6
帰り道、璋子の足はふわふわとしていてまるで歩いた感覚が残っていなかった。どこをどう歩いたのかも覚えていないまま、気づくと見知った界隈を歩いていた。飛び切りのお礼などと大口を叩いた彼女だったが、特にこれと言って考えがあったわけでもなく、ここまで呆然とするだけに費やした時間を悔やんだ。
(何が好きなのかしら、やはり本かしら?)
馴染みの本屋の傍を通りかかりながら考えを巡らせてみる璋子だったが、彼女程度が選ぶものはとうに読了済みである可能性が高かった。それに何より問題は、手持ちの心許なさである。古本ならなんとかという程度で新刊が買えるはずもない。
(そうすると手作りで何か食べる物でも……でも好き嫌いを何も知らないわ。甘いものが好きでないのは分かっているけど)
そうしてうんうん考え込みながら歩いていた璋子は足元ばかりを見ていたせいか、彼女の帰りを待ちわびて目の前に立ちふさがった者の存在に気づいたのは、頭から激突してからだった。
「て、てるちゃ……」
「きゃ! ごめんなさい!」
まさか顔を確認されずにぶつかられるとは思わなかったのだろう、まともに胸部に頭突きをくらった茜はそれでも大したことはないというように、鷹揚にして軽薄な笑顔を見せた。
「大丈夫? ごめんなさい、私ったら」
「いや、平気だよ。それより少し時間あるかな? ちょっと話したいことが」
波照間商店の前で待っていた割に、今日は買い物をした様子が見受けられない。とはいえ断る理由もないので、請われるままについて行く。少し離れた小道の楢の木の影で立ち止まった茜は、いつもの軽々しさをひそめて璋子を見下ろす。
「なんですか?」
「てるちゃん、僕、周世氏のお屋敷を出ることになったよ」
「え? ……それは、試験に受かったと言うことですか?」
「いや、試験はもう少し先だ。それまで周世氏が懇意にしている方のところへ移ることになった」
「それはまた、急に」
「アリスお嬢さんが、僕に告白してきたからだ」
璋子の息が一瞬止まる。神妙な顔をした茜はどこか怪我をしていてその痛みをこらえるかのように、そんな彼女を見ていた。茜の言う告白が、よこしまなる趣味のことを告げたわけではないのは明らかだ。アリスが彼に恋心を抱いていたなど、これまで想像もつかなかったことだけに、璋子に走った衝撃は並大抵の努力では収まりそうになかった。
否、本当にそうだろうか。アリスの、茜を見つめる瞳を思い出し、認識を改めた。巧妙に隠されていたが、今の璋子になら分かる。アリスの中で茜だけが特別だったことが。
「運悪く、それが周世氏の耳にも入ることになってしまってね。僕はあすこにはいられなくなった」
「まあそれは……何と言ったらいいか……」
残念だと返すのも妙な気がして、璋子は微妙な言葉でお茶を濁すことしかできない。豪商の娘と書生が恋を成就させるには駆け落ちぐらいしかないが、周世氏の対応はそれを恐れてのことかもしれない。とはいっても陰ながら応援するぐらいは許されるだろうと顔を上げた璋子は、茜のそれが別段恋が実らず落胆しているようには見えないことに気づく。そんなことよりももっと強い決意に促されてここに立っているのだと言わんばかりの気迫に、少したじろいだ。
「アリスお嬢さんのおかげで僕も決心がついたから言うよ。てるちゃん、僕は君が好きだ」
何と答えたのか、璋子には覚えがなかった。ただ気づいたら、明りもつけない自室で胸に『少女倶楽部』を抱きしめたまま蹲っていた。どうやら異性からの初めても告白に、驚きすぎて束の間意識を飛ばしてしまったらしい。
「璋子お嬢さん? 夕餉の用意ができましたけど」
「今行くわ」
部屋の外から声をかけてきたハナにも、これまで呆然自失としていた事実などないかのように返事ができた。そこでようやく彼女は、胸から雑誌を引きはがす。中古とはいえ前の持ち主が大切に扱っていたためか新品同様だったそれはけれど、璋子の手に移るや否やこんなにもよれよれになってしまっていた。それをそっと畳の上に置く彼女の胸に確かな形でよぎる思いがあった。だがそれがこんなにも痛みと苦しみを伴っているなど、知りもしなかったし誰も教えてくれなかった。これまで散々ノートに書き散らしてきた他人同士のそれが、嘘くさく思えるほどに。
璋子は和泉のことが好きになってしまっていた。
翌日、アリスは女学校を欠席した。茜に振られたことが尾を引いているのだろうかと思ったが、その彼から告白を受けた璋子がどの面下げて見舞いになど行けよう。仮に行ったとしても門前払いを受けるだけだ。密かに彼女と顔を合わせ辛く思っていた璋子はアリスの欠席に安堵し、そんな軽蔑に値する自分が許せず落ち込んだ。
だがアリスはその翌日も欠席だった。さらに欠席はその次の日にも及んだため、これはもしかしたら本当に病欠なのではないかと疑った。だが意を決して尋ねてみても教師は詳細を教えてくれず、アリスの欠席はその翌日も続いた。いくらなんでも休みすぎだった。
「お聞きになりました? 周世さん、何やら学校を中退されるそうですわよ」
ついにはそんな噂話まで持ち上がる始末だ。普通なら一週間休んだくらいでそこまで飛躍したりしない。何やら噂の出所は、周世氏と懇意にしている何某の娘からのようであった。だが誰も、アリス自身と仲よくしている璋子にその真偽を問いに来たりしない。確かに何の情報も持っていないが、アリスといないなら価値はないと言われているようで不愉快だった。
女学校からの帰り道、璋子は憤慨に身を委ねて周世家を訪れた。だが反応は思った以上に深刻で、璋子は身内の人間どころか女中によって追い返された。
「旦那様から、あなた様をお通しするなと言いつかっておりますので」
「そんな……。じゃあそれでもいいわ、アリスさんは? ご病気なの?」
「お答えすることはできません」
冷たくあしらわれ、眼前でぴしゃりと戸を閉められた。門内にすら入れてもらえない始末だった。こうなったらすべてを押し殺して茜にすがろうかと思ったが、彼ももうここにはいないと考えるのが妥当だろう。それにあれ以来波照間商店にすら訪れない彼にどの面下げて頼もうと言うのだろうか。あまり覚えていないが、おそらく自分は勇気をもって告白してきた彼を振っているというのに。
そのままそこで悄然と肩を落としていた璋子は、こうなったら持久戦だと腹をくくることにした。ここで待っていればおそらく家中の誰かが帰ってくるだろう。まず車だろうが、飛びついてでも止めて聞き出してやると使命感を燃やす璋子だったが、忍び寄る夜の気配の中で次第に空腹感に蝕まれ負けそうになるのを自覚せずにはいられなくなった。
「く……まだまだ、これくらいで」
ぐるるるうううと獣の唸り声のような腹の虫が閑静な住宅街に響き渡った。幸いなことに夕餉時で外に出ている者は見当たらず、誰にも聞かれることはなかったがそれでも彼女は赤面することを止められなかった。家の者には何も言っていないので、帰宅が遅いことに気をもんでいるだろうがまだ璋子は諦めるつもりはなかった。
そんな彼女の腹の音を聞きつけたようなタイミングで、門前へと滑り込んできた車があった。だが車と行っても人力車で、汗だくの車夫に金を払って悠然と降り立ったのは捺希だった。彼は門前で座り込んでいる璋子に気づき、ぎょっとした。いつも無表情に近い彼の顔を変えることができたのは僥倖だったが、喜ぶのはまだ早い。
「捺希さん、お願いします。アリスさんに会わせてください」
「駄目だ。そんなところで何をしているかと思えば……もう遅い時間だ。帰りなさい」
「どうして駄目なんですか。私が彼女に悪影響を与えたとでも言うんですか」
「その通りだろう。君と会う前は無口で大人しい子だったのに、何を思ったのか急に書生なんかに惑わされ、その上画家になりたいなどと世迷言を吐き出した。なあ、君には分からんだろうが、あの子は周世家の宝物なんだ。君とは釣り合わないし、妹を引きずるのをやめてくれ」
「宝物なのに、軍人様に嫁がせるんですか」
腹の中がカッと熱くなったのは、空腹のせいではなかった。驚きを治めて再び冷たい無表情に戻っていた捺希だったが、彼女の言葉にもう一度素顔を引きずり出される。
「なんだと。君は僕の友人を虚仮にする気か」
「和泉様自身がどうこういう話ではありません。軍人様が相手であることを言っているんです。だって国に命を捧げている方ですのに、いつアリスさんが未亡人になってしまうか分からないじゃありませんか」
その課題は不謹慎を知りつつ一度は掌で玩具にした璋子であったが、実際にアリスの身に迫るとあれば話は別だった。捺希に対しては以前の彼のアリスの印象と同じ大人しく無口な少女であるはずの璋子が執拗に食って掛かっているせいか、怯んでいるようだったが彼は一歩も引く気はなかった。
「そうしたらこちらに戻すまでだ。君は知らないだろうが和泉家は尾張藩のご家老の血筋で由緒正しく、それに和泉自身も戦場で弾除けになるような一兵卒じゃない、士官なんだ。縁起でもないことを言うんじゃない。とにかく」
捺希は璋子との会話を終わらせるべく、彼女に背を向けた。
「卒業させてやれないのはかわいそうだが、アリスはもう女学校へはやらない。予定を早めて、和泉に嫁ぐまで、部屋からも出さない。これは父の決定で反対は許されない」
今度は取りつく島は与えるような下手は撃たなかった。再び眼前で門が閉ざされるのを、璋子は呆然と見つめていることしかできなかった。
そのままとぼとぼと家に帰ると、当然のように叱られた。だが話半分で俯いたまま、璋子は捺希が放った言葉の意味を考えていた。どうやらアリスは病気などではないようだが、自室に軟禁されているようだ。そしてそのまま和泉に嫁がされるのだろう。ちくりと胸が痛んだが、今は無視する。問題はアリス本人がそれをよしとしているかどうかだ。なんとかアリスと話をすることができないだろうか。このままではもう一生、彼女と顔を合わせる機会すらないということになりかねない。
だが周世家の人間は女中すら含めて全員、誰ひとり味方ではない。八方ふさがりだった。自室に戻った璋子は頭を抱えた。ほの暗い絶望感に、今、目を閉じたらそのまま暗闇落ちてしまいそうだった。
(もうアリスさんとは会うこともできないの……? ――否)
一人だけ、敵ではない人がいる。璋子は、目を開けた。闇に目が慣れたためぼんやりと室内のものの輪郭が浮き上がった。その中には開かれないまま置物のように鎮座する『少女倶楽部』もある。
結局、お礼などと言っても何一つ思い浮かんでいない。苦肉の策でちまちまと縫い上げた、友禅縮緬の端切れを使ったお守り袋が座卓の上で完成を待っているが、出来栄えは芳しくなくこんなものはやめてしまおうとすら思っていた。そんな借りばかりある状態でまた頼りにしてしまうというのは便利扱いしているようで気が咎めたが、もう他に頼れる人はいない。
(たった一人の友達だもの。私はアリスさんを諦めたくない。そのためならあの人に……嫌われたって構わない)
暗がりに、畳の上で握りしめた拳が仄かに白く浮かぶのが見えた。