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 その週の日曜璋子は、隣町で開催されている古本市に出かけた。いつもなら部屋にこもって情熱をノートに叩きつけるのだが、まるで筆が乗らなかった。白紙のそれを見下ろしていても珍しく何も思い浮かばないので、気分を変えるために外へ出ることにしたのだ。漱石全集のおかげで小遣いはほとんど底をついていたが、古本ならなんとか変えないことはない。その漱石全集を読む気にもなれなかったのだから、相当自分は疲れているのだと冷静に分析する。

 ただ、その漱石全集に触れると自動的に和泉のことを思い出してしまうために避けている節もないわけではない。あの男のことを思うと胸が苦しくなるばかりで余計に落ち込んでしまいそうで特に今は、何も考えたくなかった。

 古本市は賑わっていた。天気に恵まれたこともあるだろう。単の着物を着てきてしまったため少し肌寒いが、温かい陽射しを浴びているとどの本も魅力的に見えてくるから困る。そんな焦りを楽しみつつも心穏やかに見て回っていた璋子は、衝撃的なものを見つけて思わず立ち止まった。

 それは売り切れのため涙を呑んで諦めた、『少女倶楽部』の今月号だった。まだ翌月号が発行するまでには一週間以上あり、もしかしたらまだどこかの書店では店頭に並んでいるかもしれないというのに、持ち主はもはや手放すことに未練はないらしい。

 璋子がそれに、手を伸ばさないでいられるわけがない。だが途中でそれは、止まってしまう。値段が本来の雑誌の価格より釣り上げられていたためだ。そうなると必然的に、璋子の持ち金では買えなくなってしまう。

「おじさん、この雑誌、もう少し安くならない?」

「ならない。びた一文負けられないよ」

 店番の男は頑固にそう言い張った。負けじと交渉を続ける璋子だったが、男の態度は変わりそうにない。このままでは誰かに買われてしまうだろう、そうなる前に中身を少しだけでも見られたらとそっと手を伸ばした璋子だがしかし店番の男に咎められる。

「買わないなら、触ってもらっちゃ困るな」

「で、でも、他のところでは触って見てるし」

「ここでは駄目なんだ。ほら行った行った」

 犬のように追い立てられてむっとする璋子だったが、持ち合わせがないのではどうしようもない。歯噛みしながら買えなかった雑誌を未練がましく見下ろす璋子の頭上に、覚えのある声が降ってきた。

「買わないんですか?」

「!」

 思わず飛び上った璋子の隣に並んだ和泉は、彼女が見ていた商品を興味深そうに見下ろした。軍服ではなく、いつぞや見た時のような清潔そうな私服姿だった。たったそれだけで、妙な安心感を覚えた。単純に、周世家での出来事を彷彿とするものを身にまとっていないというだが。

「どうして、こんなところに……」

「おや、おかしいですか? 本好きが来ないわけにはいかないでしょう。宿舎にまでチラシを放り込んでいくほどだからどれほどのものだろうかと思いましてね。ところで、欲しいものは、これでは?」

 和泉が指さす少女倶楽部から、璋子は無理やりに視線を背けた。そしてそのまま背を向ける。

「いいんです。私なんかに買われても、その子も報われないだろうし」

「では私が買いましょう」

「え!」

 頬を膨らませかけていた璋子だったが、和泉の行動に思わず振り返る。するとそこにはもはや買い物を終え男の無骨な掌に納まった少女倶楽部があるばかりだった。優しげな容貌にばかり目を奪われていたが、そうして改めてみるとやはり軍人の、鍛えられた男の手をしていることに気づいて璋子は、どぎまぎする。その手に不似合いの煌びやかな表紙の少女系の雑誌を持っているものだから、笑っていいのかどうかも分からない。

「よ、読まれるのですか……?」

「そうですね。一度、こういう系統のものも目を通すべきでしょう。やはり本好きとしては」

 涼しい顔で言いながら、和泉はぱらぱらと雑誌を流し見た。満足に目を通しているとは思い難いが、最後まで見終わった顔は苦虫を噛み潰したように顰められていた。

「……僕が読むには少々癖が強すぎたようです。これはあなたに差し上げましょう」

「え……。ええと……」

 ぽかんとする璋子の前に、過日の再現のように『少女倶楽部』が差し出される。差し出された品と差し出している男との間に全くこれっぽっちも関連性のようなものを見いだせず、またその行為にもどう反応するべきか分からずに、璋子はただただ狼狽えた。

 そうして自分が与えられてばかりだということに気づく。『新青年』もそうだし、それにあの雑誌は茜がもってきたものと取り換えられたのだ。元の持ち主にまったく理不尽に返却された記憶もまだ色あせていないのに、この男はそれをどういう風に処理したのだろうかと、璋子の脳内でめまぐるしく思考が乱舞する。そんな半ば混乱した状態ではまともな態度が取れたはずもなく。

「でも……私……私は、そんな風に施しばかり受ける義理が……」

「ではこれはもういらないので捨てましょう」

「駄目!」

 踵を返そうとした和泉に、思わず璋子はしがみついていた。掴んだのはシャツの一部だったが、その向こう側に確かな熱を持った一人の人間がいることを悟るには、あまりにも過ぎた行為だった。十八の嫁入り前の女性としてふさわしいとは到底思えない。案の定璋子が飛びのいたときには、一部始終を見ていた店番の頑固な男が目を丸くしていた。

「す、すみません。私ったらはしたない……」

「どうぞ」

 真っ赤になって慌てる璋子に、少しも気にしたそぶりを見せずに和泉は『少女倶楽部』を再度差し出してくる。今度は彼女も、それを突っぱねることはできなかった。

「和泉様って、いじわるなのね」

「そんな風に言われるのは初めてです。少し歩きませんか」

 古本市を離れ往来を歩きながらも、璋子は胸の高鳴りが収まらないことに困惑していた。あれほど欲しかった『少女倶楽部』をついに入手することが叶った興奮にしては、あまりにも大袈裟だった。やはり先ほどのはしたない己が尾を引いているのだろう。しかし恥ずかしさよりも心地よさすら感じているのは解せなかった。

「『新青年』に続いて『少女倶楽部』までいただいてしまって……私、返せるものがありません。いったいどうしてくれるんですか」

 勢い余って思わず糾弾口調になってしまう。それを真に受けたとは思えないが、隣で和泉が顔色を曇らせた。

「あなたに差し上げたはずの『新青年』が、どうしてか戻ってきてしまいました。もう一度渡す機会もなく仕方なしに持ち帰ったのですが」

「あ……。お気を落とさないで。他から手に入れましたから」

「そうですか」

 それが正しい答えなのか、璋子には分からなかった。ただ和泉はあの雑誌の中身について議論したがっていたし、おそらく不正解ではないのだろう。微かに笑ってはいても晴れない顔色が気になるが。

 しかしそれにしても、茜が言っていたのは正論である。いくら璋子が欲しがっていたところを知っているとはいえ、そして偶然に持っていたとはいえ、見合い相手の実家で見合い相手以外の女性に贈り物をすることをこの男は、いったいどう思っているのだろう。単にいいことをしたと気にもとめていないのか。だとすればそれは見合いそれ自体を重く受け止めていない、つまりさほど乗り気でないということにならないだろうか。

(……何を考えているの、私。そうだったとしても、破談と決まったわけでもないわ)

 アリスの救いとなるかもしれない考えを、璋子は放棄した。その結果救われるのがアリスだけではないという事実からも、目を背けるように。

「どうかしましたか?」

「いいえ。それでお話になりたいことって、やはり江戸川乱歩のことかしら」

「! やはり璋子さんも気になりましたか」

 確かに氏名は教えたがいきなり名前で呼ぶなど馴れ馴れしいとぎょっとなる璋子だったが、それ以上に明るく輝かせた子供のような表情に、思わず彼女は釘付けになった。もう十分に大人と呼べる年代で、しかも軍人であるというのに、そんな無邪気な顔を無防備に晒す男などこれまで見たことがなかったためだ。

「……という風に僕は考えたんですが、璋子さんはどう思いました?」

「え、わ、私は、そこまでは……あれはただ、明智がいたからこそ誰も死なずに済んだので」

 見惚れてはいても話を聞いていなかったわけではなかったので、水を向けられて意見を述べる。とはいえそれは、和泉の述べたものよりよほど底の浅い、いうなれば誰でも思いつくような当たり前の感想でしかなかった。情けなさで自然と顔が俯いてしまう。

「やはりそうですか。僕が深く考えすぎなんですね」

「でも、あのお話でそこまで考えるなんて普通できないわ。すごい考察だと思います」

「え、そうですか?」

 顔を無理やり持ち上げてありふれた世辞を述べる璋子だったが、和泉は照れたように笑っていた。そこまでくるともはや璋子は、呆れの境地に達してしまう。

「い、いい加減になされませ、和泉様。あなた私をこれ以上どうなさるおつもりです」

「? すみません。軍にいるとこういう風に議論を交わすこともかなわないので。上官とは私語はできないし部下はへつらうばかりで議論にならないから。それに褒められたのは初めてなんですよ」

 短時間での和泉に関する情報の蓄積にどうにかなってしまいそうで、思わず支離滅裂な叱責をくれる璋子に彼はこそばゆそうに告げた。馬鹿なことを言ったと後悔した時には既に、和泉は彼女の傍を離れようとしていた。おりしも道も十字路に差し掛かり、彼は左へ折れるつもりの様子だった。そちらは宿舎がある方向で璋子には用がないが、右に折れれば彼女は家に帰ることができる。

「今日は楽しかったです。だいぶ素を晒してしまったみたいでお恥ずかしい限りですが、こんなに楽しかったのは中学校卒業以来です。それでは」

「あ……ま、待って」

 呼び止めてどうする気があったわけでもない。ただこのまま別れてしまうことに強い抵抗を感じたのだ。それは衝動となって璋子を突き動かし、彼女の腕を前へと伸ばさせた。そしてその手が掴んだのは今度は服の裾ではなく、和泉の手であった。

「!」

 勢い込みすぎて強く握りこんでしまったそれを、璋子は慌てて放り出す。女子の力などたかが知れているが、和泉に不審に思われるのだけは避けたかった。過ぎてしまったことはもはや消し去ることはできないとしても。離してもなおそこには印を刻んだかのように男の熱が残留していた。

「……なんですか?」

「次はいつ、お会いできますか」

 璋子は自分がまだ冷静でないことを自覚していた。だからそれらの言葉が意識の中から勝手に紡がれるのを、止めることができないでいた。つまりは掛け値なしの本音であり、操作できない感情の奔流に戸惑うばかりだ。

 ここで別れたくない。また会いたい。だが和泉は、悲しそうな微笑を浮かべて彼女を見下ろした。それだけで言葉など聞かずとも、それが無茶な質問だということを悟らずにはいられない。

 彼は国家に心臓を捧げた軍人で、休日には外界へと出られても限りがあり、さらにはゆくゆくはアリスの伴侶となろう身だ。他の女と軽々しく会うことが世間的に許されるはずもない。まして思いを寄せるなど。

「勘違いなさらないでください。私は単に、お礼をお返ししたいと思っているだけです。貰いっぱなしなんて、許せませんから」

「礼には及びません。僕が勝手にしていることですから」

「あなたの考えなど聞いていません。私がそうしないと済まないんです」

 言いながら、どうしてこんなつんけんした物言いになってしまうのかと璋子は自分を責めた。冷たくあしらいたいわけでないのに、女性らしく甘えた態度を見せることができない。そんなかわいげのない己に腹が立って、口調はますます冷たくなる。悪循環に何もかも放り出して逃げ出したくなった。けれどそうする前に、和泉の穏やかな声が彼女の頭上に降り注ぐ。

「では次の日曜にでも。ちょうど非番ですし、あの本屋へも足を運ぼうと思っていましたから」

「飛び切りのお礼を差し上げますから、覚悟しておいてくださいませ」

 また勝手に言葉が口から飛び出した。そんな喧嘩腰で、いい印象が与えられるはずもない。しかし顔を上げた先で和泉は、それが彼女の本意ではないことを知っているかのように柔らかく微笑んでいた。小さく一礼をして去っていく。胸に抱えた『少女倶楽部』が力を加えすぎてよれてしまっていることにも気づかず、まっすぐに伸びたその背中が見えなくなるまで璋子はその場に立ち尽くしていた。


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