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「『少女倶楽部』は売り切れだよ、てるちゃん」
書店の棚を一心不乱に睨み付けていた璋子は、申し訳なさそうに店主に告げられて、がっくりと肩を落とした。最初からそうではないかという気はしていたのだ。何度見ても、璋子が探している雑誌は棚には並んでいない。それでも諦めきれずに別の本の裏などを執拗に改めていた璋子だったが、店主の一声で狙っていたものに決別し新たなる獲物を定める。
「先月は終わりごろまで残っていたのに……。なら、『新青年』は?」
「それも一足違いで売り切れだ。残念だったね」
「……それじゃあ、おじさん。あの本を取ってくださいな」
璋子が指さす先を見て、彼女と同じくらいの小柄な背丈の店主は苦笑を漏らした。
「てるちゃん、漱石全集持ってなかったかい?」
「持ってないから買うんです。だいたい漱石全集があんな上にあるなんて、どうかしてますよ。売れ筋でしょうに」
「いやあ、あんまり取ってくれって言うお客さんもいないもんでね。待ってて、梯子持ってくるから」
しかしそれには及ばなかった。横から璋子や店主の梯子より先に手を出した者がいたからだ。欲しかった全集を渡されても、璋子はぽかんとその男を見上げているばかりだった。何せ昨今珍しい長身だったからだ。彼女とは三十センチほども目線が違う。外国人かと思ったが聡明そうな顔つきの彼はどう見ても黒髪黒目の日本人で、そんな彼女を見下ろして穏やかに微笑んだ。
「『新青年』を読まれるんですね。女性なのに珍しい」
「差別的な発言は嫌いです」
「これは失礼」
思わず反発してしまった璋子は後悔に顔をしかめる。清潔そうなシャツと特徴のないズボンといういでたちなのに、その男には目を見張るほどに洗練された雰囲気が宿っていて、彼女の失礼な態度にも少しも機嫌を損ねた様子がない。おそらく上流階級出身なのだろうが、そんな彼が出入りするのにこの下町の狭い書店はいかにも似合っていなかった。
すると店主が、慌てて彼に頭を下げた。
「これは和泉様、ようこそいらっしゃいました。しかしご予約の本は、どうやら出版社の方で発行が延びてしまったらしく……」
「それは残念」
「ご入荷の際にはそちらへ参りますので」
「いえ、また来ます。こうして出歩くのも息抜きになるので」
去り際に男は璋子に視線を寄越した。先刻の失礼な発言もあって見られることに抵抗を覚えた彼女は思わず漱石で顔を隠してしまったが、それもまた失礼な態度だと気付いた時には男はいなくなっていた。
その漱石を取ってくれたことへのお礼を言い損ねていたことに気づいたが、未払いの商品を持って店を出るわけにもいかず店主に渡す。
「おじさん、お会計」
「はいよ。それにしてもてるちゃん、『少女倶楽部』や『新青年』がなかったからってやけになってないかい?」
「これも欲しいんです。おじさん、漱石が亡くなったからって、ちょっと扱いがひどすぎやしません? 世間では『痴人の愛』が大流行しているようですけど、私、あの方の文章好きではないわ。浮ついている感じがして」
「おお怖い。普段はおとなしいのに本のことになると俄然強気だねえ。でもてるちゃんはまだ子供だから、谷崎は読まない方がいいかもね。はい毎度」
「十八よ。子供ではないわ」
咄嗟に反発するも、店主はのんびりとした口調で「今年で女学校も卒業だねえ」と言うばかりだったため、璋子は腹立たしげにため息をついて店を出た。件の男の姿はもはやどこにも見当たらない。仕方なく家路につくと、見知った顔とばったり会う。
「やあ、おかえりなさい。てるちゃん」
「あら、茜さん。またいらしてたんですか」
波照間商店の前でにこやかに手を上げて声をかけてきたのは、絣の内側に縦襟のシャツを着こんだ袴姿の青年、茜肆朗である。袂に潜ませた袋から取り出したチョコレートを行儀悪く頬張りながら、にこにこと璋子の帰宅を歓迎する。書生という割には軽薄そうな雰囲気が漂っているが、甘いものが好きでしょっちゅう店を訪れているため、璋子は彼に一切警戒心を抱いたことがない。
「毎度ごひいきにしていただいて、ありがとうございます」
「おっと、これはこれは。璋子お嬢様とお呼びせねばなりませんね」
「そんな必要ありません。うちは小さな小売店ですから。……今日は捺希さんはご一緒じゃありませんの?」
捺希の名を出すと茜は片眉を上げたが、それがどういう感情を秘めた表情なのか璋子には分からない。いつも笑っていてそれらを表に出すことのない男だからなおさらだ。もしや知らずに機嫌を損ねるようなことを言ってしまったかと深い意味もなく捺希のことを持ち出した自分を責めそうになっている璋子に、茜は普段と何一つ変わらぬ態度で笑いかける。
「彼は僕ほど甘いものが好きではないからね。そういえば彼から頼まれごとをしていたんだった。すみません、お嬢さん。今日はこの辺で」
「ええ、またいらしてくださいね」
去っていく茜を見送って、璋子は甘い匂いの立ち込める店内、すなわち自宅へと入っていく。チョコレートやクッキー、キャラメルやチューインガムなどの西洋生まれの菓子を扱う小売店の中は、当然のように女性客であふれていた。気後れせずにこの中に突入していったであろう茜を思って、璋子は少しだけ笑った。
時は大正十四年。季節は初夏へと移ろうとしている。衆議院議員選挙が法改正され男子の普通選挙が実現したため大人は騒がしかったが、璋子にはどうでもよかった。間もなく施行される治安維持法にも興味はない。ただ胸の内よりあふれ出る情熱をひたすら文字に起こして書きつけることが目下の課題だった。
そのせいで寝不足気味だったが、璋子の魂は燃えていた。この熱を放出しない限り死んでも死にきれないと思っていた。つい就寝時間が遅くなることは両親の知るところであったが、勉強をしているだけと思っているようで「女子がそんなに根を詰める物ではない」と静かに諭されるだけだった。
もちろん何をしているかを告げるつもりはない。
彼女とてそのことは生涯、誰にも告げずに心に秘めておくつもりだったのだ。
「波照間さん、ちょっといいかしら」
璋子は地味で目立たない。率先してそう振る舞っているわけではなく、この豊岡高等女学校に通うのは良家の子女ばかりで一介の商家の娘に過ぎない彼女が籍を置くには、両親に相当な負担をかけていることが分かっているためだ。それでも近所の子らと比べて出来が良かった娘に女学校卒という社会的地位を与えたい彼らにはどんな無理も無理ではなくなるらしい。だから璋子はなるべく負担をかけないように地味な着物と目立たぬ振る舞いで通している。さらには周囲との差から自然と俯くことが多くなるため、暗いとも思われているようだ。
そんな彼女に同級生たちが声をかけてくることがあるとすれば、周世アリスのことに他ならない。
「周世さんのことなのだけど、あなたから言ってくれないかしら」
「あの方、授業が終わるなりさっさと帰ってしまわれるでしょう?」
「そうやって掃除当番を放棄されるのは困るのですわ。皆、持ち回りで担当しているというのに」
「……そういうことは本人に直接言った方がよろしいのでは?」
璋子が決して大きくない声で告げると、彼女とは比べ物にならないほど派手な格好をした同級生たちはいっせいに目を剥いた。示し合わせてでもいたようだ。そして同時に喋り出す。
「言えないからこうして頼んでるんじゃありませんか」
「そうですよ、あの方、なんだかわたくし怖くて」
「わたくしもですわ。つんけんと取り澄ましてらっしゃるんですもの。きっと下々の者と話すのもお付の者の許可がいるのですわ」
馬鹿げた話だった。怖いなどと彼女らは言うが、単純にアリスの持つ権力を恐れているに過ぎない。華族を名乗る者さえいるにも関わらず、ここにいる誰もが彼女の実家が持つ財力にはかなわないのだ。おそらく殿上人ほどもの差を抱いているため容易に話しかけるのもままならないのだろう。以前は璋子もそうだったため、分からないではない。
しかしある時を境に接近した彼女を伝令係りにしようというあけすけな魂胆は、承認できない。それまでアリスとは別の理由から相手にしなかったくせに、今になって手のひらを返すなんてなんと汚らしいことか。
とはいえ結局、彼女らの頼みを断ることはできずに引き受ける羽目になってしまうのだ。それだけの力は、璋子にはない。
悔しさを噛みしめながら学校を出た璋子は、校門のところで彼女を待っている人物に気づいた。話題の渦中にあった、周世アリスその人である。
「一緒に帰りましょう、璋子さん」
すらりとした立ち姿のアリスは、璋子より頭一つ分背が高い。本人は女学生の平均的な身長を上回っているそれをよく思っていないらしいが、璋子としては羨ましい限りだ。その上、匂うような気品と知性を兼ね備えていて、モダンな耳隠しとも相まって冷たく整った美貌は確かに近寄りがたく感じてしまうだろう。
「私のことで何か言われたでしょう」
「なぜ、そう思うの?」
「顔に書いてありますわ」
並んで歩けば当然のように、アリスに人々の視線が集中する。着物に袴を合わせブーツで闊歩しているところは同じだというのに、気を抜くと璋子までもが通行人どころか背景の一部と化してしまいそうな気になる。もちろん衣類のみならず出自ですら、その品質には歴然たる差があり、もっさりした三つ編みをしているだけにすぎない自分が引き立て役にすらなっていないことはわかっているのだが、こうして普通の会話をしていると何か間違えてアリスが自分を選んでいるのではないかという錯覚に陥りそうになる。
「掃除当番を、ちゃんとしてほしいそうよ。いつもいの一番に帰ってしまうから」
「ふん、ならそうだと私に直接言えばよろしいのに、なんて卑怯な方たちかしら。そんな方たちの言い分なんてこれっぽっちも聞く必要はありませんわね」
微笑むアリスを見て、璋子も自然に肩から力を抜いて表情を緩める。彼女にはアリスがなぜそれほどまで急いで学校を飛び出しているか、理由が分かっているから猶更だった。
「今日も思いついてしまったの?」
「ええ。だから一刻も早く帰りたくて、迎えなんて待ってられませんでしたわ」
本来アリスには送迎の車が学校までついてくるのだが、どうやらそれより先に璋子と会ってしまったようだった。
「私もね、実は昨夜書き上げたものを持ってきているの」
「……璋子さん、今日うちに寄って行ってくださらない?」
「いいの?」
「もちろん」
目を合わせて笑いあう二人はもはや、通行人がどういう目で彼女らを見ていようとも、一切視界に入っていなかった。
捺希の名が出た途端、肆朗の胸の内は大袈裟なほどにさざめいた。彼に昨夜、故意に付けられた傷が疼くようだった。必死で表情を殺し、悟られないように努めるも、脳裏から捺希の冷たい微笑が去ることはない。まるでもっと、彼から触れられることを望んでいるような―――
「きゃあぁぁぁぁ……!」
恐怖でもなければ助けを求める類とも違う、甲高くも華々しい悲鳴が迸ったのは、アリスの喉からであった。ここらでは名の知れた豪邸の一室には、毛足の長いふかふかした絨毯といかにも値の張りそうな家具類、そして天蓋付の寝台がある。鏡代わりにもなりそうなほどピカピカに磨かれたテーブルでは女中が持ってきたばかりの紅茶がまだほっこり湯気を上げていて、けれどアリスは一口も口をつけずに璋子ばかりが恥ずかしさを堪えるようにカップを傾けていた。一人が使うには広く感じる部屋の片隅には、イーゼルと画材が整頓されて積んである。そこは飾り気が極端に少なく、少女というより勤勉な少年の部屋のようであり、そして他ならぬアリスの私室であった。
唯一女子らしいレースのカーテンがかけられた窓の向こうにそびえる桜の木が、新緑を滲ませてはしゃぐ少女たちを見守る。
「今回もすばらしいわ、璋子さん! というよりは、罪深いわ……これを私に読ませて、そして璋子さんは一人で帰ってしまうのでしょう……残された私がどれだけ苦悩にむせび泣くか……! だってこの後、夕食の席で両方と顔を合わせるんですのよ!」
ノートを閉じて、けれどそれを持ち主の璋子に返すのは惜しいとでもいうように胸に抱きしめながらアリスは、身悶えた。何度も滾った情熱をそのままに書き殴っては見せているせいか、どれほど丁重に扱っても胸元のノートはよれよれとしたやつれを露にしている。
「私こそごめんなさい。毎回お兄様を題材にしてしまって」
「そんな、謝ることはありませんわ。題材にしているのは璋子さんだけではないですもの」
そう言ってアリスは席を立つと、伏せてあった画板を持ってきた。そこにはアリスによく似た美青年と軽薄そうな顔を苦悶にゆがめた書生が見つめ合っている絵が鉛筆で描かれていた。
「! アリスさん、それ……!」
「ふふふ、やはり考えることは同じですわね」
アリスが掲げる絵を前に、自然と璋子の膝は床へと滑り落ちていた。まるでマリア像を初めて見た敬虔な信徒のように、祈りをささげる姿勢になる。大きく見開いた目は夕日の反射を受けてきらきらと輝き、必死で情景を焼き付けようとしていた。璋子は知らないが、それはついさっきアリスがしていたものと寸分変わらぬ表情であった。
「なんて素敵……。駄目、駄目よ、また思いついてしまいそうだわ、アリスさん」
「構わなくてよ、璋子さん。だって私たちにとっては王道中の王道ですものね、捺希×肆朗は」
七つも上の兄を呼び捨てにして、さらに彼女の邸宅に身を寄せる一つ上の書生をも呼び捨てにしたアリスは、勝ち誇ったように微笑み手を差し伸べて、璋子を立たせて画材の積まれた片隅へと導く。
「でも下剋上も素敵だとは思いません?」
言いながらアリスが見せたのは先ほどとは男女の役割が逆転している絵だった。それもまた鉛筆のみであったが璋子が震えるには十分な威力を発揮した。
「きゃああああ……! アリスさんたらなんて罪深い……! 年下×年上もいいかもなんて思ってしまったじゃないの……!」
「ふふ、罪なんてないのよ。私たちはただ妄想を分かち合っているだけなのだから……」
つんけんと取り澄ました様子など、今そこにいるアリスから感じられるはずもなかった。また璋子とて、地味で目立たない少女ではなかった。目をキラキラさせて頬を染め額を寄せ合ってひそひそと語らう彼女らを後世では腐女子と呼んだが、まだこの時代には生まれてもいない言葉であった。ただしその産声は、表面化こそしないまでも確実に上がっていたが。