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「あれからお兄様を締め上げてやりましたわ」
「え、紐か何かで……?」
「え……やだ、璋子さんたら、いけない人ね……!」
締め上げたを縛り上げたか何かだと勘違いして胸に来るもの感じた璋子を、同じく胸に何か来てしまった様子のアリスが諌めた。割烹実習で作った惣菜を昼食としていただきながらのことである。自重は自分にこそ必要なのではないかと、璋子は自らを省みる。
「今日こそは掃除当番をしなくてはと思っていましたのに、またいの一番に飛び出してしまいそうですわ」
「ごめんなさい」
「冗談ですわ、今日はちゃんといたします。だってできるだけ家に帰りたくないんですもの」
別の卓にいる同級生らがアリスを睨んできたが、当の本人はどこ吹く風だった。しかし璋子には、彼女らしからぬ暗さを抱えていることが分かった。それきりアリスは目の前の食事を片付けるために黙り込んでしまったので、璋子も箸を動かす作業に戻る。二人が黙ると、彼女らの班は葬式中かというほどの静寂に包まれた。
そこそこの階級出身者ばかりなので派手に騒ぐということはないが、それでも他の班はそれなりにおしゃべりに興じているのに、この班だけ水を打ったように静まり返っているのは、璋子以外の同級生がアリスの存在感に圧倒されているためだった。特に彼女が何かしたわけでもないのに、逆鱗に触れることを恐れている。今食べている煮つけだって、アリスがしようとしていた作業をそんなことはさせられないと他の生徒が奪った末での出来栄えなのだ。格別不味いということはないが、後味の悪さだけが残る。仕事を取り上げられたアリスが手持無沙汰そうにしている様を見てられなくて、必要のない洗い物をわざわざ璋子が配分してやったほどだった。
この状況に、璋子は覚えがあった。昨夜招かれた周世家の晩餐会の彼女はまさしくこれであった。むしろあちらは身分差から仕方ないと納得できないでもないが、アリスは褒めそびやかされるならまだしも遠巻きにされているのが、璋子には気に入らない。少しだけ家の財力が異なるだけで、彼女とて同じ年の少女であることに変わりはないのに。
璋子は昨夜の悲しみも忘れて一人憤った。娘との友達づきあいを辞めてほしがっている周世家にはおそらく二度と訪ねることはできないだろうが、学校では別だ。璋子はその日掃除当番になっている同級生に代わってもらい、アリスの傍にいることにした。そんな璋子をアリスは、少しだけ困ったように、けれどそこはかとなく嬉しそうに笑った。
「馬鹿げた話ですわ。私が璋子さんと二人きりでひそひそこそこそしているものだから、お兄様ったら私たちが『S』なのではないかと疑ったらしいんですの」
「S……」
「お兄様、『花物語』の読みすぎなのですわ。私の部屋からこっそり『少女画報』を持ち出して読んでいること、私が知らないとでも思ってらっしゃるのかしら」
「え、部屋に? 大丈夫なの?」
Sとは女性同士の同性愛のことであるが、吉屋信子の花物語は最初こそ違うが次第に少女同士の恋愛へと路線を変えて行ったため、捺希はそれに影響されているのだと箒を動かしながらアリスは憤慨する。ちなみに他の掃除当番の生徒はアリスの一声により既に去っていて、教室には璋子と二人きりである。
「平気よ、お兄様は私の絵などまるで興味がありませんもの。あの人だけじゃなく、両親もね」
アリスは平然としたものだったが、璋子はいつか彼女が描いているもののせいで家族から弾劾される日が来るのではとひやひやしていた。とはいえ見合いを捺希からの提案で進めたということはそこが問題視されているわけではないので、疑惑は不本意ではあったが真に隠すべき部分が暴かれたわけではないので、微妙な感じではあったが安堵する。
「前の時、薄々感じていたのだけれど、璋子さんがいらっしゃれば下手なことはすまいと思ったのに大誤算ですわ。お母様ったらあの後ぐちぐち文句ばかりおっしゃって……それに肝心のお兄様があの方との乳繰り合いを昨夜に限ってなさらないなんて、まったく予想もつきませんでしたわ」
「でも、アリスさん。捺希さんがまだ独身なのに、アリスさんがお嫁に行くのは順番としてどうなの?」
「そう、そうなのよ、璋子さん! ひどいのよ、お兄様ったら! ご自分はなんともう両家顔合わせも済んでいて、来月には結納というところまで話が進んでいるというの! それまでは黙ってるつもりでいらしたんですってよ、お父様もお母様もひどいわ。いくらそのうちお嫁に行くからって、私だけ蚊帳の外なんて」
「まあ、きっといろいろお考えがあるんじゃないかしら」
アリスは両家の子女らしくもなく地団太を踏んだ。激怒する彼女を宥めるようにしながら、璋子は恐る恐る尋ねる。
「じゃあ家に帰りたくない理由というのは、捺希さんのことに腹を立てているせいなのね? アリスさん自身のお見合いのことは前向きに検討しているってことなのかしら」
璋子は、おめでとうと言いたかったのだ。それは祝福されるべきことで、自分なんかが心を痛める要素はどこにもないのだと。
アリスのお見合いのことは、確実に璋子の中で傷となっていた。親友が嫁いでしまえばこれまでのように情熱を共有することもできなくなるだろうという思いもあったが、それだけで目の前が真っ暗になるような衝撃を受けるはずもない。だが彼女は何がそれほどまで自分を傷つけたのか分からない。アリスのように、自分の知らぬところで身内の縁談が進んでいたことに対する衝撃との違いがそこに、果たしてあるだろうか。
そんな璋子の内心など知るわけもないのに、アリスは顔色を曇らせた。
「璋子さんは将来何になりたいの? お店を継ぐのかしら。それとも小説家になる?」
「え……小説家なんて、そんな」
「あんなに素晴らしい文章をお書きになるのに、謙遜なんてやめて頂戴よ」
慌てる璋子を見てアリスは笑ったが、表情は晴れないままだ。止まっていた箒を静かに動かしながら、彼女はそっと口を開いた。
「私は、画家になりたいのですわ。だから結婚なんてする気はありませんの。この見合いは破談にしてみせます。一歩も前になんて進めさせない。それに……」
その目に感情は灯っておらず、けれど強い意志の光だけが宿っていた。思わず璋子はぞくりと背を震わせる。アリスは本気だった。そしてこれまで彼女に見せてもらってきた絵たちを思い出す。思わず膝をついてしまうほどの気迫に遊びのつもりなど一切なく、全て紛れもない本気の一端だったのだ。よこしまなる情熱は共有してきたが、璋子にはアリスのような覚悟を作品に込めることはできない。もはやそれだけで、文筆業で生計を立てることなど到底無理であることを悟らざるを得ない。
「それに、自分の伴侶くらい、自分で見つけますわ」
独り言のように小さく呟いたアリスの瞳から厳しさが薄れ、甘く揺らいだ。そんな彼女を見て璋子は、おやと思う。必死で皮膚の内側に押し込めようとしているが、その顔はまさしく恋をする者のそれに違いない。彼女とは架空の恋愛話に興じることはあれど現実的な恋愛話を持ち出したことはこれまで皆無だったため意外に思えたが、年ごろからすれば順当ではある。初恋もまだ知らぬ璋子がおかしなくらいだ。そう思うとまた気分が一層沈んでいきそうになる。
「璋子さん、あの方、どう思われたかしら」
「え、どの方?」
「私のお見合い相手の、和泉少尉ですわ」
物思いに沈んでいた璋子だったが、和泉の名が上るなりどきりと心臓を高鳴らせた。そしてアリスの表情がウキウキしたものに変じていることにようやく気づく。便宜上お見合い相手とは言ったが、もはや彼女の中では題材としての位置を獲得している人物でしかないようだ。
「やはりお兄様と並ぶと異様な迫力がありますわよね。軍属時代は上下関係が厳しいくらいで大したことはなかったなんて、思い出をあまり語ってくださらないお兄様ですけど、それはそれで逆にいろいろと妄想が捗りますわ。でもだからって茜さんを除外してしまうのは楽しみが半減してしまいますわ……やはりここは三人で」
璋子は、どう思うかという問いに、アリスと並ぶと誰も入ることのできない完璧なお似合いの男女であることを答えようとしていたが、アリスが結婚に否定的である以上それを述べることはできかねた。彼女は破談にしてみせると言ったが、いかなる覚悟を持とうと果たして十八の小娘の力でそれが可能であるかどうか、判ずることは難しい。ならば現在進行形で和泉とアリスの間には他者には割り込めない縁が生じていることになり、容易によこしまな妄想を展開して楽しむことが璋子には困難になっていた。
「こんなのはどうかしら。不謹慎かもしれないけど、和泉少尉が戦地へ移動を命ぜられてしまうの。明日をも知れない身となって、けれどそれを隠して捺希に迫るのよ」
璋子たちにとって戦争とは子供の頃の大戦であるが、幼すぎて実感がなくまた今日まで戦争と名のつくものは勃発していないため、軍隊は横行していても遠い夢物語でしかなかった。
「まあそれは不謹慎ですけど、素敵ですわ! 二人の最後の夜ですわね。でもそうすると肆朗は……あら、でも明日をも知れないのは何も軍人様だけに限りませんわよ。何せ昨今では交通事故が絶えなくて」
気は乗らずとも無理やりに話を合わせて、これまでと同じ情熱を持っていることを装うのは容易いことだった。たとえ真なる魂がこもっておらず、苦しさを感じていたとしても。