いい人、わるい人
ずっと温めていた短編です。
色々と批判もあることでしょうが、個人的に知り合った障がい者の方とお話をする機会がありまして、このお話を思いつきました。
障がい者というテーマを扱うと、どうしても立場の違いや、盲目的な差別批判をする方々など、いろいろな意見があると思いますが、ある種わかりやすい形で表現できないものかと思って書きました。
私はしがない地方公務員である。
仕事と言えば、役場で書類仕事をしているぐらいでとくにやり甲斐のある仕事を手掛けているわけでもなし、住民の声に耳を傾けているわけでもなし。たまには民間の人と職場で話す機会もあるが、それでも三ヶ月に一回あるかどうかと言ったところだろう。
元々、人と話すのが嫌いな方ではなかったし、職務として当然住民への対応は入ってくるはずだが、私が窓口に立つことはほとんどないと言っていい。
高校生のころだったか、とある病を患ったことで私の人生は大きく狂った。
まだ若く、肌にも張りがあったし、自分で言うのも変な話だがそこそこ可愛い方だった。半年に一度は同級生の男子から告白されたものだ。
しかし、そんな華やかな人生は突如として終わりを告げた。
今でもこの病は祟りか何かなのだろうかとさえ思っているのだが、医者から言わせれば「どんな本にも論文にも載ってない」病気らしい。奇病とでも言えばいいのか、それとも不治の病と安易に言ってしまっていいのか。私には到底そのようなことで頭を悩ませることは無駄なことだと断言できる。
聞けば、似たような病は存在しているらしい。しかし、見た目は似ているもののその症状をよくみていくとどうやら違うという程度で、やはり詳しいことはわからなかった。
両親はいきなり顔の半分が爛れてしまった私をなんとか救いたい一心であちこち奔走し、信仰の厚い寺社仏閣に足繁く通ったこともあったが、両親が諦めるよりも先に私が諦めるほうが早かった。
確かに顔は爛れてしまって見る影もなくなった。左手もわずかに変形しているし、右手に至っては親指が欠けた。
こういうのを人は不幸だと言うのだろう。それでも生活自体には何の影響もなかった。左手が僅かに変形しているぐらいではそれほど支障があるというわけでもなく、右手の親指がなくなったところで、ものが掴みにくいだけのこと。無論、それなりに不便ではあったが、かえってそれが健常であることの幸福を教えてくれた。
時々障がいを持って生まれてくるのは神様が与えた試練なのだとか、ハンデキャップだとか言う人がいる。障がい者がどんな気持ちでそれを聞いているのか考えたことがあるのだろうか。障がい者本人からすれば「お前に何がわかる」と言いたいものだ。そんな言葉で勇気づけようと励ますぐらいなら、ちゃんと側にいて抱きしめていてくれるだけでいいのに。むしろそれ以外に何ができる。金か、あるいは生活を保障してくれたとして、その先の人並みの幸せが得られる保障がどこにあるというのだ。
話を戻そう。
なぜ私が闘病を諦めたのかと言えば、率直に言って「闘病する仕方がわからなかった」からである。
本にも載っていないような病気をどうやって治療しようというのだろうか。
多くの医者から匙を投げられ、いくつかの大学病院では実験体を見つけたような反応をされたこともあった。
初めのうちは自分のことを憐れんだ。どうして私だけがこんな目に遭うのだと。
心は荒み、意味もない被害妄想ばかりが頭の中を支配していた。
現状を嘆き、ずいぶんと両親にも辛く当たった。
そのうち両親は私を腫れ物にさわるように扱うようになった。
そのときになって初めて私はいかに障がい者という立場が孤独なものであるかを知った。
そうして改めて両親を見れば、可哀想なくらいに疲れ果てていた。
原因は間違いなく私だった。私が意味もわからない病気を患ったことで両親は心を擦り減らすような生活を強いられ、ついには次々に病院を変え、医者を変えと奔走することがまるでルーチン化された義務のようになっていた。
私は結局悲しかったんだろう。自分だけがこんなわけもわからぬ病気にかかり、そのせいで自分の家族が苦しめられ、挙句には耐えきれないところまできてしまっている様子を見るのが辛かったのだ。
だから私は両親に言った。もういいよ、と。
確かにこんな見た目にはなったけれど、私にはお父さんとお母さんがいるもの。それだけで十分、幸せだから。
返ってきた言葉は「諦めるな」とか「まだわからない」とかそんな言葉ではなく、「ごめんね」というただそれだけの謝罪だった。
きっと言葉を尽くそうとしていたはずの父は結局何も言えず、母に至っては私には縋り付いて泣き出す始末だった。
もう耐えきれなかったのだ。二人とも私以上に心を痛めて、疲れ果てていたのだ。幸せなんかじゃない。けれど、これ以上不幸にはなりたくなかっただけだ。
それからというものの、私と両親との関係は少し歪なものとなった。両親は私のことにとやかく言うことはなくなったし、私のほうも八つ当たりなど一切なく、それどころか距離を置いて接するようになっていた。
もう両親に私のことで煩わせたくなかった。ただそれだけのことだ。
あなたのしたいようにすればいい。
両親はいつしか私の人生なのだから自分の納得がいくように生きればいいと考えるようになっていた。
それはある意味で私の心の重しをとってくれる言葉であったが、一方でどれだけ無責任な言葉か知るところとなった。
ただ感謝するべきは、度重なる検査や薬のせいで金もかかっただろうに、私に幾許かの金を用意してくれたことだろう。
金持ちというわけではなかったが、それなりに裕福な家庭だったことも幸いして、私は二十歳過ぎの女としては信じられないほどに金を持つようになった。
両親からしてみれば、せめて金ぐらい充分に持たせてやりたいという思いからだったのだろうが、二十歳過ぎの障がいを持った女が金を使う場所などありはしなかった。
病気を患ってからの一年で友達はいなくなったし、告白してくれた男の子たちも私を避けるようになったし、なにより私が外出することをひどく嫌った。
それもそうだろう。
気分転換でもしようと街を歩けば好奇の目で見られ、買い物をしようものなら店員から気持ち悪そうに対応され、公園を歩けば子供達にバケモノ扱いされる。
こんな状況で一体どうして外出する気になるというのだろう。
高校を卒業した私は家でできる仕事を探したが、どれも長続きはしなかった。外に出ないというだけで気が滅入るし、なにより自分が壊れていくような気がした。
その後、父が町役場で臨時職員を募集しているという話を聞き、私はとくに何も考えずに面接を受けたのだ。
高校を出たばかりの女にそれほど仕事ができるわけではないが、障がい者というのはある意味では優先的に仕事を得ることもできた。
少々見てくれが悪いというだけで職務がこなせないというわけではないし、不便とは言いつつもパソコンだって工夫次第で人並みに扱えた。町役場からすればお手頃な障がい者というふうに見えていたのかもしれない。
そういう経緯もあり、私は臨時職員の契約が切れても再度更新して役場で働いているのだ。
仕事と言えば書類業務が大半で、というかそれしか求められていないわけで、退勤時間になればそそくさと家に帰る。同僚たちは金曜の夜には飲みに行くことが多いようだが、初めのうちは誘われたものの「私のようなものがいては楽しめないでしょうから、お構いなく」と言えば、それ以降誘われることはなくなった。
別に同僚が薄情というわけではない。私の仕事ぶりをきちんと理解してくれているし、能力的には信頼してくれているのか、よく質問にくる同僚だっている。ただ私がそんなことを言ってしまったものだから、彼らはきっと私があまり人の輪に入りたがらないように見えたのだろう。それは確かに事実だ。
人の輪に入れるほどに勇気はないが、それでも家に閉じこもっていては気が滅入る。障がいのせいで華やかさから無縁となってしまったが、それでも社会に何らかの形で参加したい。そんな中途半端な思いでしかない。
世の中には私のような障がい者ばかりではない。腕がなかろうが脚がなかろうが平気で外出する人もいるし、一方で部屋に閉じこもって早く人生が終わらないかと儚む人もいる。
結局障がい者も人それぞれだ。
私だって元々明るい性格だったわけじゃない。けれど、家に閉じこもっていても両親が心配するだけだ。疲れ果てたあの顔をまた見るくらいなら少々の怯えや恐れは我慢しなくてはならないのだ。
「安藤さん、これお願いできる?」
退勤時間間際、面倒な書類を持ってきたのは税務課から異動してきた吉木という男だった。
「いいですけど、今日中に?」
「できればでいいよ。無理なら明日でもいい」
そうはいっても税務課の仕事に比べれば地域振興課の書類仕事はそこまで面倒なものではない。吉木にとってはまだ色々と慣れてないからよくわからない書類になるのであっておそらくそのうちに覚えてしまうことだろう。
「いえ、大丈夫ですよ。もう今日の分は終わらせてありますから」
昼休みですらろくに食事も摂らずに仕事をしていれば人よりも仕事量が増えるのは当然のことだった。
「ほんと? いや、助かるよ!」
吉木は俗に言うイケメンというやつだ。役場内でも女性職員から人気が高い。独身女性からはとくにアプローチをかけられることが多いようだ。
「それにしても安藤さんって本当に仕事早いよね。それなら民間でも十分やっていけるだろうに」
吉木は調子のいい男だ。悪意があるというわけではないが、平気で人の心を抉るようなことを言う。もっとも本人はそれに気づくことはないのだろう。相手の気持ちを慮ることができるような人間ではないようだった。彼からしてみれば、この世の中は善で満ち溢れていて、人々はみな幸せだと思っているのだ、きっと。
「あ、でも安藤さんってあんまり飲み会とか来ないよね。それはダメだよ。やっぱり社会人なんだし、人並みに付き合いもあるだろ?」
私はキーボードを叩き続けていた。
「それに昼休みもずっと仕事してるでしょ? 休みは休みできちんと食事を摂らないと体に悪いだろうし、それに午後の仕事にも影響してくると思うんだ」
大きなお世話だ。私は与えられた仕事を勤務時間内に終わらせているだけのことなのだから。それにそもそも他の同僚たちが仕事に手を抜きすぎなのだ。今日終わらせておくべき仕事が終わったのならば明日の分も終わらせておけば翌日に慌てることもないのにその日の分だけで満足してしまっている。仕事が急に増えることは滅多にないとは言ってもそれに甘んじているようではいつか仕事に追われることになるのは当然だと私は言いたい。
「安藤さんって本当に髪が綺麗だよね。それに肌もすごく綺麗だ。せっかく可愛い顔してるんだから前髪切っちゃえばいいのに」
私は思わずタイピングを止めた。
「終わりましたよ」
「……え?」
私は印刷機のところまで歩いて出てきた書類を抜き取るや吉木の胸元につきつけた。
「終わりましたよ。これ」
「あ……うん。ありがとう。助かったよ」
なにやら釈然としないような表情を浮かべたまま軽く頭を下げた吉木だったが、何かを言おうとしたので私はつい口を滑らせた。
「人に仕事を頼んでおきながら隣であれこれ仕事に関係のないことを囀るのはやめてください。不愉快です。そのような余裕があるのならせめてどういうふうにしているのかきちんと見るなり、質問するなり、仕事を覚える努力をしてください」
私は途中で止めていた明日の分のファイルを開いた。吉木の顔を見ながら真面目に言ったところでこの男はどうせろくな返答はしないと決まっているのだ。
「あ……なんか悪いことしちゃったね。ごめんね、安藤さん。でも……」
「結構です。仕事の続きがありますので、吉木さんもご自分の仕事を職務時間の間は全うしてください」
私はその後に吉木がなにを言ったのかは知らない。聞く気もなかった。けれど、何かを言ったのはわかった。
しばらくして、終業時間を知らせる放送が鳴った。けたたましいアラームのような音だが、学校で聞くようなチャイムの音ではないだけマシだろう。まるで刑務所で鳴り響くような音だとは思うが、さして不満があるわけではない。
「安藤さん! このあとみんなで飲みに行くんだけど、安藤さんもどうかな?」
「結構です」
真っ直ぐに駐車した自分の車の元へと歩いていると吉木が私の左手を掴んでいた。
後手に左手を掴まれると、私の左手は若干変形しているので場合によって痛みを生じるのだが、この男はそういったことには気を遣えない男だ。まあ、臆せず掴んだことには若干驚きはしたが、触られることが嫌だとは考えなかったのだろうか。
「でもね、安藤さん。さっきも言ったけど付き合いって大事だと思うんだ。聞けば一度も参加したことがないって言うじゃないか。今日行くメンバーには話も通してあるし、みんな安藤さんなら喜んでって言ってくれてるよ? ね? もったいないじゃん!」
「何が勿体ないのかわかりませんが、とりあえず手を離してもらえますか? 痛いので」
「え? でも離したらまっすぐ帰っちゃうでしょ?」
「……痛いのでまずは離してくださいと言っているのですが?」
呆れたように言うと、吉木は小さく「あ、ごめんね」とそこで初めて気づいたかのように謝りつつ手を離した。私は軽く左手を摩って小さく息を吐く。
「今後は私の左手に触らないでください。痛むので。それと、飲み会ですが当然参加しませんので」
「ええ!? なんで? 他の女の子と仲良くなれるチャンスなのに!」
予想通り女ばかりだったようだ。
私がいればさぞかし他の女の子たちは見栄えがよく見えることだろう。
「吉木さんが甚く私のことを気遣ってくださっているのはわかりますが、私はそれを求めていませんし、なにより必要としていません。仕事中であれば相応に仲良くしますが、仕事が終わって飲みに行くほど仲良くしたいとは思っていませんので」
「いや、でもさ」
「ですから! 今後私を誘うことは必要ありません。むしろ迷惑です。どうぞみなさんでお楽しみください」
そう言って私は吉木に背を向けて歩き出したが、通用口を出ようとしたところで彼は私の肩を掴んで振り向かせようとした。
前髪が揺れて爛れた部分が露わになった。
吉木は一瞬目を見開いたが、どうにかその驚きを口に出すことだけは抑えたようだった。
「なんですか……一体……何がしたいんですか」
呆れてしまう。この男は一体何がしたいのかと。
「知らなかったとはいえ左手を触ったことは謝るよ、ごめん。けれど、職場の同僚と仲良くなるのが仕事の間だけっていうのは僕は寂しすぎると思う。普段の仕事を円滑にするためにも職場の外で親交を深めるべきだと思うよ。それに気遣う必要はないだなんて言っていたけれど、別に僕はそんなつもりじゃなかったんだ。ただ安藤さんがいつも一人でさっさと帰ってしまうから安藤さんとも一緒に飲んで話してみたいなと思っただけなんだ」
「……それで?」
「え?」
冗談も休み休み言えばいいのに。
「だから、それで結局何が言いたいんですか? 飲み会に行きたくないと一度断った人間を追いかけて乱暴に振り向かせて、強制的に参加させようと思っているんですか?」
「いや、そういうつもりじゃなくて……」
「それとも自分が誘えば女はみんなほいほい付いてくるとでも思っているんですか?」
吉木はどうやら私の台詞が気に食わなかったようでムッとしていた。
「それじゃあ僕がまるで女たらしみたいじゃないか。やめてくれよ、そんな言い草は。それに今回飲み会に参加する人たちは僕が安藤さんとも飲みたいねと言ったら快く場を用意してくれた人たちだ。みんな君と仲良くなりたいと思って参加するのに、その言い草はみんなに失礼だよ」
心底そう思っているとすれば、吉木という男は救いようもない馬鹿だろう。
「その飲み会に参加する方々は地域振興課の方か、あるいは職務上頻繁に関わりのある課の方ですか?」
「そりゃ関係のある課の人もいるし、そうじゃない人もいるさ。税務課の人もいるし、住民課の人もいる」
「私、税務課や住民課の人とお話することは仕事上当然ありますけど、あくまで仕事の話であって、そこから踏み込むような暇はないんです。そのような方でも仕事を円滑にするためにわざわざお金を払って仲良くならなければいけないんですか? 吉木さんの言ってることって少しズレてませんか?」
「それを言うなら君がズレているんだろう!」
吉木は少しイライラしているように見えた。けれどもそれをなんとか抑えていた。そうまでして私と飲み会をともにしたい理由がまったくわからなかった。
「もし私のことを寂しい女だと思っているのでしたら、それは勘違いです。吉木さんが私とお酒を飲みたいのだとしても、私は吉木さんとお酒を飲みたいとはこれっぽっちも思っていません。何度言ってもわかってもらえないようですから、改めて言っておきます。誘われたところで私は職場以外の席には参加しませんので誘わないでください。迷惑です」
私は前髪を直してため息をついた。
「そういうの……どうかと思うよ」
「吉木さんにどう思われたところで私は私の仕事をしっかりこなしています。余計なお世話です」
「そうやって自分の殻に閉じこもってばかりなのはよくないって言ってるんだ!」
「はあ?」
見当違いも甚だしい。
「確かに君が人前にあまり出たくないって気持ちもわかる。それでも人が大勢いるここで働く気概があるくらいには強い人なんだともわかる。けれど、そうやって肝心のところで立ち止まってしまったらいつまでたってもそのままじゃないか。自分から勇気を出して飛び込まなきゃいつまで経っても現状は変わらないんだ。君もそれはわかるだろう? 本当はもっとみんなと仲良くなりたいと思っているんじゃないか?」
本当に、この男は。私はもうため息を吐くしかない。本当に呆れた男だ。
「吉木さん。私はとても呆れてしまいました。あなたは結局のところ私を障がい者としてしか見ていないようですね。もちろん吉木さんのおっしゃる通り、中々人前に顔を出せない人もいます。中には人に会うことすら嫌がる人もいます。ですが、吉木さん。私がそんな人間だと思いますか? わざわざ人が多い職場で働いている私が今更人と仲良くなれないことを悩んでいるように見えますか? 見当違いも甚だしいですよ。やめてくれませんかね。そうやって障がい者を一括りにカテゴライズするのは」
じゃあ、私は家に閉じこもってしくしく泣いていればいいのか。それとも布団を被ってどうやって死のうか鬱々としていればいいのか。そんなのは御免だ。だったら周りの気遣いに甘えて仲良くなったふりでもしていればお前は満足なのか。
「いいですか、吉木さん。私は確かに障がい者ですが、それ以前にあなたと同じ人間ですよ。決して公園で指を刺されて怖がられるだけのバケモノなんかじゃありません。十人十色の人間です。私は私の性格上飲み会という不毛な席には参加しないと言っているわけであって、自分の障がいを人に見られるのが嫌だから参加したくないというわけではありません。わかっていただけましたか? これでわからないようだったら吉木さん、あなた馬鹿ですよ」
それでは失礼しますと私は通用口を出た。
吉木は私の剣幕に呆然としていたが、私の知るところではない。
私は嫌いだ。障がい者だから何だというのだ。自分の障がいを見せたくないのなら前髪で隠すような小細工だけで済ませるものか。稀に住民への対応があるから心象が悪くなるだろうと申し訳程度に隠しているだけだ。そうでなければこんな鬱陶しい前髪などさっさと切り捨てている。
嫌いだ。障がい者であればみな同じような思いで閉じ篭ってしまっていると考えている世の中の大半の人たちが。ふざけるな。私は人間だ。お前と同じ人間なんだ。辛いことがあっても乗り越えてきたんだ。障がいを持ったのだってただの人生のうちのひとつの出来事に過ぎないのだから。
*****
あれからしばらくあって、結局吉木は私を誘うことはなくなった。けれど相変わらず無駄口を叩くのは変わらなかった。そんな暇があるのならば少しでも仕事を覚えてくれればいいと思うが、この男はそういう男だと思ってすでに諦めている。課長から「安藤さん、これわかるだろうからよろしく頼むよ」とさえ言われなければ書類のやりとりだけで無駄に会話をする機会などなかったというのに。
その日、吉木は地域振興課の狭い窓口で来客の対応をしていた。
しばらく問答を続けていたが、住民の若い男は不満があるようで「わかるやつを連れてこいよ」と言い出す始末だった。
吉木は何度か課の中を見渡して私しかいないことを知ると、「今は上のものもおりませんので、お話だけでもお聞きします」と苦笑気味に答えていた。なぜそこで私に頼まないのかわからなかった。
盗み聞きした限りでは町の夏祭りの件で商工会青年部の受け持つブースがなにやら問題があるということのようだった。
その程度のことであれば先月のうちに課内で綿密に打ち合わせをしておいたのだから答えられて当然だったし、もし要望があるのならばそれを書き出してもらうなりなんなりしてもらえばいいものを、吉木はあくまで口頭で済ませようとしていた。
吉木はあの会議のときなにをしていただろうかと思い出してみたが、ステージでの老人会の演し物について熱弁を奮っていた姿が思い浮かんでため息を吐きたくなった。
「吉木さん、私が対応します」
「え、あ、いや、でも……」
「構いませんから、資料と当日の配置図をお願いします」
吉木は目に見えてあたふたとしていた。
窓口に来ていた男性は無精髭を生やした男で、見てくれは粗暴そうに見えたが持ち物からしてそこまで乱暴な男には思えなかった。胸ポケットに挿したボールペンも新品のように綺麗だったし、爪もきちんと切り揃えられていた。案外こういうところに人の性格が現れているのかもしれない。
「お話は後ろで聞いていました。当日の電気配線とブースの配置場所に関するお話でお間違えないですか?」
「ああ、それだ。そのことなんだが……」
男性が言うには今の状態では祭りに来た人たちの動線とブースの配置場所からして電力の供給に不具合があるらしく、正確に言えば予定書通りにすると各ブースとの配線が煩わしい上に配線ミスが出る可能性が高いとのことだった。
「だいたいこんな状態じゃ不安しかねえよ。先月の末あたりだったかな。口うるさく言ったんだ。けどよ、確認しますって言ったきり一向に音沙汰がないんでね」
「そうですか。それは申し訳ありませんでした」
「いや、あんたが謝ることじゃねえよ。俺もきちんと下調べしてなかったからな。だから、ほら」
そう言って男が取り出したのは電力会社から取り寄せただろう資料だった。
「俺も調べてみたらやっぱりこれじゃダメってことがわかってな。数値的にはギリギリ大丈夫なんだろうが、せっかくの祭りだってのにトラブルでも起きたら大変だろ?」
「はい。この資料は……」
「ああ、やるよ。そのために持ってきたんだし」
「ありがとうございます。助かります」
「ほんとだよ、ったく。でな、この青年部のブースなんだが、ここをこっちに移動したらこっちから配線伸ばせるんだよ。だから、ここを動かして欲しいんだけど、できるか?」
「そう言われましても、今ここで返答するわけにもいきませんので一度確認を取ってからということになります。すでに各所に通達は済ませてありますし」
「あー、やっぱ今からじゃ難しいか」
「資料を見る限りではできないこともないとは思いますが、明日またお電話差し上げます」
「明日?」
「あ、違う日の方がよろしいですか?」
男は少しばかり驚いたのか大きな声で聞き返してきたので、私はつい明日は用事があるのかと思ったが、男が驚いたのはそういう意味ではなかった。
「いや、別に大丈夫だな。役場の人間っていつ連絡するかはっきり言わねえことが多いからよ。少しびっくりしただけだ」
よほど待たされることが多かったのだろう。男は「仕事は早く終わらせねえとな」と頷いていた。
「他には何かございますか?」
「いや、とくにねえよ。あんがとさん」
先ほどまで不満げな顔をしていた男だったが話せば気さくで物分かりのいい男だった。
「ところでよ……」
「はい、まだ何か?」
「いや、こういうのは言っちゃならねえのかもしれねえが、あんたよくその顔で出てこれるな」
「……」
男は何かに感心しているようだったが、とくに私は何かを感じるわけでもなかった。むしろ後ろで聞き耳を立てていた吉木の方が心象を悪くしたようだった。
「いきなりなにを言うんですか! 亜久津さん! 差別ですよ!」
吉木が立ち上がりこちらにずかずかと歩いてきたが、私はそれを「吉木さん。お構いなく」と一言言って制した。
「でも、安藤さん!」
「お構いなく。あなたが出てくると毎度ややこしいことになるので」
そのやりとりのなにが面白かったのかはわからない。けれど、亜久津という男はわずかに笑ったのだった。
「あんた面白いな!」
「……そうですか?」
「いや、俺も他のところで手足が不自由な人に話聞いてもらったことはあるけど、あんたみたいに強気な奴はいなかったぜ?」
「はあ……そうですか。あ、あと、私は別にこの顔だからといって特に隠したいと思っているわけではありません。皆さんよく勘違いされますが、皆さんの方があまり見たくないようですから髪で隠しているのが本当です」
私がそう言うと、吉木は小さくため息をついたが、亜久津は「ふーん、大変だな、あんたも」と腕を組んで言った。
「そうでもないですよ。普通に仕事はできますし、五感はきちんとありますし、まあ、確かに不便ですけど、やってやれないことはないですから」
「まあ、そりゃあそうだろうけどな。やっぱ慣れるもんなのか?」
「慣れますね。いつまでも塞ぎ込んで立って時間の無駄でしょう?」
亜久津はくつくつと笑っていた。そしてまた「あんた面白いな」と言った。吉木は不愉快そうにしていたが、口を挟みはしなかった。
「なあ、あんた。名前は?」
「安藤沙由里です」
「ふーん。彼氏は?」
「いると思いますか? というか、それ関係ありますか?」
「ないな」
「では、お引き取りください。明日十四時までにはご連絡差し上げます」
「ああ、やっぱいいや。電話しなくても」
「は……いいんですか?」
「ああ、明日また来るからよ」
「はあ、そうですか」
亜久津という男は気分屋でもあるようだ。障がい者でありながら強気に振る舞う私が面白かったということだろうか。存外奇特な男だと思った。
翌日、本当に亜久津は来た。
昨日は作業着を着ていたが、今日はスーツ姿のようだ。仕立てを見ればクリーニングに出してそのままにしておいたもののように思えた。まさかこの歳で新品のスーツを買ったというわけでもないだろう。
「沙由里ちゃん、どうこれ。似合う?」
「さゆりちゃ……馴れ馴れしいですね」
亜久津は開口一番に私を驚かせてくれた。窓口に来て他の職員が対応しようとしたが「安藤さんを」というので私が出てきてみれば、わざわざスーツ姿を見せたかっただけかと呆れてしまった。
「いいからいいから、で、どうよこれ」
「ええ、とても似合っています。馬子にも衣装ですね」
「それって褒められてるんだよな?」
「はい。最高の褒め言葉です」
「マジか! よっしゃ!」
少しイラついて毒づいてみたら、亜久津は学がないようで貶されたことに気づきもしなかった。後ろで吉木がニヤリと笑ったがお前は違った意味で同類だと言いたくなった。
「昨日の件ですが、各所に問い合わせてみたところ問題がなさそうなので、このように変更となりました」
「おっ、助かるよ。仕事が早いな!」
これぐらいで仕事が早いと言われるのは役人だからか、それとも亜久津が本気でそう思っているのかはわからない。もっとも課長からは朝から面倒なことをよくやるねと言われたが、私から言わせれば面倒なことはさっさと済ませておくべきなのだ。各所に問い合わせるなど二十分もあればすべて終わるのに、それしきのことでわざわざ慌てる羽目になるのは御免こうむりたい。
昨日、亜久津が帰ったあとで問い合わせ自体は済ませたし、改案も課長に通して実行委員長にも話を持っていったので許可が下りるのは早かった。その日のうちに電話をして知らせようかとも思ったが退勤間際だったので控えただけだった。
「これで問題があればまたご連絡ください」
「……まあ、仕事はちっと面倒臭くはなったけど、これでひとまずは大丈夫そうだな」
亜久津は改案にざっと目を通してそう言った。
「では、わざわざご足労いただき申し訳ありません。ありがとうございました」
「え? いや、もう終わり?」
「はい。他に仕事も残ってますから」
「あ、うん。そうだよな」
亜久津が帰ってしばらくすると昼休みとなった。私は相変わらず仕事をしながら菓子パンを齧るようなことをしていたが、吉木が隣に座って話しかけてきたので一応耳だけ傾けた。
「安藤さん、今ちょっといいかな」
「昼休みですし、どうぞ」
私がキーボードを叩きながら言うと吉木は不満そうにしていたが、それでも口を開いた。
「これはちゃんと聞いて欲しいんだ、安藤さん」
「はい。だから、聞いてますよ」
「いや、だから……」
「聞いてますから、どうぞ」
なぜ私が吉木の話に顔まで向けなければならないのか甚だ疑問だ。口を開けば無駄口しか叩かない男に対して「仕事の話ですか」と尋ねても無駄なことだろう。
「……住民課の人から聞いたんだけど、あの亜久津って人、昔は暴走族だったらしい。今日はスーツ着てたけど、昨日の格好見てもわかるだろ? あんまりきちんとした人じゃない」
「昨日の格好のどこを見ればきちんとしてないと断言できるのか全く理解できませんが、昨日の亜久津さんは仕事着でしたし、無精髭でもありましたけど、そこまでの印象を持つような人ではありませんでしたよ」
「はあ……なんでわかんないかな」
意味がわからない。私がなにをわからないというのか説明して欲しい。
「爪もきちんと切ってましたし、胸ポケットのペンも綺麗に使っているようでした。まあ、昔は暴走族だかヤンキーだか知りませんが、今はきちんと働いているのですから別にいいじゃないですか。それに亜久津さんがどんな人だろうが私に関係ありませんし。それとも作業着を着るような職業の人がみなきちんとしてないとでも?」
「本気で言ってるの? それ」
「むしろ吉木さんがなにを言いたいのか私にはわかりかねます」
「だって、あいつひどいこと言ったんだよ?」
「ひどいこと? ああ、あれですか。確か……そんな顔でよく出てこれたなって」
私が思い出したように言うと、吉木は苦い顔をした。
「君はあんなことを言われても平気なのかい?」
「平気も何も、私がこんな顔なのは事実ですし、とくに何も感じません。こんな顔でも仕事に差し支えはありませんから」
「それは……そうだけど……」
吉木は尻すぼみの台詞を吐いて黙ってしまった。まったく、この男は何が言いたいのだろう。
「まあ、お気持ちはわかりますけど、本人が気にしていないのですから、吉木さんが気にするほどのことではありませんよ。そんなことよりも昨日の件、ちゃんと会議で話していたじゃないですか。それに連絡が来ないと言っていたんですから、共有ファイル確認するとか、課長に電話して確認するとか、やりようはありましたよ」
「……わかってるさ」
「そうですか」
「でも、今はそんなこと言ってないだろ?」
「……そうですね」
「僕は君が辛い思いをしたんじゃないかと思ってつい……」
「辛い思い?」
吉木はそうだと頷いた。
「ひどいとは思わないか? 君だって嫌だろう? 障がいを持っているだけであんな風に言われるのは」
私は大きくため息をついた。
どうして吉木は自分がその代表だと気づかないのだろうか。どうしてそこまで悪意ある善意を振りまくことができるのだろうか。
「昼休み、終わりましたよ」
「……ああ、わかってる」
吉木は心残りがあるようだったが私はこの会話を終わらせたかった。
「最後にひとつだけ、いいかな?」
「はあ……なんですか?」
私が早く仕事を再開させたいという雰囲気を振りまくと、吉木は一瞬後ずさりそうになってしっかりと踏みとどまった。
「これだけはわかってほしいんだ。みんな君のことを心配してるから僕が代わりに忠告してるだけだって。もちろん僕もみんなと同じく安藤さんを心配してるんだ」
私がいつ心配してくれと頼んだ。いつ代弁者になってくれと頼んだ。大きなお世話だ。
「それはどうもありがとうございます。でも不要です。それに……」
「それに?」
「そろそろ気づきませんか。私が吉木さんを避けているの。あの亜久津さんという人のように率直に言ってくれたほうが私としては気分がいいです。あなたのように変に気遣って障がい者であることを意識させられるのは不本意です。不快です。
私が障がい者だからそんなに気遣ってるんですか? そんなに障がい者は気を遣わなきゃいけない存在なんですか? 前も言いましたけど、私は障がい者である前に人間です。見た目がこうだからと変に気遣われると逆に傷つきます。お願いですから普通に接してください」
「安藤さん……」
それでも吉木は納得していないようだったが、小さくため息をついて「わかったよ」と言った。私はそれで彼が本質的に変わることなどないだろうと思ったが、同時にどうでもいいことだった。
来る日も来る日も亜久津はやってきた。特に用件があるわけではなかったが、来るたびに私を見つけて呼びつけるや色々な話をした。
その度に吉木が嫌そうな顔をして不機嫌を露わにしていた。終いには「亜久津さん、用がないなら来ないでください」と言い出すこともあった。珍しく吉木の意見に賛同したが、亜久津は「いいじゃねえか。ほんのちょっとの時間なんだし」と一向に取りつく島もなかった。
「で、今日はなんですか?」
亜久津は久しぶりにスーツ姿で来ていた。袖口には真新しいカフスが付けられていて、落ち着いた色合いのネクタイもセンスのいいものだった。シャツはしっかりとアイロンが掛けられていたし、髭もきちんと剃っていた。
お得意様と話す機会でもあったのかと思ったが亜久津は少々の緊張感を持って窓口に座っていて、しきりに唇を舐めていたので、何に対して緊張しているのか判然としなかったし、それ以前に町役場に何をしに来ているのかまったく理解できなかった。
「これ、一緒に行かないか?」
そう言って亜久津が取り出したのは二枚のチケットだった。
「映画……ですか。どうしてまた」
チケットをよく見れば最近話題になっているハリウッド映画だった。少なくとも女性が好んで観るような類のものではなく、男性が少年に帰って観るようなものだった。
「いや、あんたが好きそうな映画って思いつかなくてさ。外を歩くようなのも嫌だろうし、俺も周りから気味悪がられているの見たくないしな」
「それは別に気にしていませんが、どうしてこの映画なんですか? 嫌いじゃないですけど」
「え? 好きなの?」
亜久津は少し驚きつつも身を乗り出してきた。
「ワンは見ました。中々興味深い映画だったと思います」
「マジか! わかってくれるんだ?」
「わかるも何も、私には親近感の湧く話ですし。いささか口を挟みたい部分は無きにしも非ずですが」
「いや、マジか! そっか!」
亜久津は私の意見など何も耳に入っていなかった。
「じゃあ、一緒に行ってくれるよな?」
「……二人で、ですか」
私がそう聞き返すと亜久津は意外そうに首を傾げた。
「デートするのになんで三人も四人も連れていくんだよ」
「あ、これデートの誘いだったんですね」
亜久津は椅子からずり落ちそうになっていた。
「あんたと話していると調子が狂うよ、ほんと」
「奇遇ですね。私も亜久津さんと話していると調子が狂います」
「お似合いの二人じゃね?」
「いえ。むしろ関わらない方がお互いのためでしょう」
「なんでだよ。じゃあ行きますって流れだったろ?」
「それは亜久津さんの妄想です」
いいかげん仕事に戻ろうと思っていると吉木がわざわざ出てきて不機嫌な顔を露わにしていた。
「亜久津さん、いいかげんにしてくださいよ。こっちだって窓口だけが仕事じゃないんです。それに彼女も迷惑していますから」
「亜久津さん。その映画行きましょう。二人で」
「安藤さん!?」
吉木は驚いたように私の顔を覗き込んでいた。一方で亜久津も驚いてはいたが、それ以上に嬉しそうに笑っていた。
私も自分の発言に驚いていた。だが、吉木に庇われるのがなんだか不愉快だったのは事実だ。もしかしたら、吉木への嫌がらせだったのかもしれない。
「じゃあ、次の日曜日な。車出すから、ここの駐車場でいいか?」
「ええ、構いませんよ」
田舎の町役場の駐車場は日曜だろうと開きっ放しだ。そもそも不法駐車する人間もいない。みなそれぞれに庭が広いのだから当然だろう。
喜色満面で亜久津が帰ると、吉木が私には詰め寄った。
「安藤さん、一体どういうつもり?」
「どうもこうも、吉木さんの言う通り人と関わろうと一歩踏み出してみたんですけど」
「だからって、よりにもよってあんな……」
「あんな? 亜久津さんがどこか悪いところがあると?」
「あの人は君に相応しくないよ。見た目で差別するような人間じゃないか」
「見た目で差別。なるほど、確かにあんなにストレートに顔のことを言われたのは初めてですね。普通は口に出さないものですけど」
「だから、今からでも断ったほうがいい」
「いえ。デートには行きますよ。デートなんて高校生以来で久しぶりですし、映画はDVD派なんですけど、たまには映画館で観るのもいいですし」
「でも、あいつと……」
「私が誰とどこに行こうが吉木さんには関係ありませんし、亜久津さんと私が映画を一緒に観たところで吉木さんが何か不利益を被るんですか? それにあの人はあなたが言うほど悪い人じゃありませんよ。思ったことをつい口に出してしまうというだけでしょう」
「それがいけないと言ってるんだ」
「そうですか。でも関係ないですよね。面倒ですし、仕事もあるので、もういいですか?」
吉木は食い下がろうとしたがそそくさと仕事に戻る私を見て口を噤んだ。
しかし、それで終わりというわけではなかった。
その日の業務が終わり、私はいつも通り駐車場に向かったが、彼が私の車まで追いかけてきたのだった。
「安藤さん!」
「……なにか?」
「やっぱり考え直さないか?」
「吉木さんには関係ないですよね」
「関係あるよ!」
どうして私が亜久津とデートすることが吉木に関係あるのだろうか。以前からもっと人に関われと無責任に言っていたのだから、むしろ喜ぶと思っていたのだが、そういうわけでもない。
「好きなんだ」
「何がですか?」
吉木は頭をかいて言い直した。
「安藤さんが好きなんだ」
「は? 正気ですか? 私結構酷いことばかり言っていたと思うんですけど、どこかに好きにさせる要素ありましたか?」
「いや、そうじゃなくてさ……」
吉木は一般の人には人当たりがいいようだが、こういうところで要領を得ない男だった。
「やっと気づいたんだ。僕は安藤さんが好きだ」
「気づいた?」
私が聞き返すと彼は大きく頷いた。
「あの人にデートに誘われただろ? それでようやく気づけた。最初は確かに安藤さんを障がい者だと見ていたことは認める。それは僕が間違っていたと思うし、謝るよ。安藤さんから言われたことをよくよく考え直してみたんだ。障がい者だからって一括りにするなって言っただろう?
確かに僕は余計な気遣いばかりでかえって安藤さんを傷つけていたんだろうね。僕は今まで障がい者の人には優しく接するのが当然だと思ってた。けれど、それも結局僕ら健常者の勝手な思い込みだって気づかされた」
吉木は一度大きく息を吸い込んで吐き出すと恥ずかしそうにはにかんだ笑顔を見せた。私はどうして今更吉木が考えを変えたのか理解できなかったが、それでも多少はマシになったように感じた。
「それで改めて考えてみると、僕は安藤さんの傍にいたいと思ったんだ。交際だけじゃなくて、結婚を視野に入れて付き合って欲しい」
「何でそこまで考えを変えて、挙句私と結婚まで考えたんですか?」
吉木は困ったように笑ったが、その笑みはどことなく不気味なものに見えた。
私はこの笑顔を何度も見たことがある。自分が救う、自分こそが正義、不幸な人を暗闇から救ってあげる自分はとても素晴らしい人間だ。そんな気味の悪い笑顔だ。
「僕は安藤さんをもっと知りたいと思った。どうしてそんなに仕事だけに集中できるのかとか、障がい者でありながらどうしてそんなに強くいられるのかとか、地方公務員である以上障がい者の方と関わる機会もあるだろ? 君を見ていて、そういう人たちの心情を少しでも理解して手を差し伸べられる人になりたいと思ったんだ。僕は安藤さんをもっと知りたい。できれば隣で君を支えていきたいって、そう思ったんだ」
吉木は自分の台詞に満足していた。私には自己満足以外の何物でもないように感じられた。
「なるほど。つまり、同情ですか」
「違う」
「じゃあ、私が障がい者でなかったら、吉木さんはそんな気持ちになりましたか?」
「それは……わからない。でも、この気持ちは本当だ。それに、君が障がい者じゃなくて健常者でも、僕はきっと君を好きになった」
吉木はそう言えば私が根を上げると思ったのだろうか。これでどうだと言わんばかりにこちらを見つめてきた。それが不愉快で、不気味で、屈辱だった。
「吉木さん、残念ですがあなたの気持ちには応えられそうにありませんし、応える気も毛頭ありません。縁がなかったということで諦めてください」
「好きなんだ、君が。できれば君にも僕のことを知って欲しい」
「いえ、間に合ってます。とくに吉木さんから魅力を感じませんし、魅力を感じられない人を知りたいと思えるほど、私は好奇心に溢れていません。それに、今後気持ちが変わるということもあり得ません」
我ながらひどいことを言っている自覚はある。けれど、この男に中途半端なことを言っても理解してはくれない。私だってどうかと思う台詞だが、相手が引き下がってくれないのだから、言いたくもないことを言うしかないのだ。
「安藤さん。どうしてそんなに卑屈なんだい? もっと僕を信じてくれてもいいじゃないか。こう言ったら君は不愉快かもしれないけれど、僕はそれほど不細工というわけでもないし、まだできない仕事もあるけどこれから覚えていくし仕事が全くできない男というわけじゃない。それに公務員だから食いっぱぐれはないし、言い方はひどいけれど、優良物件だと思うんだ」
一体どう返答をすればいいのだろう。この男は本当に救いようがない。その頭をかち割って中身を見てみたい。きっと頭の中は自分の行いがいかに素晴らしいことか自慢する魍魎が巣食っているのだろう。
「こう言っちゃ君に失礼かもしれないけれど、こんな条件で君が結婚できるとは僕には思えない。無礼だとは思うけど、君もそれはわかっているだろう?」
「そうですね……吉木さんの言う通り、吉木さんのような優良物件と結婚できるとは思っていません」
「だったら……」
「だから何ですか? それで私を救った気でいるんですか? 馬鹿にするのもいいかげんにしてください。あなたのような偽善者に身を任せるくらいなら、私を指差してバケモノと罵る人と一緒にいた方が断然マシです。吉木さん。初めてですよ。あなたのように障がい者をここまで馬鹿にして平気でいられる人と出会ったのは」
「僕は馬鹿になんか……」
私はため息を溢すのをなんとか堪えたが、沸々と湧き上がってくる感情を抑えることができなかった。こんな感情は久しく忘れていたものだった。
「うるさい!」
気づけば、私は自分でも驚くほどの大声をあげていた。
「安藤さん?」
「同情されるくらいなら罵られたほうがよっぽどマシだ! 優しくするな! その優しさがただの自己満足だとなんで気づかない! いいかげんにしろ! 不愉快だ! 人を馬鹿にするのも大概にしろ!」
「……」
「帰る!」
私はついに堪忍袋の緒を切ってしまった。それもこれも吉木の馬鹿のせいだ。
車のキーを回して発進させても、吉木は未だに固まったままだった。
日曜日、亜久津は赤いセダンに乗ってきていた。
「かっこいいだろ?」
開口一番にそれかと私は笑ってしまった。少年のような人だと思った。
「あいつに何か言われなかった?」
「あいつ?」
「ほら、あの澄ましたイケメンだよ。俺が正義だって言いそうな感じの」
「ああ、吉木さんのこと」
亜久津はハンドルを握って信号を見つめつつも、横目でチラチラと私のほうを気にしているようだった。
「かっこいいです」
「は? もしかして俺のこと!?」」
「いえ、この車のことです」
亜久津は一瞬残念そうに項垂れて、それでも車を褒められたことが嬉しかったのかくすりと笑ったが、「いや、会話になってねえし」と苦い顔をした。
「告白されました」
「はっ!? あいつに!?」
「はい。断りましたけど」
「マジか。なんだよ、焦ること言うなよ」
「……」
亜久津がホッと胸を撫で下ろしている様子を見ると、なんだかおかしく思えた。
「最初見たときさ」
「はい」
「悪いけど気味悪い女が出てきたと思ったんだ」
「はあ。まあ、そうでしょうね」
「俺も悪いこと言ったなと思ってな。謝ろうかとも思ったんだけど、沙由里ちゃん全然気にもとめてなかったからさ。俺も気にするだけ無駄って思って今更だなって」
「別に謝る必要なんてありませんよ。事実ですし」
「やっぱ嫌か?」
「はい?」
亜久津は頬をポリポリと掻いた。フロントガラスにぽつぽつと雨粒が落ちてきた。予報は晴れのはずだったのに、今日の天気予報は外れだ。
「いや、俺あんまり沙由里ちゃんみたいな障がい者の人と話すことないからさ、あんまり気持ちとかわからないんだけど、やっぱ障がいって嫌になるか?」
亜久津は申し訳なさそうにそう尋ねてきた。
「嫌じゃないと言えば嘘になりますね。健常者の方が断然いいに決まってるじゃないですか。物はよく落とすし、左手はろくに使えないし、良いことなんてこれっぽっちもありませんね」
「あー、やっぱそうだよなあ」
「まあ、だからと言って現状を嘆いてもどうしようもないですし、受け入れて生きていくしかないですから」
「そんなもんか。いや、俺は自分がそうじゃないからよくわかんないし、性格がこんなだから時々何も考えずにひどいことを言ってしまうこともあるんだけどな」
大抵の人はそんなものだと私も思う。妙に気遣ってわかる振りをしている人間が一番腹ただしい。嘘をつくぐらいなら「わからないから教えろ」と言われた方が清々しささえ感じる。
「まあ、俺が沙由里ちゃんから障がい者がどういうもんかって聞いても、結局自分がならなきゃわかんねえだろうし、いざ自分がなったとしても、やっぱ気遣われるのは嫌だよな。疲れちまうって」
「……ですね」
「自分が気にしないでいようとか受け入れようとか考えてても周りから嫌でも意識させられるじゃん。なんかそれってむしろ酷い気がするんだよな」
亜久津は「まあ偉そうに言ってても俺にはわかんねえし、面白くねえかもしれないけどな」と苦笑した。
「亜久津さんは……」
「龍治」
「え?」
「俺の名前だよ。亜久津さんってなんだかよそよそしいじゃん。友達からは龍治って呼ばれてんだ。沙由里ちゃんも特別にそう呼んで良いぜ」
「亜久津さんはどうして今日の映画が好きなんですか?」
「……俺の話聞いてた」
「聞いた上で無視しました」
「そっか……ま、いいけど」
映画は事故で両脚を失った車椅子の少年がある日特別な力を得て、悪に立ち向かうというだけのくだらない話だ。現実にはそんなことが起きるはずもないし、魔法みたいに脚が生えてくることもない。義足をつけたって両脚がないのだからバランスが悪くて日常生活では車椅子の方が幾分かマシだろう。
「なんていうかさ。俺って不幸な人間が嫌いなんだよ」
「不幸な人間……ですか」
亜久津は大きく頷いた。
「まあ、正確には不幸だと嘆いてる人間が嫌いなんだけどな。自分が世界で一番不幸だって顔してる人間見ると殴りたくなる。あー、誰だったっけ。ほら、『不便だけど不幸じゃない』って言ってた人もいるだろ?」
「いましたね、そんな人」
「でもさ、それも俺はなんか違う気がするわけ。だって健常者に比べたら障がい者が負うストレスってもっと大きいだろうし、それはそれで不幸だろ?」
「まあ、そうですね。あながち間違いじゃないと思います」
「まあ、自分が不幸じゃないって信じるのもそれはそれでアリだとは思うんだけど、やっぱ不幸は不幸だろ」
「そういう捉え方もありますね」
亜久津の言ってることは理解できるし、私も不便であることは自覚しているし、この見てくれになった高校生のころを思い出してみても、あの時は確かに不幸を感じていたと断言できた。
「んでさ。これは俺の考えだけど、世の中不幸な人間なんてたくさんいるんだよ。俺だって不幸っちゃ不幸だし、幸せだったら車のローン払うために毎日残業したりしないわけだしな」
亜久津は不幸に大きさなんてないと言った。私にはそれがなんだか新鮮に聞こえた。
「でも、そんなもんだろ人生なんて。みんなそれなりに不幸だし、不幸なりに楽しんで生きてるじゃん。そりゃ同情する気持ちがないわけじゃないけどな。だからって同情したところでそいつ自身が変わらなきゃ何も成し遂げられないわけだし、俺から言わせれば甘えんなってことだ」
厳しい人なのか、それとも障がい者の現状をよく理解していないのか、おそらく後者だろうなと思いつつも私は頷いていた。
「映画の話だけど、あれって両脚なくなった少年が不幸だって八つ当たりするところから始まるだろ?」
「ええ」
「んで、すごい力に目覚めて歩けるようになるんだけど、あれもあれで馬鹿にしてるよなって」
「まあ、そうですね。現実的にあり得ませんし、ただのお涙頂戴って感じがします」
「俺もそう思う。けどよ、よくよく考えてみると別に特別な力なんてなくたって立ち直るやつは立ち直るし、そんな力に目覚めても立ち直れないやつは立ち直れないままじゃん」
それはそうだ。人はそんなに簡単には変われない。あの少年には特別な力に目覚めたというきっかけがあっただけだ。もし、力に目覚めなくても彼はきっと立ち直っただろう。車椅子の少年が雨の中倒れてしまい、立ち上がる気力もなく雨に打たれていたシーンが印象的だった。それよりも印象的だったのは「神様なんているもんか」と叫んで自ら車椅子を起こして這い上がるところだった。
その翌朝に力に目覚めるわけだが、私には少年が力に目覚めなくても、あの瞬間に少年は生まれ変わったはずだと思う。
むしろ、そんな力のせいで少年は障がいを持っているということに不幸をより強く感じているように思えた。
「だから俺、あの映画嫌いなんだよ」
「は?」
「でも、なんか毎回借りて見ちゃうんだよな。なんでかね」
「知りませんよ、そんなこと」
亜久津はそりゃそうだと笑った。
映画の鑑賞中、亜久津は私の左側に座っていた。時々頷いたり首を傾げたりしていたが、ヒロインとのラブシーンになったとき、ふと私の左手に手を重ねた。
映画が終わって明かりが灯り、他の観客たちがぞくぞくとロビーへと抜けていくのを横目で見ながら、亜久津は馬鹿にするように言ったのだ。
「沙由里ちゃんの左手って変わってるな」
私が障がいで変形して痛みが生じるのだと言うと、彼はふーんと言いながら左手をまた触った。今度は指でなぞるように少しだけいやらしかった。
「痛い?」
「これぐらいなら平気です」
「じゃあ、これは?」
亜久津は軽く左手を握ってきた。
「痛いです」
「そか。悪い」
一体何がしたいのかと思っていたら、彼は立ち上がって私の前を通り過ぎて、左手を差し出してきた。
「右手は痛くないんだろ?」
それが手を繋ごうという合図だと私はすぐには気づけなかった。
「ほら、早くしろよ。恥ずいだろうが」
「え? あ、はい」
そこで初めて手を繋ぎたいのだと気づいた私は咄嗟に彼の左手を掴んだが、右手の親指が欠けていることなどそのときは忘れてしまっていて、彼から「こっちも変な手だな」と言われた。
「でも、いいな。これ」
一体親指の欠けた手の何がいいのかわかりかねた。私が顔をしかめると彼は笑って言った。
「だって、暗闇で手を握っても沙由里ちゃんの手だってよくわかるじゃん」
そのときの私の表情はどんなものだったか自分ではわからない。けれど、彼が驚いたのだけは知っている。
「うわっ、やめろよ。その顔でニヤけるの」
「……やっぱり酷い顔してますか」
やはりこの人も私の顔を嫌がるかと思ったが違った。
「くそ、反則だろ、それ」
彼は顔を逸らして私の手を引いて歩き出したが、後ろから見た彼の頬はわずかに赤らんでいるのを見てしまった。
ロビーへと抜けると、私の顔に気づいた何人かがそっと顔を背けたり、酷い人はじろじろと見てきたりした。どうということはない。いつものことだったが、彼は「沙由里ちゃんってすげえな」と感心していた。
一体何がすごいのかよくわからなかったが、彼はしばらく考えたかと思うと「やっぱ慣れか」と一人呟いていた。
帰りの車中で私が黙っていると、亜久津は「ところでさ」と切り出した。
「この前、顔隠すのはみんなが見たがらないからだって言ってたよな」
「はい。そうですよ。というか、見たい人っているんですか? 両親だって悲しい顔するのに赤の他人からしたらもっとひどいでしょう?」
「あー、やっぱそうだよな。自分の子供が沙由里ちゃんと同じ障がいを持っていたら、やっぱ直視できる自信ねえもん」
「正直ですね」
「気に障ったか?」
「とても、かなり、盛大に」
「悪い」
亜久津はそうは言ったが、大して申し訳なさそうにはしていなかった。
「障がいって案外本人よりも周りが気にするんですよ。私の場合は両親だったり、かつての友人だったり、なんだか当事者の私よりも悲しんでて、それを見ると、この人たちの中では私は不幸だと思われているんだなって」
「それはなんとなくわかる気がするな。心配が嵩じてかえって重荷になるっていうか」
「はい、プレッシャーとはまた違いますけどね。顔が半分爛れたとか、親指が片方ないとか、片手が曲がってるとか、所詮その程度のことでどうして私は不幸だと決めつけられなきゃいけないのかわかりませんし、不愉快ですね」
私がそう言うと、亜久津はしばらく押し黙った。
私が飲み会に参加したくないのもそういう理由だ。きっと周りは気を遣ってあれこれと世話を焼いてくれることだろうが、かえってそれが「あなたは不幸なのだから甘えていいのよ」と馬鹿にされているようにしか感じられないのだ。周りはきっと厚意のつもりなのだろうが、本人がどう思うかはそれぞれだ。もちろん私はその善意を否定する気はない。中にはそうやって励まされて勇気付けられる人だっているのだから。
「昔は可愛かったのか?」
「は?」
「いや、見たらなんとなくわかるけどさ。爛れてないところはかなり整ってるし、可愛かったんだろうなって思ってな」
「ああ、そうですね。自慢じゃないですが半年に一度は告白されてました」
「自慢じゃねえか」
「昔とったなんとやらですよ」
亜久津はその言葉の意味をよく理解しているわけではなかったがニュアンスだけは感じ取ったのか「へえ」と笑った。
「まあ、今となってはバケモノですけど」
「自分で言うなよ。さすがに返答に困るぜ」
「冗談ですよ。自分で言って自分で傷ついてますから」
こういうところが卑屈と言われる所以なのだろう。だが、だからといって「どうせ私なんか」とは言いださない。
「ブラックジョークと思って聞き流してください」
「ブラックジョーク、ねえ」
亜久津はわずかに眉を寄せた。
信号で車が止まると、亜久津は私の顔に手を伸ばしてきた。一瞬体が拒否しようと動きかけたが、どうしてか私は亜久津の反応が見たくなったのだった。
亜久津は私の前髪を優しく寄せて、爛れた部分をまじまじと見つめていた。しばらく眺めていると信号が青になった。
「青ですよ」
「……ああ」
車を発進させても亜久津はしばらく黙っていた。
「どう思いました? やっぱり直視したくなかったですか?」
誰だってこんなところは見たくないだろう。私が尋ねると亜久津は案の定「そうだな。ちょっと厳しい」と言った。
やっぱりそうだろうと私も小さく頷いたが、彼の次の言葉は私の予想を裏切った。
「でも、あれだな。毎日見てたら慣れそうだな」
「はい?」
「だってよ、普通女ってみんな化粧してるだろ?」
「まあ、そうでしょうね。私はしてませんけど」
医者から止められている。乾燥させないように塗り薬も使っているから化粧はできなかった。もっともこんな顔に化粧をしたところで余計に醜くなるだけだろうとは思うが。
「沙由里ちゃんの前髪も化粧みたいなもんだなって思ったんだよ」
「……いや、髪ですよ」
私が当然のように言うと彼はくつくつと笑った。
「いやだってよ、女って綺麗になりたいから、人にもっとよく見せたいから化粧するだろ?」
「まあ、一概にそう決めつけるのもどうかとは思いますが、概ね間違ってはいませんね」
化粧がマナーぐらいは俺でも知ってると亜久津は言った。
「人に見られたくない場所があるから化粧するわけじゃん」
「逆説的ですね」
「ぎゃく……」
「気にしないで続けてください」
車の外はもうすっかり土砂降りだった。一体今朝見た天気予報はなんだったのかと考えていると、亜久津は「うん、まあそれでな」と話を続けた。
「人に見られたくないところを隠すって意味では、沙由里ちゃんが前髪で顔を半分隠すのも同じだって言いたかったんだよ、俺は」
論理的に言えば、確かにそれは同じことに思えるが、私や他の女からしても同じだろうが、「それは違う」と言い切れる。けれども、なぜだか彼の言葉は妙に私の心に響いてきた。
「だから、今まで通り隠してても問題ないと思うし、まあ、俺だって外出してまで見ていたいもんでもないしな」
「……台無しですね、本当に」
「え?」
「なんでもありません」
「余談だけど、俺って不細工が嫌いでさ。もちろん美人は大好きだね。けど、不細工の何が嫌いって、不細工であることで卑屈になってるやつが嫌いなんだよ。今時化粧だって色々あるし、最悪整形って手段もあるだろ? いくらでも綺麗になる努力はできるってのに、それをしないで甘んじて受け入れているところが気にくわないんだよな」
「卑屈ですみませんね」
「沙由里ちゃんは卑屈とは違うだろ。なんていうか……開き直り?」
くつくつと笑う亜久津を見て、私は本当に人の気持ちを考えない男だと思った。私が自分の顔を卑下してそれでも「大丈夫、可愛いよ」と言われたいと思っていたら、どうするつもりだったのだろうか。私がそんなことを言われたら思わず鼻で笑ったことは間違いないだろうが。
「まあ、でも、少しだけ救われました」
「……そっか。そりゃよかった。いや、よかったのか?」
「まあまあですね。少なくとも私にとっては気持ちのいい言葉でした」
なんだか自分が肯定されたような気がした。不幸だけど別にそれでもいいじゃないかと、私には聞こえたのだ。
「ついたぜ」
「雨……上がりませんでしたね。結局」
「ん、ああ、そうだな」
町役場の駐車場に車を停めて、私は「それじゃあ」と言い出せなかったし、彼も「早く降りろ」とは言わなかった。
「キスは……しませんよ」
「……ダメか」
亜久津が私の顔に顔を近づけてきたので思わず言ってしまった。
「私、雰囲気に流されるような女じゃないので」
「……そんな気はしてた」
亜久津は小さくため息をついて運転席の背もたれに頭をつけた。
「私、人並みに恋愛してみたいとは思いますけど、大前提として障がい者なので、そう簡単に付き合ったり別れたりできないんですよ」
「それ、障がい者って関係あるのか?」
「ありますよ。むしろ障がい者だからって恋愛は自由だという人を私は信用できません」
亜久津は首を傾げていたが、「まあ、沙由里ちゃんが言うならそうなんだろうな」と言った。
「私は保障が欲しいんです。身を委ねても裏切られないという保障が。こんな顔ですし、他にいい人がいることもわかってますから、私と結婚して一緒に不幸になってくれる人じゃないと嫌なんです」
「一緒に不幸? 普通幸せじゃねえのか?」
「よく考えてみてくださいよ。毎日仕事から帰ってこの顔見るんですよ? 子供が産まれたらしっかり育てなきゃいけないのに、親は障がい者で子供からしたら『なんでお母さんは友達のお母さんと違うの?』と思うはずです。ですから、私は障がい者であることを気にしないから結婚しようと言う人は絶対に信用できませんし、健常者と結婚した方が苦労はしないと断言できます」
普通の生活、普通の家庭、普通の人生。それがなによりも幸せなことだと気づかせてくれたのは他でもない障がいだ。だが、だからといって私はこの障がいに感謝などする気もないし、今後一切障がいになってよかったと思うことはないだろう。
「でもさ、それって疲れねえ?」
「は?」
亜久津は手を口元に当ててなにやら考え込みつつもそう言った。私は思わず不躾に聞き返したが、彼は考えがまとまったようで大きく頷いた。
「俺ってこういう人間だからさ、あんまり後先考えるの苦手なんだよ。人の気持ちとかもあんまり考えて言わねえもんだから昔っから怒られてたんだけどな。大事な青春時代をヤンチャして過ごして、まあ、そのせいもあって安月給であくせく働く羽目になったんだろうけど、それはそれで別に悪いこととは思ってねえし、その場その場で感じた通りに生きるってのも悪くはねえよ。何より疲れないしな」
亜久津はそう言って微笑んだ。
「俺はさ、馬鹿だからな。あんまり頭使うと熱出すんだよ、たぶん」
「知恵熱ですか」
思わず私はくすりと笑った。
「その時の気持ちに従って生きるってのも、悪くはないだろ?」
「無計画です」
「いや、そこは褒めるところだろ」
亜久津は困り顔でこちらを振り向いた。
「でも、そうですね。それもまあ、少しだけですけど魅力的ですね。私は遠慮しますけど」
「そっか。じゃあ……俺は遠慮しなくても別にいいよな」
「それはまあ、亜久津さんの人生ですから、好きにしてください」
「おう」
私はここらでキリがいいだろうと車を降りようとしたが、亜久津が私の右手を引いたので彼の方に引き寄せられた。
気づけば、目の前に亜久津の瞳が閉じられていて、唇には柔らかくも温かい感触があった。
「……」
「俺の今の気持ちだ」
私はファーストキスを奪われたことよりも、呑気に「強引な人だな」ぐらいに考えていて、亜久津も真剣な顔をしていたわりには、私の返答を期待していないように思えた。
「私、重いですよ」
「……マジか」
「一生付き纏いますよ」
「ストーカーかよ」
「じゃないと一生独り身ですからね。必死になります。私だってできることなら、人並みの女の幸せというやつを知りたいですから」
「ああ、まあ、気持ちはわかるけどな」
「もし捨てようなんて考えたら祟ります」
「捨てねえよ! ってか怖えな!」
「信じられません。誓ってください。今ここで」
「マジかよ。本当に重いな!」
亜久津は声を荒げたが嫌がってはいなかった。私もそれがわかっていたから言ったのだ。
「冗談です」
そう言うと、彼は露骨に安堵していた。しかし、私が「さっきのはなかったことにしましょう」と言うと、今度は盛大に驚いた。
「なんで!?」
「なんでと言われましても、お互いのためにならないと思いましたし、亜久津さんといるのは確かに、いえ、百歩譲って、心地いいですけれど、たぶん亜久津さんはそのうちこんな女と一緒にならなければよかったと思うはずです」
「勝手に予想するなよ」
「いえ、十中八九そうなると思います」
「なんでそう言い切るんだ?」
健常者が障がい者を伴侶に選んで苦労しないはずがない。私は私を愛してくれる人が疲れ果てる姿なんて見たくない。
「私が健常者だったら好きになりましたか?」
「いや、そんなこと知るかよ。というか、それを言うなら健常者だったら出会ってたか?」
「ああ、その切り返しは初めてかもしれません」
吉木は「わからない」と言った。過去、私が障がい者でもいいと言ってくれた人はいた。けれど、その人は「君が健常者でもきっと僕は好きになった」と言っていたように記憶している。私はそんなロマンチックな言葉を聞きたいわけじゃない。もっと現実的で有無を言わせない強引な何かがよかったのだ。
「そんなまどろっこしいことはどうでもいい!」
それは私の求めていた答えじゃなかった。冷静で現実的な言葉ではなかった。ひどく乱暴で情熱的で、不愉快だけれど、微かに望んでいた言葉だった。
「理屈はいいんだよ! とにかく俺は沙由里が好きになったし、沙由里にも好きになって欲しい。それじゃダメか!?」
私はなんと答えればよかったのだろう。それは些か無計画すぎると思ったし、でもその一方で諦めていた情熱的な恋の予感もして、胸の奥が跳ねるようだった。否応なく、私は言葉を失い、気づけば、彼の双眸から目を離せずにいた。
「嫌なら、拒否しろよ」
亜久津が私の爛れていない左側の頬をそっと触れて、自分の方に顔を向けさせた。
彼が目を閉じるのを見て、一瞬顔を背けようとしたが、なぜだか私は彼と同じように目を閉じていたし、唇に温かい感触を得た頃には頬が濡れていることに気づいた。私はもう自分の心を偽れそうになかった。
「沙由里、好きだ」
「……はい」
「沙由里は俺のこと好きか?」
「わかりません」
「……」
「でも、もうちょっとこのままでいてください」
彼は私をそっと抱きしめてくれた。それがなんだか嬉しくもあり、けれど物足りなさもあり、私はつい「もっと強く」と言ってしまったが、彼は力強く私を抱きしめてくれた。
ずっと人を寄せ付けまいとしていたはずの心がじんわりと温かくなっていくのが自分でもわかった。
「私、龍治さんが浮気しないように努力します」
「おう。でも俺は浮気しない性分だ」
「もし、私が嫌になったら、たまには外で遊んできてもいいですから」
「いや、嫌になんかならねえよ」
「いえ、いいんです。私はこんなですし、そこまで期待していません。でも、ちゃんと私のところに帰ってきてください」
「……おう」
「……なんか今間がありませんでしたか?」
私がそう言うと彼は「いや、そうじゃなくてな」と目を逸らした。
「じゃあ、何ですか? 早速嫌になりましたか? ダメですよ、今更。あんな言葉で私を泣かせたくせにもう浮気の算段ですか? 許しません」
「いや、だから違うって!」
彼はそう言って首を振った。じゃあ、なんで今少しだけ間を開けたんだと再度聞けば、彼は申し訳なさそうに言うのだ。
「なんか変な味したなって……」
「……塗り薬の味です。その味は今後一生続きますから覚悟しておいてください」
本当にこの人は、ムードを台無しにする人だなと私は唇を尖らせた。
けれど、それもまた心地よく感じたのは事実だ。
「覚悟はできてるさ」
自信がないと言わんばかりに小声で呟かれた言葉に、私は愛おしさを感じずにいられなかった。
ふと窓の外を見ると、空はすっかり晴れ渡り、透き通るような青空に薄っすらと七色の橋が架かっていた。
ご意見ご感想お待ちしております。
*障がい者だからといってカテゴライズするのはとてもよくないことです。作者も障がい者の方と知り合うまではついカテゴライズしてしまい、異常な気遣いをすることが多かったように思います。
でも、障がい者の方々も千差万別で、明るい方もいれば、根暗な方も当然います。中には障がい者であるからと気遣わない人に怒る人だっています。一方で、快活に障がい者であることを笑い飛ばす人だっています。
作者も未だに接し方がよくわかっていません。でも、とにかく何も考えずに接してみると、案外明るい人が多くて驚きます。
結局、障がい者の方への接し方なんてものはなく、健常者である側の人間が、障がい者を不幸な立場の人間だと思っているからなんだと思います。
少しでも皆さんのお考えの一助となれば思います。