、雨宿りさえしようとしない。雨で濡れることを厭わない様子だった。

 彼の目の前には、墓標が建てられている。

 刻まれている名前は── フロウ・シュルト。

 しかし、フロウは墓標の下に眠っていない。

 あまりの爆発の威力で木っ端微塵に吹き飛び、亡骸さえ残らなかったのだ。

 爆弾を仕掛けた犯人の手がかりは、未だに見つかっていない。それどころか、独りでに馬車が爆発したという信じられない話が飛び交う始末である。

 それでも、犯人の予想はできていた。

 ディアス・ヴォロスだろう。その男以外に考えられない。フロウたちが真実に辿り着くのを恐れ、悪魔の手段を選んだのだ。


「……姐さん」


 呼びかけるも、当然返事はない。無数の雨粒が地面に落ちる音が、無情に響くだけである。

 それでも、ヴェッジは言葉を紡ぐ。


「……あなたがやり残したことは、俺が必ず成し遂げます。ですからどうか、安心して天国から見守っていてください」


 フロウの墓標の前に跪き、誓う。その目の奥には、ダイヤモンドのように煌めく決意があった。

 彼女のやり残したことは── その意志は、必ず遂げる。たとえ、己の命を捧げようと。

 フロウの意志が何なのか、そんなの決まっている。アヘックをパーショネル王国から根絶することだ。









 夜。ヴォロス家の一室で、当主であるディアスはアヘックの密輸により齎された利益を数字によってまざまざと実感し、ほくそ笑んでいた。

 ディアスは表向きこそ品行方正、高潔な貴族として名が通っているが、禁忌とされているアヘックの密輸に手を染める悪人である。そして、それを知っているのは部下以外に誰もいない。


「想像以上だ。やはりアヘックは金になる」


 アヘックは金になると期待していたが、これは想像以上の成果だ。

 アヘックを愛好するのは、何も庶民だけでない。寧ろ金と時間を持て余している上流階級にこそ、アヘックは高く売れるのだ。


「それにしても、愚かな女だ。なまじ知恵が回るせいで、命を落とすことになるんだからな」


 フロウの馬車に爆弾を仕掛けたのは、言うまでもなくディアスだった。

 元より、最近になって急速に力を付け始めたシュルト家を── 厳密に言えば、フロウ・シュルトを警戒していた。

 だが、それだけならまだ(・・)フロウの殺害を実行しようとはしないだろう。精々、謂れのない罪を被せて、失脚を狙うくらいだ。基本的に殺しはリスクが高いので、最後の手段である。

 しかし、ある日を境に、シュルト家がアヘックの密輸ルートを調査するようになったのだ。

 アヘックの密輸を手引きしているという秘密を、フロウは既に掴んでいるかもしれない。

 絶頂を脅かされる恐怖が、ディアスの心を蝕んだ。

 殺す以外に、進むべき道はない。例えるならその道は、踏み外せば深い谷に真っ逆さまの、非常に危険な吊り橋だ。

 だが、ディアスは渡りきった。無事、フロウの抹殺を成し遂げたのだ。

 当然、証拠を残すような下手はしない。

 シュルト家の人間からすれば、犯人は状況的にはディアス以外にありえない。しかし、証拠がなければどうしようもないだろう。

 危険な女だった。しかし同時に、利口な女でもなかった。

 もしも後者であれば、妙な探りをして、爆死するなどという無残な最期を遂げることはなかった。

 ただ、フロウを殺したのは結果的に大正解だった。フロウという頭を失ったシュルト家は、自ずと自滅の一途を辿るだろう。

 自滅するその瞬間を狙って、シュルト家が取り仕切っている利権諸共かすめ取っしまえばいい。

 これから先、さらに莫大な利益が転がり込むと思うと、笑みを抑えられない。


「大変です、ディアス様!!!」


 部下が慌てた様子で部屋に入る。


「どうした、騒々しい」


 ノックもせず部屋に入った従者に苛立ちを感じながらも、何か大変なことが起きているのを悟った。

 普段ならば、ノックせずに部屋に入るという無礼は犯さない。


「襲撃です、武装した集団に襲撃されています! 報告によれば、ヴェッジ・アルモーニの姿があったらしいです!」

「何だと!?」


 ディアスは思わず席から立ち上がる。


「復讐か……!」


 何かしらの形で、シュルト家によるフロウを殺した報復はあると覚悟していた。

 だが、まさかこうも早く、直接的なものだとは。


「さっさと排除しろ! そのために高い金を払って傭兵を雇っているではないか!!」

「そ、それが…… 襲撃者のあまりに鬼気迫る戦いぶりに、恐れをなしているらしく……!」


 部下の言葉を裏付けるように、窓の外から罵声と悲鳴が聞こえてくる。その声は、聞き覚えのあるものばかりだった。


「い、いかがなさいますか……!?」

「逃げる以外になかろうが!!」


 ヴォロス家の地下には、秘密の逃げ道がある。誰にも知られていない、ディアスのみが知る逃げ道だ。

 いざとなればこの部下を囮にして、さっさと逃げなければ。

 早速逃げる準備をしようとした、そのとき。


「うわっ…… ひいいいぃぃぃぃいいい!!??」


 部屋の外から聞こえた兵士の悲鳴は、まるで悪魔にでも遭遇したかのようだった。

 しかし、その悲鳴はすぐに止んだ。

 静寂の中、コツコツと靴の音だけが響く。

 ディアスたちは逃げようとしなかった。今さら無駄だと、無意識のうちに悟ったのだ。


「ディアス・ヴォロスだな」


 蹴り飛ばすように、乱暴にドアが開けられた。

 現れたのは、ディアスが見知った男だった。


「貴様は…… ヴェッジ・アルモーニ!」

「今の俺はヴェッジ・シュルトだ」


 強面かつ屈強な男たちを引き連れ、ヴェッジは部屋に入る。

 この騒ぎを起こしたのはヴェッジなことに、疑いようはなかった。


「俺たちがお前に何の用があるのか、わかっているな? わかっていないとは言わせねえぞ」


 その言葉には、有無を言わせぬ凄味がある。


「フロウ・シュルトの復讐か……!!」


 ヴェッジは首を横に振る。


「お前を地獄に叩き落とすのは間違いないが、復讐とはちょっと違うな。俺たちはフロウの姐さんの意志を遂げるために、ここに来た。アヘックがこの国に蔓延る元凶を断つ。害虫を駆除するなら巣からって言うだろ?」


 瞬間、ディアスの頭に血が駆け上がった。

 ヴェッジ・アルモーニ。大した格もないアルモーニ家の生まれで、それこそ取るに足らないカスのような男だったはずだ。

 そんな男に、あろうことか害虫とまで呼ばれたのだ。こうして命が握られた状況でも、凝り固まったプライドがディアスを激昂させた。


「俺はヴォロス家の当主、ディアス・ヴォロスだぞ!! 何の証拠があって、貴様のようなカスがこんな狼藉を働く!!」


 負け惜しみの響きがあるのは自覚しているが、そう問わずにはいられなかった。フロウを殺した証拠は絶対に残っていない。そのはずなのだ。


「証拠?」


 ヴェッジは呆れるように、吐き捨てるように笑う。

 その笑みに、ディアスは狂気を感じた。


「こちとらな…… フロウの姐さんの仇がこの世に一秒でもしがみ付いているのが許せねえんだよ!! 証拠なんざ二の次だボケが!!」


 空気が震える。

 しかしそれは、声量によるものではない。

 地獄の釜の底から漏れ出たような、あらゆる負の感情によるものだった。


「証拠ならてめえを殺した後、この屋敷から探し出せばいい。なかったら、そのときはそのときだ」


 衝撃的なカミングアウトにも、ヴェッジの後ろに控える男たちに動揺はない。

 つまり、全てを知った上で、ヴェッジの無謀を通り越して自殺行為と言える所業に手を貸しているのだ。

 狂っている。そうとしか言えなかった。


「……だ、だが残念だったな!! 俺がアヘックの密輸を手引きした証拠など、この屋敷のどこにも残っていない!! 貴様らがやったことは逆恨みだ!! フロウ・シュルトの名声も地に堕ちるだろうなぁ!!」


 ヴェッジがやったことは、決して誰からも認められない。ヴォロス家に反乱を企てた犯罪者として、パーショネル王国に裁かれることだろう。

 ヴェッジが恐ろしくないわけではないが、彼を筆頭とするシュルト家の人間に待っているのが処刑される未来なのだと思うと、勝ち誇らずにはいられない。


「これから死ぬってのにベラベラよく回る口だな、ええ?」


 ヴェッジは懐から一丁の銃を取り出す。

 そして、情け容赦なくディアスの眉間に銃口を突きつけ、引き金に指をかけた。

 ディアスの顔が恐怖で引きつる。

 それを見て、ヴェッジはほんの少しだけ胸がすいた。死ぬ間際まで後悔と絶望を感じながら、死んでほしいと願っていた。今、それが叶った気がした。

 ヴェッジが引き金を引く── その瞬間。


「ヴェッジよぉ……」

「!?」


 恐れと安心感を与える、聞き慣れた声が── もう二度と聞けないはずの声が、廊下の奥から聞こえた。

 ヴェッジは、何があろうと絶対に逸らさないと心に決めていたはずの銃口を下ろした。

 そんなはずはない。幻聴だと思いたいはずなのに、都合の良い期待が急速に膨れ上がって行く。


「そ、その声は……!」


 開けっ放しにされたドアから現れたのは、死んだはずのフロウだった。

 その場にいる全員が言葉を失い、ただただフロウを見つめる。


「フロウの姐さん!!!」


 真っ先に動いたのはヴェッジだった。

 その顔には隠しきれない喜びが滲んでいる。


「ほ、本当に姐さんなんですか!? 幽霊とかじゃなく!?」

「当然だろうが」


 フロウはそう言いながら、ヴェッジの頬を撫でる。

 温かい。血が通っているのを、フロウが生きているのを実感する。

 その瞬間、ヴェッジの目に熱いものが込み上げた。


「ううっ……うううぅぅぅ……!!」


 それは、涙だった。

 泣かないように我慢していたものの、小雨のようにポツポツと涙が地面に吸い込まれる。

 「甘ったれてんじゃねえ!」とフロウに叱咤されるかもしれない。それでも、溢れ出る涙を止めるのは不可能だった。


「よ、よくぞご無事で……!!」

「すまねえ、心配かけちまったな」


 フロウは優しい微笑みを浮かべる。

 普段のギャップもあるだろう。しかし、この瞬間だけは、フロウの表情は誰の目から見ても女神のような慈愛に溢れていた。


「ど、どういうことだ!? 貴様は爆死したはずだろう!!」


 ディアスは、平気な顔でこの場にいるフロウが恐ろしかった。顔面蒼白となり、産まれたての子鹿のように震えが止まられない。

 フロウはディアスに目を向ける。

 慈愛に満ちた表情は一瞬にして搔き消え、真冬の山嶺のような冷たさを帯びていた。


「お前ごときが思いつくような暗殺方法を、私が見抜けないとでも思ったか? これから乗る馬車の安全を確認するくらい、私にとっちゃして当然のことだ。ましてや、あんなにキナ臭い状況ならな」


 馬車に仕掛けられた爆弾を見つけたとき、フロウは爆殺されかけたことに恐怖を感じるでも、怒りを感じるでもなかった。

 これを好機だと捉え、笑ったのだ。


「感心したぜ。懐中時計を使って、擬い物の時限爆弾を作るなんてな」


 懐中時計の針が重なれば、爆発する仕組みだった。少し見ただけで、フロウはそれを理解した。

 針の進み具合からして、爆発する瞬間、フロウは間違いなく馬車に乗っていた。

 この世界の人間からすれば、独りでに馬車が爆発したようにしか見えないだろう。そもそもこの世界には、時限爆弾(・・・・)という概念すら存在しないのだ。

 だからこそ憲兵たちは、爆弾を投げつけた人間を血眼になって探すだろう。

 ディアスはいもしない人間を探す彼らを腹の底では嘲笑いつつ、何食わぬ顔をして、街中で馬車が突如爆発したという報せを待てば良い。

 フロウはそれを逆手に取ったのだ。


「肉屋で買った家畜の肉でも馬車の中の中に置けば、死体の偽造は完了だ。どうせ、原型も残らないくらい木っ端微塵に吹っ飛ばされるんだからな」


 ディアスは呆然とする他なかった。

 障害となる人間は、秘密裏に始末してきた。

 懐中時計を利用した爆弾は、ディアスが考えた中でも最高と言える暗殺方法だ。どんな人間でも見抜けないという、ある種の自信があった。

 まさかそれを利用されるなんて、夢にも思わなかった。


「これで社会的にも、あんたにとっても、私は死んだことになった。あんたの目を盗んで悪事を働くのは、それこそ朝飯前だったぜ」


 フロウはそう言いながら、紙で包装された包みを床に投げた。

 それは、この場にいる全員が嫌と言うほど見慣れたものだった。

 ディアスは動揺を露わにし、床に投げ捨てられた包みを拾う。


「こ、これは…… アヘックか!? 何故こんなところに!!」

「地下の隠し部屋に山ほどあるぜ。見てみるといい」


 一瞬、ディアスの表情が固まった。


「はあああああぁぁぁぁぁ!!???」


 ディアスは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。


「ばばば、馬鹿な!! アヘックがこの屋敷にあるはずがないだろう!! そもそも、地下の隠し部屋なんて初耳だぞ!!」

「そりゃそうだ。私が地下に隠し部屋を作らせて、せっせと集めたアヘックをそこにぶち込んだんだからな」


 パーショネル王国中に潜むアヘックの売人を見つけ出し、アヘックを強奪する。それを徹底的に、秘密裏に繰り返した。そうして集めたアヘックを、並行して密かに増設していたヴォロス邸の地下に詰め込んだのだ。


「あれだけの量のアヘックを集めるのに、何ヶ月かかるんだろうな。もう誰も、お前を信じようとはしない」


 屈辱と絶望で、ディアスは膝から崩れ落ちた。


「ヴェッジ、お前は良いことを言った。証拠なんざ二の次。そうだな、確かにそのとおりだ。だがな、証拠は見つけるもんじゃねえ。偽造(つく)るもんなのさ」


 やってることはエゲツないが、フロウの笑顔はまるで悪戯に成功した子供のようだった。


「正々堂々挑んでくるやつなら、真っ向から叩きのめすべきだ。そうしねえと、敗北感を植え付けられねえからな。そして、こいつみたいに(こす)い野郎には、何をしたって構わねえんだ。見ろ、こいつの目を。私には絶対に敵わないって目をしてるだろ?」

「……本当だ、そのとおりですね。やっぱりすげえや、フロウの姐さんは。それに比べたら、俺なんてまだまだだ」


 ヴェッジの心にはフロウに対する尊敬と、己の未熟さを実感し、さらなる精進に励む決意で漲っていた。


「……最初はな、お前だけには真実を伝えようと考えた。だけど、そうしなかった。お前が何をするのか、見守りたくなった」


 ヴェッジの心にダイヤモンドのように気高い覚悟を見出したフロウは、その輝きをまだ消したくないと思ったのだ。

 フロウは快活な笑みを浮かべ、握り拳でヴェッジの胸を軽く叩いた。


「痺れたぜ、ヴェッジ。お前になら抱かれてもいいって思えるくらいにはな」


 それはフロウの、最大限の賛辞だった。

 同じ言葉を言われる人間は、今後ヴェッジ以外に現れないだろう。


「あ、姐さん……!!!」


 ヴェッジはこれまで、フロウを妻と思ったことは一度もない。

 愛がないとか、そんな理由ではない。尊敬すべき彼女を妻だと思うのが、あまりにも畏れ多いからだ。

 だけど今、フロウに初めて「男」として認められた気がした。

 周りに人がいるのも忘れて、嬉しさと、ほんの少しの気恥ずかしさに浸る。


「さて、ヴェッジ。私とお前が初めて会った日を覚えているか?」

「えっ? ええ、そりゃあ……」


 次の瞬間、ヴェッジは苦々しい表情を浮かべる。

 フロウを侮辱してしまった過去は、完全に黒歴史である。あの日の自分をぶん殴りたいと、そう思わなかった日はない。

 しかしフロウは、そんな気落ちするヴェッジを気にした様子もない。


「私のプライドを傷つけた落とし前は、指一本だったが…… (タマ)を取ろうとした落とし前には、何を差し出せばいいんだろなあ?」


 次の瞬間、ディアスの背中には氷柱を何本も打ち込まれたような寒気が走った。


「ひいいいぃぃぃぃぃ!!!??」


 ディアスは地面にへたり込み、壁際まで必死に後ずさる。


「安心しな、すぐには死なねえ。どんな馬鹿でも、健康な身体ってだけで利用価値はあるんだ。だがな、お前の先輩曰く「死んだ方がマシ」なことが世の中にはあるみたいだぞ?」


 フロウの顔には嗜虐的な笑みが浮かんでいた。一歩ずつ、ディアスの情けない反応を楽しみながら距離を詰める。

 いっそ哀れにすら思えるが、ディアスの助けに入る者など誰もいはしない。


「く、来るな…… 来るなああああぁぁぁぁぁ!!!」


 その日、フロウ・シュルトは再び歴史の表舞台に舞い降り、逆にディアス・ヴォロスは歴史の表舞台から影も形もなく姿を消した。








 パーショネル王国のとある場所に建てられた、一軒の豪邸。

 数ある部屋のうち、最上階の、最も広い部屋に人が集まっていた。

 部屋の中央に置かれた椅子にフロウは座り、その横にはヴェッジが控えている。

 そしてその正面には、壮年の男性と、彼を護衛する騎士たちがいる。

 壮年の男性がフロウの前に歩み出る。

 彼が── 彼こそが、パーショネル王である。

 フロウは何も言わず、椅子に座ったままパーショネル王を見据える。

 不敬と見做されてもおかしくはない態度だが、それを注意する者は誰もいない。いてはならない。

 パーショネル王は跪くと、フロウの手の甲に軽く唇を当てた。

 その行為は、一国の王がフロウに忠誠を誓ったことを意味している。

 ただ、パーショネル王の表情に不満はない。それどころか、忠誠を誓うのは当然という表情である。

 パーショネル王がフロウの手の甲から唇を離した瞬間、ヴェッジは悠然とした足取りで窓際へ行く。たったそれだけの行動でも、フロウの右腕として── 夫としての貫禄で溢れていた。

 窓を開けると、一陣の風が部屋を吹き抜けた。フロウの長い髪を靡かせる。

 それはまるで、新たなパーショネル王国の始まりを告げるかのようだった。

次にお前は「これ5部じゃねーか!」という!

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― 新着の感想 ―
[良い点] これ5部じゃねーか…ッ!! ハッ!? 5部が一番好きなので嬉しい。 角砂糖は3個がいいです。
[一言] とても面白かったです( ・`ω・´)途中から悪役令嬢モノを読み始めた感覚が消失して、わくわくしながら読んでいる自分に気づきました(`;ω;´)
[良い点] It's very similar with 『Parte5』, aren't this? Oh!!! フロウ「終わりがないのが『終わり』 それがやつの『ケジメ』」
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