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 それが不純なる感情であることは分かっていたが、秘めたままにしておくことは璋子にはどうしてもできなかった。そのため夜ごとノートに『小説』という形で発散していたのだが、あろうことかそのノートを女学校で落としてしまい、それをアリスに拾われたことが二人の交友の始まりだった。

 落としたことに気づいた時にはそのまま死のうとまで思いつめたものだったが、どうやら璋子が落としてすぐにアリスの手によって拾われたため、彼女に恥部は余人の知るところではなく、また自死をも食い止められた。命の恩人ですらあった。さらに趣味が同じということもあってはもはや、奴隷と成り果てることすら考えていたのだが当のアリスがそれを許さなかった。また不純なる情熱にこそ隷属している璋子が、同じものをぶつけられて黙って引き下がることなどできたはずもない。

「すっかり遅くなってしまったわ。もうお暇するわね」

「そんな……この際だから夕食も食べて行って頂戴よ。このまま別れるなんてひどすぎるわ。興が乗って来たのに」

 興ならば今と言わずにいつだって乗っている二人であるが、声に出してはしゃぐ時と一人で黙々と妄想を練っている時ではやはり勝手が違う。不満そうなアリスに、璋子も残念そうに告げる。

「また明日女学校で会えるわよ。……それに続きを思いついてしまったし」

「……それなら仕方ないわ」

 玄関で別れを惜しんで引っ付いてひそひそしている二人を、アリスの兄が不審そうに見ていたがあえて声をかけてくることはなかった。貿易商の父の後を継ぐために、彼も多忙なる身なのだ。

「それにアリスさんこそ、今日も何か描きたいものが思いついたからこそ掃除当番を放棄したのでしょう? 逆に私がお邪魔しちゃって申し訳ないわ」

「璋子さんたら……! あなたってどうしてそう火をつけるのがうまいの?」

 頬を膨らませるアリスだったが互いに心のうちに灯している思いは通じ合っていた。それぞれが楽しみにしている旨を伝え終えると、アリスは去りかけていた兄を呼び止めた。

「お兄様、璋子さんを送って行ってくださらない?」

「……なんで俺が」

「なんでも何もありません、か弱い女子をこんな時間に一人で返すおつもりですの?」

「それなら僕が行きましょう」

 璋子を嫌っているわけではないのだろうが、捺希の彼女への対応は温かいとは言い難かった。妹と異様に通じ合う同級生を気味悪がっているのかもしれない。しかし両手に抱えた書類の量からも、彼が送迎を務めるための時間的な余裕を持てないでいると悟るには璋子には十分だった。

 しかしアリスには、冷淡な態度に映ったのだろう。眉をしかめ、それまでの陽気さなど拭い去ったような冷たさで兄を睨む。そんな顔をするとまるで知り合う前の近寄りがたいアリスに戻ってしまったようにも見えて、今を知っている璋子でも怯んでしまう。

 だが険悪になりかけた空気は即座に代理を申し出た茜によって深刻化を防ぐに至った。アリスは一瞬だけ顔色を曇らせたが、他に適任がいないことも理解したようだ。送るのは茜に任せて「ごきげんよう」と優雅な挨拶をして見送る。

 アリスは茜が送り狼になると案じているのかもしれないが、璋子にはその手の心配は一切なかった。それよりむしろ、観察する機会を得たことに胸を躍らせていた。女子としてはあまり手放しに喜ぶべき感情の発露ではないだろうが。

「では、行きましょうか。……おや、周世氏が帰ってきたようだ。一緒にいるのはお客さんかな?」

 邸宅を出ようとしている二人とすれ違った車から降りたったのは、中年の男性と若い軍服姿の男だった。距離があったためそれ以上の情報を得るのは困難だった。確かアリスの兄の捺希は一時軍属していたと言うから、その関係の知り合いなのかもしれない。

 璋子の内側でむくりと何かが蠢いた。今はまだ情報は足りないため正体不明の蠢きでしかないが、熱に変わりそうな予感をひしひしと感じていた。そのせいで隣からなんやかやと話しかけてくる茜の声には、家に帰りつくまで上の空の生返事であった。


「おはよう、アリスさん」

「……おはよう、璋子さん」

 翌朝璋子は、早速アリスに昨夜の客のことを聞きたかったのだが、恐れ気もなく声をかける彼女を同級生たちが密かに注目していることもあって、教室で大っぴらに尋ねるわけにもいかず挨拶したきり続ける言葉を失ってしまった。さらには当のアリスが悄然とした様子だったため、よくよく聞くことが躊躇われたのだ。

「どうかしたの? 元気ないけど……」

「そんなことありませんわ。ちょっと寝不足なだけですの」

「それは……作品作りで?」

「もちろん」

 達成感あふれるアリスの横顔を見ていると、悄然としていたのが嘘のようだった。やはり寝不足で少しばかり疲れているだけなのだろうと璋子は納得する。彼女とて同じ状態だからだ。

「実は今日、作品を持ってきているの」

「え!」

 アリスに囁かれて、璋子は驚きに目を見張った。密かなる趣味を持ち歩くことがどれほど危険か、アリスが分かっていないはずもなく、それほどまでに突き動かされた情熱が彼女の中にあったということに他ならない。あの失敗以来、璋子は決して鞄から不用意に『例のもの』を取り出すことはないが、常に傍に置いている。家に置いていて万が一親に見られようものなら申し開きようがないからだ。

 しかしアリスは違った。彼女は絶対に自分の部屋からそれらを持ち出すことはない。それは画材が大きくて持ち歩けばそれだけで目立ってしまうということもあるが、例えノートなどに描いたとしてもそれを外に連れてくることなどなかったのだ。

 そのアリスが危険を冒してまで見せたいものとはいかなる作品なのか。璋子はそわそわと落ち着かない気分で席に戻ったが一日授業に身を入れることができなかった。

 そうして授業が終わるなり、二人は教室を飛び出していった。胡乱な同級生たちの視線を振り切って女学校を後にする。

「璋子さんったら、ちょっと落ち着きがなさすぎじゃなくて?」

「アリスさんこそ」

「今日は璋子さんのお宅にお邪魔してもよろしいかしら。一刻も早くお見せしたいの」

「ええ、いいわよ」

 アリスが璋子の家に訪れるのも、見せたくてうずうずしているところも珍しかった。本当は周世の邸宅とは雲泥の差のある小さな商店の裏の自宅に招くのは非常に心苦しいものがあるのだが、いざ話に熱中してしまえば一切眼中になくなるためこうして気後れするのは最初だけとも言えた。

「どうぞ、散らかってるけど」

「おかえりなさいませ、璋子お嬢さん」

「お邪魔いたします」

 両親は共に店先に出ているので、出迎えてくれるのは女中のハナだ。中年を過ぎた太り肉だが動きは俊敏で、給金以上の働きが望めると両親が揃って太鼓判を押す女性である。丁寧に頭を下げるアリスを見て、恐縮したように顔を赤くした。

「まあ嫌ですよ、こんな女中に頭をお下げになっちゃ。璋子お嬢さん、すぐにお茶とお菓子をお持ちしますね」

「お菓子はいいわ。お茶だけ頂戴。アリスさんは?」

「私も結構ですわ」

「そんな、お若い方たちが遠慮なすっちゃいけませんよ」

 ハナは嘆くが、洋菓子店の娘でありながら璋子はあまり甘いものが好きではなかった。アリスは璋子ほどではないはずだが、件の話に興じていれば甘いものなど必要ないことは明らかだ。ただ喋り通すため喉は乾くが。

 璋子の部屋は四畳半の畳敷きである。机と本棚がほぼ占領していて、布団を敷いたら足の踏み場は消えると言っても過言ではない。アリスのそれとは当然比べるべくもなく狭い。その上、一つしかない窓は南側の座卓の前に大きくないものが設えられているだけで、時間的に西日は入りづらく、薄暗かった。

 だがアリスは電気をつけようとは言い出さない。茶を置いたハナが下がるのを待って、鞄からひったくるようにしてノートを取り出した。璋子が使っているものと同じ銘柄だが、まだおろしたてで新しかった。

「昨夜、うちにお客様がいらしたの。その方、お兄様のお友達で軍属の方なのだけど……」

 興奮しているのか震えながらノートを開くアリスの手元を見下ろすと、軍装の美青年と彼女の兄と思わしき男性がほぼくっつかんばかりの距離で見つめ合っている絵が描かれているのが見えた。璋子は自分の脳から、それがなくては日常生活を送るに著しい支障が出ると思わしき重要なねじが吹っ飛ぶのを感じだ。

「こ、これは……捺希さん、まさか……女役……?」

「ええ、昨日うっかり年下×年上もいいなんて口走ってしまってから、私もはやお兄様が男役に走ることなんて不可能ではないかと思えてきたの」

「でも……待って……! それでは茜さんの立場は?」

「ふふふ、抜かりはないわ」

 妖しく笑いながらアリスは、ページをめくって見せた。そこには茜と先刻の軍装の男が捺希を取り合っているようにしか見えない絵が描かれていて、璋子は寸でのところで悲鳴が上がりそうになった自らの口元を押さえる。

「三角関係なの? 争奪戦なのね?」

「そうよ……二人はお兄様、いいえ、捺希の操を狙って争い合うの」

「な、なんてこと……! もういや、私どうにかなってしまいそうだわ、アリスさん」

「まあそう言わずに、璋子さんのお書きになった作品を見せてくださいませよ……」

 アリスの妄想熱にあてられて理性を放り出しかかっていた璋子だったが、彼女の言葉ではっと我に返る。請われるままにノートを取り出すが、渡すのにためらいが生じている彼女を、アリスが怪訝そうに覗き込む。

「どうかなさったの?」

「だって……私はこの軍人さんのことは知らなかったもの……だからここには、肆郎×捺希しか書いていないの……」

「それの何に問題があって?」

 現実の人物を相手に妄想を繰り広げ盛り上がることにこそ問題行動なのだろうが、アリスが言うのは勿論そんなことではなかった。

「私は璋子さんの作品が読みたいのですわ。そして燃えたぎる情熱を共有したいの。そこに罪なんかないわ」

「アリスさん……」

「さあ、あなたの熱を私に分けて頂戴……」

 傍から聞いていたら誤解は必須であろう発言だったが、仕事熱心なハナは夕食の支度に追われていて聞き耳を立てるような下世話な真似などそもそもしない。

 そうしてアリスが作品を読み耽っている間、璋子はアリスの作品を熱心に眺めていた。そして、ふと軍装の男に対して妙な感じを抱いた。何やら見覚えがあるような気がしてきたのだ。だがアリスの絵は少しイラスト風にアレンジが加えてあるとはいえ現実の人物に沿うように描かれているし、事情を知らないまでも捺希や茜を知っている人が見たら確実にあの二人だと分かるほどには写実的なのだ。

 つまり昨夜の客とやらはこの絵から遠く離れていない姿をしていると言うことであり、それで覚えがあるというのはおかしな話ということになる。璋子に軍人の知り合いはいないし、駐屯地は遠くないところにあるとはいえわざわざ軍人を見に行ったこともない。

 だが見ていると、妙に胸がざわざわするのだ。それはアリスと共有する情熱を滾らせるのとは異なる部分から発生しているように思われた。

「素晴らしい、素晴らしいわ、璋子さん。これは両片思いというやつですわね? じれったいですわ……こんなに思い合っている二人の間に、あの方が割って入ってくるのね……」

「ふふ、アリスさんたら、よほどその方のことが気に入ったのね」

 読後の余韻に震えていたアリスだったが、璋子のその一言で冷静に戻ってしまったように見えた。何か思い出したくない現実が蘇ってしまったような表情に璋子もはっとしたが、次の瞬間には見間違えでもしたようにいつものアリスがいるばかりだった。

「璋子さんも実際に見てみるべきですわ。あの方とお兄様ったらところ構わず乳繰り合って……もう、周囲をご覧になさりませと言いたいくらいですわ」

「そ、そんなに……? まさか、現実で殿方同士がそんなこと」

「来週ですわ」

 戸惑う璋子の手を、アリスが情熱的に握ってきた。きらきらと瞳を輝かせて、熱っぽく告げる。

「来週、またあの方を夕食に招待する予定ですの。ですから璋子さんもいらしてくださいな」

「え、でも私なんかが……」

「構いませんわ。ぜひともいらしてくださいませ。約束でしてよ?」

 痛いほどに手を握られて、断ることなど璋子にはできなかった。それに彼女とて近くで見られるなら見てみたい。アリスと情熱を共有したいのは璋子にしても同じなのだ。


 事前に家には言ってあったのだろう、周世家の女中が迎えに来たため、波照間家を辞するアリスを近場まで送るために璋子も外へと出た。話に夢中になる間にすっかり日が落ちて、路地には電燈が灯っていた。未婚の若く身綺麗な女中を従えては、屋内にいた時のように開けっ広げな話をするわけにはいかない。自然と会話は、来年から制服としてセーラー服が支給になるだとかの当たり障りのないものに限定される。

「セーラー服かぁ……着てみたかったわ」

「そうかしら、私は今の方がいい気がしますわ。だって皆一様に同じ格好をするのでしょう?」

 意外にも流行ものに敏感はアリスの方が乗り気ではなかった。流行色の菜の花色の半襟を素敵に着こなす彼女と、同じ流行色でも地味な藍鼠を選んでなんとか合わせているだけに過ぎない璋子では、服装に対する向上心がそもそも違うので妥当かもしれないが。

「お、てるちゃん! お待ちかねの『新青年』が入ったよ!」

 友人との差をひっそりと感じて一緒に歩くのが苦痛になってきた璋子に声をかけてきたのは、行きつけの本屋の店主だった。狭い入口から顔を出して、隣にいるアリスに驚いたように目を見張る。

「おっと、こりゃあどこのお嬢様だい。こんなお友達いたんだねえ、てるちゃん」

「周世家のお嬢様よ、おじさん」

「本当かい、そりゃあ大変だ」

「『新青年』はまた今度にするわ。漱石全集のおかげで今月のお小遣いがもう残っていないの」

「そうかい。なくならないうちにおいで」

 店主の見送りを背に歩き出しながら、璋子は確かに彼の言うとおりに大変であることを実感していた。実際、こんな下町の通りを供ありとはいえアリスが歩くのは、不似合いというより他にない。汚く、狭く、ごみごみして下手をすると迷った上でよからぬ輩に手を引かれそうで、真綿でくるまれて育った高貴なるお嬢様にはいかにも相応しくない。

 アリスに請われたからとはいえ連れてくるべきではなかったという思いが、璋子を苛んだ。自責と恥ずかしさに足をせかされるようになっている彼女に、アリスが声をかける。

「漱石というとやはり……『私』と『先生』かしら」

 黒い霧のように璋子に付きまとっていた思いが、アリスの発言によって吹き飛んだ。目を上げると彼女もこちらを見ていた。口元には同志の笑み。

「ええ、もちろん。そのせいで私は今こうなっていると言っても過言ではないもの」

「罪深い人ね、夏目先生は……」

 分かり合ってくすくすと笑う二人を、理解が追いついていないであろう女中が後ろから怪訝な視線をくれていることは分かっていたが、彼女を仲間に引き入れることは絶対にありえないこともまた決定事項であった。

「あれ、てるちゃん?」

 そんな彼女らの背後から声をかけてきたのは、茜だった。どうやら先刻の本屋の奥にいたらしい。脇に抱えている分厚い包みは学術書だろうか。

「やっぱり、声を聞いたからそうかなと思ったんだ。お、アリスお嬢様もご一緒でしたか」

「ええ、ちょうど帰るところですわ」

 少しだけ上にある茜の目を、微かに顎を上げて見つめるアリスの横顔には、もはや璋子と密かに笑い合っていたよこしまな気配は微塵もない。どこから見ても完璧な深窓の令嬢だった。いつか自分もここまで切り替えのいい人間になりたいものだと、璋子は尊敬の念でもって彼女を見上げる。

 そんな彼女に、茜はアリスから視線を映した。

「聞こえちゃったんだけど、てるちゃん、『新青年』欲しいのかい?」

「ええ。なんですか、馬鹿にするんですか?」

「そんなこと言ってないよ、聞いただけさ。難しいのを読んでてすごいなってね」

 璋子は不満げに黙り込んだ。どうして誰もかれも自分を子供扱いするのだろう、特に茜などは一つしか違わないくせに。単に本を読むのが好きなだけでたまたま馬の合う雑誌が『新青年』だっただけなのに。確かに件の雑誌は都会のインテリ青年の間で流行していると聞いたが、だからといって女学生が読んではいけないという規則はないはずだ。

「じゃあ、璋子さん、明日学校で。行きますよ、茜さん」

「ええ。ごきげんよう」

「えっ、あれ? 僕何かおかしなこと言ったかい、てるちゃん?」

 頬を膨らませこそしなかったが璋子の機嫌が損なわれたことを察したアリスによって、茜は回収されていった。見送りたかったがあの書生がこちらを見ているような気がして、璋子はそのまま振り返らずに家路についた。


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