3
一週間は、あっという間に経った。周世家の食卓に招かれるのは初めてではなかったが、今回ほど妙な空気感に陥ったことはこれまでに例がなかった。
まずいつものようにアリスの部屋に行こうとした璋子は彼女の母親に呼び止められ応接間へと通された。ルイス・キャロルが好きで、そのために娘に『アリス』と名付けたほどのメルヘンな思考を持つ周世夫人の悪意もなければ他愛もない、けれどどこかふわふわした世間話で拘束され、そのまま食事の時間までアリスと会うこともできなかった。聞けばアリスも、何度かここへ降りてこようとしたらしかったが兄に止められたという。
そうして引き離されている間に客人が到着し、璋子は件の男を間近で見る機会に恵まれた。アリスが描いたままの涼やかな容姿の軍人は、璋子より先に気づいた。
「君は、あの時本屋にいた……?」
服装が違うことで遅れを取った璋子だったが、それが先日棚から漱石を取ってくれた男であることが分かって、納得した。やはり見たことがあった気がしたのは気のせいではなかったのだ。
「あら、お知り合いだった?」
「ええ、ほんの少しだけ。でも私の名前まではご存じありませんよね? 初めまして、和泉南雲と申します」
「波照間璋子です」
顔見知りだったことに驚く周世夫人の前で自己紹介をしていると、アリスの父親である周世氏が洋酒の瓶とグラスを手ずから二つ持って上機嫌で応接室に入ってきた。
「和泉くんは小坂井歩兵第二十連隊第三中隊の隊長殿なんだよなあ。倅と同い年で少尉なんだから驚くほど優秀だ。当然このまま上を目指して陸軍大学校へ行くんだろう?」
「まあ、あなた。お食事の前なのにお飲みになっちゃいけませんわ」
「何、少しだけだ。付き合いたまえよ、和泉少尉」
「ではお言葉に甘えて」
「しょうがない方たちねえ。璋子さん、私たちは先に食堂に行きましょうか」
酒の匂いが嫌いなのかそそくさと応接室を出て行く周世夫人の後を追おうとした璋子は、和泉に呼び止められた。そうして彼が差し出してきたのは、彼女が欲していた『新青年』の今月号であった。思わず声を発しそうになって咄嗟に手で口を覆うも、丸くなった目は隠し通すことはできない。
「ほんの偶然なのですが、部下から読み古したものをもらいましてね。そういうわけで私や部下の手垢がついてしまっていますが、よろしかったら」
「え……、わ、私に?」
目を丸くする璋子の様子をおかしそうに、けれど優しげな和泉の瞳が見下ろしていた。
「どうぞ。売り切れですごくがっかりしていたでしょう。それとも他で見つけてしまいましたか?」
「いいえ、いいえ。でも本当に、貰ってしまっていいのかしら……」
口では遠慮しながらも、璋子の手は僅かずつながらも確実に、和泉の差し出す『新青年』へと伸びていた。そんな彼女を笑うでもなくただ微笑んで見下ろしながら、引く素振りを見せた。慌てて璋子が掴んでくるのを待っていたようだ。はしたないことをした自分の体が熱くなるのを感じながらも、対面する男にはそんな彼女をあざ笑ったり馬鹿にしたりする様子は微塵も見受けられない。ただただ優しく、見ているだけだ。軍服を着ているのに、軍人特有の厳格さや近寄りがたさはまるで見受けられない。おそらくそれが彼の本質なのだろう。
「あ……ありがとう、ございます」
「実は気になっている箇所があるんです。よければ今度その話を」
「おい、和泉くん。その子に手を出しちゃいかんぞ。大事な波照間商店の跡取り娘なんだからな」
ちっとも酒の相手をしてくれない和泉に焦れたのか、周世氏が大声で彼を呼んだ。直接出て行けと言われたわけでもないのに、なぜか周世氏の言うそれが悪口に聞こえて、璋子は身を翻して応接室を出て行く。
自分が構われずに璋子と話していたのが気に食わなかったのは確かだろうが、璋子としては波照間商店を将来負って立つかどうかも決めておらず、勝手に跡取り娘にされたことが腹立たしかったのだ。確かに看板娘になれるほどの器量もないし、店に出ることも稀だから、他に言い方がないのだろうというのも渋々ながら納得がいかないでもないが、決定事項のように言われるのは業腹だった。
胸元に『新青年』を抱えたまま頬を膨らませて傲然と廊下を歩んでいた璋子だったが、鞄は応接室に置いてきてしまっていた。食堂に持ち込んで汚してしまってもいけないので一時的にアリスの部屋で保管してもらおうかと思って歩いていると、彼女を探していた風情の茜に声をかけられた。
「あれ、てるちゃん一人? 夫人は?」
「あの方なら先に食堂へ……」
「そう。まあ、一人の方が都合がいいんだけど」
言いながら茜が差し出してきたのは、璋子が今胸元に抱えているのと寸分たがわぬ『新青年』の今月号であった。ただ違いがあるとすれば若干のよれもない新品であるということぐらいだ。
「てるちゃん、読みたがってただろ。だからこれ、あげる」
「え……でも」
「遠慮しないで」
押し付けようとしていた茜は、璋子が胸元に抱えているものの正体に気づいて顔色を変えた。
「あ、なんだ。もう買ったの? やだなあ、それならそうと言ってくれれば」
「いいえ、これはいただいたもので」
「いただいたって、誰に?」
「和泉さんに」
言ってから、『さん』ではなく『少尉』をつけるべきだったか、それとも『様』と言うべきだったかと悩む璋子だったが、茜に浮かんでいる表情を見てはっと息を飲み、そもそも名前など言うべきでなかったことを悟る。しかしそれが何に由来するのかは分からない。ただ茜が、怒りを抱えていることだけが璋子に分かる全てだ。
「じゃあそんな汚いのやめて、こっちにしなよ。綺麗だよ」
「え」
怒りを押し殺した笑顔を張り付けた茜によって、璋子は抱えている雑誌を無理やりに奪われた。代わりに押し付けられたものは同じ質量を持っていたものの、既に違う存在としてそこにあった。困惑している璋子を置いて、古びた方を袂に入れた茜は去って行った。その背を眺めながら璋子の脳内で、彼女の感情など無視して不謹慎な妄想が展開していく。
(和泉様の触れた雑誌が欲しかったのかしら……? つまり、一見捺希を奪い合っているようで、肆郎も和泉様に心惹かれていっているの? 私のような小娘に渡したことに嫉妬して?)
璋子は今すぐアリスと会って、ときめきに揺れる心の内をぶちまけてしまいたかったが、女中が呼びにきてしまったので結局雑誌を抱えたまま食堂へ行かなくてはならなくなった。
食堂では既にアリスが着席していた。なぜかモダンガール風のワンピースに着替えている。しかし目が合った二人が声を掛け合うより先に、夫人の手によって席に誘導される。しかもこれまでのようにアリスの隣ではなく、間に夫人が座って壁となったため私語を交わすのは難しかった。
続いてやってきたのは茜と捺希で、それぞれ璋子と夫人の前の席に座る。先刻のこともあって気軽に茜と目を合わせることがためらわれたが、彼の中では既に終わったことなのかいつものように軽薄そうな笑みを浮かべているだけだった。
そして遅れて登場した周世氏が上座に座り、和泉の席は残ったアリスの対面となった。席順に怪訝そうな顔をしているのはアリスと璋子だけだった。しかもアリスはどこか悟ったような「はいはい」という諦めを含んでいたので、戸惑っているのは璋子ばかりとなる。
「璋子さんはやはり波照間商店をお継ぎになるの? そうするとお婿さんを迎えることになるのかしら」
「え、ええと……」
「誰かいい人いたら紹介させてね?」
食事が始まると璋子は夫人からの穏やかなれど有無を言わさぬ『口撃』に晒された。他に喋っているのは周世氏と和泉だけで、最近の軍部の動向や上海での不穏な動きなど女性では入れない話題に明け暮れている。捺希と茜は黙々と食事をするばかりだ。それはアリスも同じであるが、彼女がどこへ視線を飛ばしているかは夫人に遮られていて見られない。
ただ、目の前に題材となるべき男が三人、揃っているのだ。平静を装っていてもおそらく心の中はすさまじいことになっているだろう。そんなことを考えながら璋子は何気なく顔を上げて、和泉と目が合ってしまい慌てて視線を落とす。何か恥ずかしかったのだ。妄想は彼女の中から一遍足りとて漏れていないはずなのに。
璋子はそれを、茜のせいだと思った。彼が余計なことをしたばかりに、和泉に対して気後れした気分を抱いているのだ。何せ今彼女が膝に乗せているのは、和泉からもらったものではないのだから。
「ん? どうしたの、てるちゃん」
「……なんでもありません」
この男は自分が璋子に恥を与えていることにまるで気づいていないのだ。頬を膨らませながら茜をあしらった璋子はその頬に視線を感じて顔を上げると、和泉が興味深そうにこちらを見ているのに気づいてまた目を落とした。そこへずっと黙っていた捺希が声をかけ、和泉の視線は周世氏の方へと戻ったようだった。
(何? ……この状況)
奇妙な晩餐会だった。そろそろ混乱してきた璋子は、味が分からなくなってきたコロッケをもそもそと口へ運ぶだけの機械に徹することにした。和食中心の波照間家とは違い洋食が頻繁に出てくる周世家の晩餐を毎回楽しみにしていた彼女だったが、味を感じなくなるなど初めてのことだった。
和泉が視線をくれるのでまともに男たちを観賞することもままならない。茜の視線は全く気にならず、こちらへ目を寄越しもしない捺希までは容易だというのに。周世家の一員ではない彼女の存在が気になるだけかもしれないが。
確かに彼女は場違いなのだ。本来なら絹を纏った人々と同じ食卓につくべきではない。木綿に身を包んだ女中たちとそう変わらぬ立場であるはずだ。周世氏や夫人の物言いもそれを殊更強調されているようで、同じ卓についていながら輪から弾かれていることを実感せずにはいられない。この中で一番璋子に近いのは茜だろうが、彼とて周世の傘の下で彼女には難解すぎる学問に挑む立場にあるのだから同列には語れないはずだ。
璋子に思い知らせるための晩餐会だというにはおこがましいが、思い込みで済ますことは難しかった。暗にアリスと友達をやめろと言われているようで、怒りよりも悲しみがこみあげてくる。
「あら、どうしたの? 璋子さん。デザートがお気に召さないかしら?」
「……いえ、とてもおいしいです」
「それはよかったわ。波照間商店のお墨付きを頂けたようなものね。フォンダンショコラというのだけど、璋子さんはご存じ?」
チョコレートがふんだんに使われたそのケーキのようなものを食べたのは、これが初めてだった。けれど甘いものがそもそも好きではない上に場の息苦しさもあって、おいしさなど微塵も感じられない。
「お母様、これ甘すぎて好きではありませんわ」
「まあ、アリスさんったら」
「すみません、私もあまり……」
久しぶりに聞いたアリスの声に、和泉のそれが同調する。周世氏に至っては一口崩しただけで食べることを放棄して、珈琲ばかりを飲んでいた。
「殿方が好まれないのはさておいても、アリスさんはチョコレートお好きでしょうに」
夫人の意識が璋子から離れたことで、彼女はほっと安堵の息をついた。夫人が何くれなく話しかけてくる度に居心地の悪さを感じるようになってしまっていたからだ。今となってはもはや素早くこの場を辞することだけが璋子の目標だった。
だが璋子がもそもそしている間に食事は終了し、男性陣は酒をたしなむために応接室へ移動し、アリスは小言を言いたそうにしている苦い顔をした母親に連れられて、一人食堂に残されることになってしまった。
「帰れってことね……」
女中たちは無言で片づけを始めていた。その一人を捕まえて璋子は、応接室にある鞄を取ってきてもらうことにした。
「玄関で待っていますから、お願いします」
璋子は自分の顔がゆがまないように努めなければならなかった。下手をすると情けないわが身を思って泣き出してしまいそうだ。そうして唇をかみしめながら廊下を歩いていた璋子は、これから曲がろうとしていた角の向こうから話し声がするのを聞きつけて思わず足を止める。ただ話しているのではなく明らかに喧嘩の火種を含んでいたからだ。
しかも声の主は、応接室へ行ったはずの茜と和泉だ。隠れながらもそっと璋子は二人の様子を伺う。
「これはお返ししますよ。いったいどういうおつもりですか。彼女に手を出すのはやめてください」
茜が和泉に叩きつけたのは彼から璋子へと送られたはずの『新青年』である。なぜそれが茜の手にあるのか、自分が何を糾弾されているのか分からないという様子の和泉はけれど雑誌を受け取らなかったので、それは力なく地面へと落下していった。
「何の話です? 彼女というのは、波照間璋子さんのことですか?」
自分の名前が出たので思わず心臓を高鳴らせる璋子だったが、目は釘付けのまま離れなかった。男が二人、言い争いをしている。それだけの事象が彼女を、先刻の悲しみから救い出していた。状況は分からなくともこれは絶対に目をそらしてはいられない場面である。爛々とした輝きを宿した目に見つめられているとは露知らず、男たちは話を続ける。
「あんたが食事中にじろじろ見ているから、彼女は落ち着いて食事をできなかったじゃないですか。なんなんですか、失礼にもほどがあるでしょう」
(軍属の人間を『あんた』呼ばわり……! 何かがぎゅんぎゅんこみ上げてくるわ。やるわね、肆朗……!)
悲鳴が迸りそうになったので慌てて璋子は自分の口を押さえた。常に見せたことのない激しい怒りに顔を歪めた茜の横顔も、燃え上がる情熱にさらに油を注ぐ。
「そんなに見ていたつもりはないのですが」
「あんたになくても外からはそう見えるんですよ。自重してください、あんたは……アリスお嬢様のお見合い相手なんでしょう?」
(え……)
不意に足元が暗くなった気がした。足元のみならず璋子の周囲から一切の光が消えたような感覚にすら陥った。腕の中に抱えた『新青年』がずっしりと重くなったようにも思えた。だが実際は何一つ変わらず、璋子はただ廊下の隅で立ち尽くしているだけだった。いつの間にか男たちの声は聞こえなくなり、玄関で待っているはずの璋子を探しに来た女中に鞄を渡されるまで、そこから一歩も動くことができなかった。
胸の内であれほど光を帯びていた情熱は、凍り付いて痛みを発する何かへと変じていた。