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新感覚バイト

作者: 中谷鳴

「ねえ、良いバイトがあるんだようっ! やりたくないっ?」

 お昼のランチセットを前に、チトセが意気揚揚と喋りかけてくる。

 この子の作っているのか、そうでないのか分からない明るさは異常だ。ついていけない気もするし、一家に一台欲しい気もする。

 私は小皿に載ったナポリタンを摘みながら、適当に話を合わせた。

「またバイト? 会社にばれたら怒られるよー。ま、私達の給料で一人暮らしなんてやっていけないもんねえ」

「そう、そうだよ。やーっと親から離れられたと思っても、お金の問題がずわーんと圧し掛かってくるんだからあっ!」

 何がずわーん、だよ。ポテトサラダを摘みながら思う。

「で、勿論バイト続けてたんだけど、彼氏のデートと被っちゃって。そりゃーバイトかデートかってなったら、やっぱり彼氏っしょー? 付き合い始めてまだ三ヶ月だしぃ、今が大事な時期なんだよー。ね、お願いミズハっ! 親友の顔を立てると思ってさあ」

「バイト、ねえ……」

 私達の会社では、本来バイトなんてしちゃいけない。でも、昔のニュースにもあったっけ。昼は優等生OLの顔、夜は銀座街の娼婦……となって殺された人とか。

 皆刺激が欲しいんだよね、とにかく。普段の朝起きて学校行って授業受けて帰って友達と電話してTV見て寝る、と朝起きて出社して雑務こなして昼食べて電車揺られて帰って一人の部屋でカップラーメンを啜って寝る、なんの代わり映えもない生活。

 バイトでもしてお金たくさん貯めて海外に旅行するとか、よっぽど素敵な彼氏でも出来ない限り気が治まらない。

 ようやく実家を出て食料費を入れなくて済むとなっても、一人暮らしというのは本当に効率が悪い。最初の頃こそ料理を手作りしていたが、食べるのが自分だけだと思うと億劫な上に食料費が馬鹿にならなくなってきた。仕方ないから今はコンビニ弁当かカップ麺かレトルトを日替わりで食べている。食が人間を作るっていうけど、最近の荒んできた自分の精神を考えると本当だなあーっと思う。

「で、それってどんなバイトなの?」

 あと五分で社に戻らなければ、また嫌味で脂ぎった顔の課長に怒られる。私は自然早口になる。

「どんな、って言ってもなあー。一口に言えないけど、ちょっと援助交際みたいな感じの」

「え? 援助? でもそれだとさあ……私、年齢詐称するの?」

「ううん、年齢とかはどうでもいいみたい。そっちの要求通りにすればなんでも」

「なんでもって……それって売春じゃない。私嫌だよ? そんなの」

「違うって――っ! 売春じゃないの。エッチナシで、要求通りにしてれば一日五万はいくよ。まあ、その要求の度に前払いさせとかないと駄目だけどね」

「要求通りって……エッチすれすれのことじゃないの?」

「うーん、それは人によるな……もし嫌だったら、そこで断ればいいんじゃんっ?」

 断れば……そんな行為寸前まで行っておいて断ったら、それこそ殺されでもしないんだろうか。一抹の不安を覚える。

「なによぅ、いっつも言ってたじゃんかよぅーミズハ。カップラーメンとレトルトカレーがお友達、の毎日なんてって。そこに変化を齎してやろうと、しかもお金の舞い込む変化をよっ? それなのに何が不満なのよぅ」

「不満……不満は無いけれど……」

 不満はない。

 ただ漠然と、不安なだけで。


 社に帰ると、やはり課長が脂汗を流しながら怒っていた。

 本当に、ああいう汚いモノを見るとなんでこんなところに足しげくっていうのかしら、通っているのか分からなくなる。仕事のため、お金のため、将来のため……結局は不確かなものに揺り動かされているに過ぎない。

 私だけは違うっていう何物もない。どうすればいい?

 結論。チトセのバイトを引き受ける。

 これも何か違うかな、とは思う。しかし、しかしだ。これが本当に割りの良いバイトだったら?

 何かの出会い、というのは期待出来ないだろうが、海外クルージング出来るくらいの稼ぎは期待出来るかも知れないではないか。

 いや、甘い話に罠があるのは周知の事実。

 でも、皆が見逃している甘い話、だったら?

 うーん、うーん、うーん……。

 終業五時まで、ずっと受けるか受けざるべきかを考えあぐねていた。


 宮元軍曹 電話は以下まで 090-××××-××××


 なんだ軍曹って。

 チトセに貰ったのは茶煤けた名刺一枚と、会う予定になっている喫茶店の地図だった。

 会社からそう遠くは無い。

「もし、本当にヤバイことがあったらこれ鳴らしな」

 と言って防犯ベルをくれたが、こんなものをホテルの部屋で鳴らしても多分誰も来ない……。

「何、やっぱりヤバイわけ?」

「もしものためもしものため」

 チトセはピンクのゴテゴテした下着――多分通販なんかじゃ買えないのを上下着て、その上に黒のスリップドレスを被った。

「凄い格好だね……」

 黒いリボンつきのサンダルを見ると、可愛いを通り越して近寄りたくない。

「だって付き合い出して三ヶ月記念だし、今一番重要な時期だし、手抜きたくないし、無駄毛の処理もばっちりだし」

「あそう」

「じゃ、バイト行ってねー。もし行けないなら、もう一つあげた名刺に電話してね、他の子補充してくれると思うから」

「あそう」

「じゃねーばいばい~」

「あそう」

 一人になったロッカールームで一つ溜息を吐く。 

 約束は7時。お腹も空いた。

 外食するようなお金は持ち合わせてない。その男に奢ってもらうほか無い。

「うー……」

 いかざる終えないようなので、行く。

「バイトバイトバイトバイト…………」

 呟いていると、そんなに大したことをしにいく訳じゃないって気分がしてきた。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫……。

 お金、お金、お金……。 


 カラーン。

「あの、ここバーですか、スナックですか?」

「え、バー……かしらねえ? その二つってどう違うかしら?」

 私はそのまま扉をしめて後ろを向いて帰りたくなった。出迎えてくれたママさんには髭が生えていた。

「初めての方よね? お一人? 待ち合わせかしら?」

「えーっと、待ち合わせーですか……ね」

「何か飲むなら言ってね、お酒飲めるわよね?」

「えーっ、いえ、お酒は苦手です」

「そう……カシスジュースなら出来るんだけど、どうする?」

 何も注文しないで待っているのも何だった。暇だし、このママが怒り出したら本当は怖い人かも知れないし。

「じゃあ、お願いします。あのぉ……えーっと……お幾らですか?」

 ママはきょとんとして、それからがははははと笑い始めた。

「そんなに悪い店に見えるかしらねえ? いいわよ、初回の方は奢ってあげるわ」

「はあ、あの、すみません……」

 こんな店入ったことがない。合コンの居酒屋とも違う、ホステスとかが居るような雰囲気の店だ。チトセの奴……何が喫茶店だ――っ。

 出されたアメジスト色のジュースを啜りながら時計を見る。

 七時五分前。

 七時十五分までに来なかったら、帰ろう。待たされるなんて癪も癪。

「今日はイマムラさん来ないのかしらねえ――」

 ママが奥の客に話し掛ける。

「いや、借金で逃げてるらしいっすよ」

「あらーそうなの? 何処も大変ねえ……」

 七時十分……。

「来ないのか……」

 がらがらがらがらからーーーーんっ。

 物凄い音で誰かが入ってきた、と思ったら倒れこんだ。

「あら……? お水持ちましょうか?」

「はひ……すびばぜん……」

 ぜえーーっぜえーーっと妙な空気音を発している。

 ママが持ってきた水を飲み込むと、急にきょときょとと店の中を見回した。

 そして目が合う。

 いや、合いたくは無かったのだが……。

「チトセちゃん……?」

「いえ、代役です。ミズハと言います」

「あ―っ、遅れて済みません、ミヤモトです、ミヤモト。お話の方は聞いていらっしゃいましたか」

 といきなりセールスマンのような口調になった。

「お話、と言ってもええと……エッチナシでいろいろ、とか何とか」

 エッチの言葉が店の中に聴こえないように注意した。

「そうです……じゃ、行きましょうか。支払い、済んでますか?」

「あ、ママが奢ってくれて……」

「そうですか、じゃあ、ママ失礼」

「はい、今度はゆっくり飲みにきてくださいねえ」

 こうして店を後にした。

 

 ミヤモトさんの顔は35歳位の中年親父、けれど脂ぎったり禿げたりはしておらず、昔は適度に美男だったのではないか、と思わせる。

 しかし顔に刻まれた年輪とでも言うのか、そういうものが彼の表情を暗くしているのだった。身長もままあるし、太っても居ない。

 わざわざ女の子を買う必要があるのかどうか……?

 まあ、少女が趣味なら仕方無いんだろう。

 ミヤモトさんは馴れ馴れしく肩や手に触れては来ず、ただ隣を黙々と歩いていた。

「あの、何処に行くんでしょうか」

「ん? ま、着替えないと、ね」

「き、着替え……?」

「さあ行きましょうか」

「あ、の着替え……なら、会社の更衣室があるんで、そこで着替えてきますけど」

「ああ~ 駄目駄目、着替えているところもみたいんだし、君だけじゃ着方が分からないかも知れないし。お着替え、も重要な部分なんだから」

「お着替え……」

 嫌な予感がしてきた。大丈夫か、この人は。

 着方が分からないって着物でも着せられんのか。

「……私、何を着るんでしょうか」

「それは着いてのお楽しみだよ」

「着くって、何処に?」

 まさか、この人の部屋? 

 ヤバイ、ヤバ過ぎる。

「いや、ホテル。あ、大丈夫だよ、ちゃんとした皆御存知ホテル*****に部屋取ったから」

「あの、一応……確かめますけど、エッチ……ナシ――ですよね?」

「あー、うん、まあ、そうね、そうだよねえ、初めてだっけ、うん、それでもね、いいけど……」

 うっわ。凄い煮え切らない返事じゃねえか……。

「あ、いや、大丈夫。うん、大丈夫」

 全く大丈夫では無い気がした。


 部屋は普通のシングルルーム。

 ミヤモトさんは持っていた黒いカバンをベッドに放り出した。

「さあ、じゃあまず……着替えて貰うってことに5千、お着替えをまるまる見せてくれるならプラス一万、でどうですか」

「着替えるって、何に……?」

「これを見て下さい」

 鞄を開けると、原色のふりふりドレスや制服モノの、いわゆるコスプレ衣装が飛び出してきた。

 目の前で見たのは初めてだ。合計で六点くらいはあるだろうか、言わずと知れたセーラームーン、メイド服、その他何かのキャラクターなんだろう、それらが散乱している。

「僕が一番着て欲しいのはメイド服ですけど、それで外歩くとやっぱり目立ちますからねえ」

 いや、この中のどれを着ても目立つと思う。

「やっぱりこれかな。エヴァンゲリオンのレイの衣装っ! アスカも好きなんですけど、日本人にはアスカの体系が真似出来ませんからねえ……」

 うっとりとした表情で、淡いブルーの制服らしきものに頬擦りする。

 背中がぞわぞわした。

 しかし、この中で着るならコレが一番マシだろうか……。

「で、どうしますか? プラグスーツも着てみて貰いたかったけど、予算が立たなくて手に入らなくてですね、髪留めだけはあります。アスカは普段の制服時もこの髪留めを使用していますが、レイはしていないんですよ、でも一応つけて貰おうかな」

 話についていけない。

「で、どうします? 目の前で今着ているモノを脱いで、コレに着替えるまで見せてくれれば一万五千です」

「……下着、は?」

「下着は今つけているものをそのまま着用なさってください。質問は以上ですか?」

 …………。

「あのぉ……分かってらっしゃるとは思うんですけど、私女子高生じゃあないですよ?」

「知っています、知っています。チトセさんと同い年ですよね?」

「いえ、チトセより二歳は年下です。二十歳と二ヶ月ですから。で、それでもいいんですか?」

「あ、売りやるのは女子高生、援助で持て囃されるのは女子高生、ってそう思ってらっしゃるんですね」

 私は頷いた。

「ええ……そりゃあまあ……」

「で、トウの経った自分なんかじゃ駄目では無いかと?」

「いえ、あのそこまで言ってないんですけどっ」

 かなり怒り声で言った。

「いや、全然構わないですよ。ミズハさん……でしたよね、若いですし、見ようによっちゃ女子高生に見えるし、それにスタイルが細くてエヴァのレイにぴったりなんです。髪型もショートだし、顔立ちも可愛いですし」

 褒められているのかなんなのか、まあ悪い気はしなかったが……。

「そうですか……それはどうも」

「で、どうしますか? 隠れて着替えますか? 目の前で着替えますか?」

 これは悩んだ。

 ここで下着姿なんて見せてしまったら、その後羞恥心なんて薄れてしまってそのままずるずるとベッドイン、なんてことになっちゃうんじゃないだろうか。

「うーん、初めてなんでしたっけ。初見せですか。そうかー。そうですよねー、彼氏でもない男に下着姿見せるのなんて、初めてじゃやっぱり抵抗ありますよね、じゃあ、プラス五千。着替えて見せるだけで、二万ですよ? どうですか?」

 二万……着替えて、それを見せて、そのコスチュームを着ているだけで二万……。自給が六五〇円の店だったら30時間も働かなきゃいけない、そんなお金をそれだけで……。

「……うー、分かりました、でもあんまり、こう下着と肌の触れてるとことか、胸とかじろじろ見ないでくださいね」

「うーん、なるべく努めますけど……なにせこっちは二万も払うんだってことをお忘れなく」

 ああ、大丈夫なの? 下着姿になった途端に襲われたら?

 私だって未成年じゃないんだし、ここまで来たのは合意のこと。もしもの時はどう言い訳するのよ……。

 といいつつ、スカートに手を掛ける……。

 するり、と簡単に床に落ちた。ミヤモトさんは一メートル半ほど離れた椅子に座って見守っている。

 ブラウスのボタンをぷち、ぷちと外す。カーディガンと一緒に、ベッドに放る。

 白い花柄の上下の下着が顕わになる。思わず両腕で隠したくなった。

「それじゃ、レイになってください」

 そろそろと、水色のワンピースのようなものに脚を突っ込もうとした時、

「違います、先にブラウスを着た方が良いですよ」

「あそうですか」

 先にブラウスを着ることにする。

 これは白の普通のものだ。それからワンピース。後ろの交差する部分が良く分からなかったが、ファスナーを上げるとそれなりに整った。

「こ、これで……いいですか?」

「まだです、あとリボンと髪飾り」

 リボンは細い赤いやつで、胸元にきゅっと結ぶ。髪飾りはばっちん留めみたいになっていて、簡単につけることが出来た。

「終わりました……。あの、二万円、ください」

「……靴下は白がいいです。あと、靴もこっちで指定のがあります」

 そう言ってミヤモトさんはいそいそと靴と靴下を鞄から取り出し手渡した。

 私はすばやく履き替え、もう一度言った。

「着替えました。二万円、くれますか」

「はい、ではまず二万円」

 まず? これ以上には何をするっていうのだろう。

「ではこれからある所まで一緒に歩いて貰います」

「え――ッ? あの、うそ、この格好でっ?」

「最初の五千円にはその分も含まれて居ます」

「聞いてませんっ」

「最初からそのつもりでした。では、五千円返してください」

「…………」

 やっぱり、ヤバイかも……。でも一度貰った二万円は、既にあのワンピースを買おうって心が決めてしまっている。とてもじゃないが返したくない。

「あの、それって何処まで歩くんですか?」

「何処までもないです。ここら辺のデート区域を、ぐるぐる回って、喫茶店でパフェでも食べて、二時間したら終わりです。帰りにもう一度五千円あげます。それで今日は終わりです。良いですか?」

 このコスチュームでデート……。

 知り合いに会わないことを願うばかりだ。全部終われば合計二万五千円か。バイトにしてはいい……か?

「分かりました。じゃあ、この部屋出ますね?」

「あ、ホテル取った分勿体無いんで、僕だけシャワー浴びますから。家、風呂無いんですよ。銭湯通いでして」

「はあ……じゃあ、私はラウンジで待って――」

 と言いかけて、この格好では一人でラウンジに行く勇気はとても無かった。

「あ、なんだったらルームサービスでジュースか軽い物なら奢りますよ」

「いえ、いいです……」

 それからしゃわわわわわわっと風呂を使う音が聞こえてきた。鞄はない。風呂場に持ち込んだらしい。

 見られたくない物が入っているんだろうか。

 電話の傍にあったルームサービスのリストを眺めたり、外の景色を見てみたり、使い捨ての歯ブラシとかを点検していると、ミヤモトさんがバスタオルのまま半身を風呂から出している。

「うわっ……なにっ、え、いや、エッチ無しって言ったじゃないですかあ!!」

「いや、違う、これ……」

 そう言って黒いDVDを渡してくる。

「これ、僕が風呂入っている間に見ておいて。学習、学習」

「は、あ……?」

 ビデオを受け取ると、ミヤモトさんはまたシャワーに戻った。

 手にはビデオテープ。何だろう……アダルトビデオ? 

 かしゃりとDVDプレーヤに差し込み、チャンネルを合わせた。

 そこに映し出されたのは……

『新世紀エヴァンゲリオン』

「…………学習?」

 どうやら、これを見てレイになり切れ、と言いたいらしい。

「はあ……」

 ミヤモトさんはそれから三十分出てこなかった。その間エヴァの綾波レイについて学習したこと。

 主人公シンジには綾波と呼ばれている、碇ゲンドウにはレイと呼ばれている、その他女キャラは大方レイと呼ぶ、無表情、口数少なく、笑わない。冷静沈着、無関心。色素欠乏症のような髪と目の色。

 それくらい。

 服をきちんと着替えてあがって来たミヤモトさんを見て、言う。

「あの、これ見ましたけど、こういう喋り方をすればいいんですか? それでお金割増になりますか?」

「うーん、それは上手さによるなー。本当にレイちゃんだっ!って僕が思えれば、五千~二万までの間で払うよ」

「うそ……」

 それはそれは大金だ。既に二万五千なのに?

「じゃあ、やります。もう少しビデオ見ていいですか?」

「うーん、あと三十分だな……」

 ミヤモトさんは神経質そうに時計を見つめた。

 私は早送りを繰り返して、綾波レイの喋り方、表情を瞳孔に刻み付けた。


 街は外灯だけで無く、店々の明りが煌煌と灯っていて眩しいほどだ。

 こんな中を彼氏とデートして歩けるのなら、わくわくするかもね。

 でも今は妙なバイト中……ミヤモトさんはやっぱり手を繋いだりとかは望まないらしい。私はラッキーだけれど。

 ぐるぐる回って、何軒も同じような店を見る。お洒落なヨーロッパ風のお店ばかり。イタリアンやフレンチのお店から肉を焼く匂いやソースの甘い匂いが漂ってくる。

 ぐうううう……。

「碇司令、お腹が空きました」

「碇司令じゃなくて、僕の役どころは碇シンジだよ」

「…………」

 ちょっと無理があり過ぎると思う。こんな格好している二十歳が言うのもなんだが。

「で、では碇君、お腹空かない? 何か食べた方がいいと思う」

 淡々とした口調と無表情で言うと、ミヤモトさんは気に入ったらしい。愛好を崩して話し掛ける。

「じゃあ、綾波、あのカフェ風の店に入ろうか」

「ええ」

 こんな感じでいいのかしら。まあ、文句も出ていないしいいか。

 そこは夜でもオープンカフェになっている店で、メニューはコースから肉料理、魚料理、スープ、サラダとそれぞれ分かれてもいる。どれも凝った料理のようだが、その下に説明が書いてあって分かりやすい。千二百円の鴨肉のオレンジソースに、ヴォルビック一瓶、ミヤモトさんはオレンジジュースに骨付き肉の煮込みを頼んだ。

 周りの人がじろじろ見ている気がする……。エヴァンゲリオンなんて知名度高いよね、きっと。こんな格好で外に出ているなんて……しかも平然と食事しているなんて……恥ずかしがっていいのか、奇妙な優越感に浸っていいのか分からない。

「美味しい? 綾波」

「ええ」

 レイの台詞がこれ以上思いつかない。レイは口数があまりに少ないキャラクタだ。これで本当に満足してくれるんだろうか?

「あっ……でも綾波は……肉……」

 ミヤモトさんが何かごちゃごちゃ言っている。そうして頭を振った。何かを振り切ったらしい。

「最近、ここら辺で16、17歳くらいの子の誘拐未遂が起こってるだろ? あれってやっぱり、性犯罪者の仕業なのかな」

「そうでしょうね」

「綾波も気をつけた方がいいよ。やっぱり可愛い子が狙われると思うし」

 水をごくりと飲み干す。

「私、可愛いの?」

「え、いや、あ、そりゃ……綾波は可愛い……と思うよ」

 向こうも中々演技が入っている。この擬似アニメ体験が、彼に恍惚感を齎すのだろうか?

 それにしてもこの鴨肉は美味しい。食事付なんて、本当に良いバイトだ。

 店に入ってもう一時間は経っただろうか? お互い料理を食べ尽くし、ドリンクを飲み、デザートを追加注文した。アイスクリームを双方から同時に食べたい、と言い出したので一瞬うげぇと思ったが、これも仕方ないか……と思いそのまま一緒にぱくついた。

 愉しいですか?

 とは聞けなかった。聞きたくない。やっぱりやっぱりやっぱり……。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

「はい。えっと……あと一時間は、何をするの?」

「もう一回ここら辺を散歩するんだよ。脚疲れた?」

「あー、いえー、大丈夫ですけど……」

 本当はあまり大丈夫ではなかった。

さっき散々周回したというのに、何を見たいというんだろう。

 けれど、ごねている場合ではない。

「分かりました。店の外で待ってますね」

「うん、直ぐに行くよ」

 やっぱり、見てる。見られてる。

 行き交う人、特に男性はちら、ちらとこっちを伺う。 

 あの子、何であんな格好、コミケでもコスプレパーティ場でもないのにしているんだろう?

 ちら、ちら、あ、エヴァの綾波だ。くくっ、似合ってると思ってんのかな、あの子。

 うわ、オタクだよ、やっべえ、自分の彼女だったらちょっと引く。

 ………………。

あ、今頭の中かなりおかしかった。

 妄想、妄想、いや、妄想よねえ?

「お待たせ――っ」

「はあ……待ちましたよぉ……」

「キャラ抜けてるっ!」

「だ、だって……この格好で街歩くこっちの身にもなってみてくださいよぉ」

「それがバイトなんだから仕方ないだろ」

 ごもっとも。

「で、この後は…」

「もう一回ここら辺見て回ろう? 見たい雑貨屋があったら寄ってもいいよ。でも奢るのはナシだからね」

「はー……」

 Mサイズの靴は、安物らしくかかとでかぽかぽ言って皮膚を傷つける。正直これ以上歩きたくなかったが、あと一時間付き合えばプラス五千。今日だけで合計三万稼げたことになる。

 あまりに上手すぎやしないか……という気もするが、気にするまい。

「じゃあ行きましょう、碇君」

「そうだね綾波」

 …………はあ――。


 結局そこら辺をぐるぐると回り、脚が疲れて一時間が過ぎた。

 無為に過ごす一時間は三時間くらい長かった。

「はあ……もうそろそろ、一時間ですけ……ど」

 会社で仕事して帰りにこんなバイトしているのだから、正直しんどい。

「そう……だね。あと五分だけど、まあいいかな……」

 ミヤモトさんは自分の時計を見て、鞄から小さな袋を持ち出した。

「着替えたいですよね?」

「ええ、出来れば……」

 出来ればというより、切実に。

「じゃあ、もう一度ホテル*****に行かなければ行けません。僕はまだチェックアウトしていないし、一泊出来るので一泊していこうと思います」

「そですか」

「では、ホテルに戻って、ミズハさんは元の服を着て帰ってください。その時に五千円とあるものをあげます」

 あるもの……?

「それと、よければまたこんな風にデートしたいんですけど、実は知り合いもエヴァの綾波レイファンで、僕がそういうデートするって教えたら可愛い子ならば紹介して欲しいって言うんですよぉ、紹介してもいいですか?」

 それは随分と気に入られたものだ。ありがたいのか何ナノカ。

「そうですか……じゃあ、次はその人とデートってコトですか?」

「お願いします。日にちはこちらから指定でもいいですか? 彼は自宅で会いたいと言っているんですが」

「え、自宅ぅ……?」

 これからまたホテルに戻るのもなにかと危険な気がするのに、次の約束は家と来た。今度は捕らえた獲物は離さないってことじゃ無いんだろうか。

「勿論、汚い家にわざわざ来て貰うんですから、交通費もろもろは勿論、今日よりもサーヴィスすると思います」

「きょ、今日よりも……」

「では、とりあえずホテルに戻りましょうか。今日お着替えはもういいので、バスルームでどうぞ着替えてください」

 ホテルに戻り、バスルームで元の服を着ると疲れがどっと滲んできた。

「着ました。では、失礼します」

「ちょ、ちょっと待った、五千円、要らないんですか?」

「あ、ああっ。大変、忘れてました」

「はい、五千円です。それとですね、彼の要求では家に来る時は自宅からそのままレイの服を着てきて欲しいとのことです。今風呂敷に包みますから」

「えええ――っ?」

「それから、コレなんですが……」

 そう言ってさっきの小袋から、かなり小型の携帯電話を取り出した。

「これですね、僕と連絡を取る時に使って欲しいんですけど……、本当にピンチの時にだけ使ってください。普段はレイの服の腰あたりにシークレットポケットがありますから、そこに隠しておいてください。本当にピンチの時だけ、登録されている僕の番号へかけてください」

「?」

 着ていたレイの服を見ると、その携帯電話にぴったりのサイズのポケットが存在した。

「ピンチの時にこれを使えば、僕は必ず助けに行くから」

 にっこり、と言われてぞぞぞっと背筋が粟立つ……。

 ピンチの時って何よ? 強盗に襲われた時とか?

 なーにが助けに行くから、だ……何のつもりなんだろう。

 私がこの携帯をかっぱらったらどうするんだろ?

 まあ、いいか。別に害は無さそうだし……。

「分かりました……で、家の住所は?」

「あ、これ住所と地図です。表札はかかっていないので気をつけてください。彼の名前はイシイシンゴです」

「じゃあ、本当に、失礼しますー」

「うん、またよろしく」

 ばいばい~っと手を振って、ホテルの重たいドアを閉める。

「はあ………」

 これが、バイトか。

 でも今日だけで三万円。

 少し羞恥心が薄れてしまってヤバイ気もするけれど、まだ大丈夫。

 ああっ。レイの演技をした分の割増分は一円も貰えてないっ。

 演技が気に食わなかったっつーのか……。

 でも本当に次は家に行くべきなんだろうか。それに携帯預かっちゃったし……。

 とぼとぼとぼ、と帰り道を歩きながら、重たい疲労と頭痛を感じながら家に着いた。

 

 * * *


 窓の下を見てみたが、彼女の姿は確認出来なかった。

 緊張していたのだろう、肩が痛い。疲労がどっと押し寄せてくる。

 財布の中を見てみると、あと一万五千円しか残っていなかった。

 ホテルはカードを使うとして、結構手痛い出費だった。 

 そして、まだ終わっていない。顎を触ると、髭がわずかに伸びていた。

 腹も減っている。冷蔵庫のビールは法外な値段がするから、外に買いに行かなくてはならない。

 茶のジャケットに手を伸ばし、カードキーをズボンの後ろポケットに入れた。

 電気を消して部屋を出る。

 フロントの近くを通りかかったところで、『綾波レイの格好をした女の子』を連れていたのをホテルの人間に見られていることに気づいた。

 どう考えてもフロントの人間は記憶しているだろう。

まずいだろうか。

 いや、しかし合意の上であるし、性行為には及んでいない。そして私は未成年ではないのだ。

 何か訊かれたとしても、概ね大丈夫だろう。

 ホテルを出て近くのコンビニを探した。案外と直ぐ見つかった。

 週間雑誌を立ち読みし、ロリコン向け成年雑誌も目を通してみた。それから全ての本を棚に戻し、ビール二缶、ビーフジャーキーと枝豆、カップラーメン一個をレジに出す。

 五千円札で支払い、店を出た。

 そこからホテルとは逆方向に歩き出す。30分も歩くと、目的の家が現れる。

 キーホルダから鍵を取り出し、扉を開ける。中はもわっとした空気が立ち込めている。居間の窓を開けて換気する。

 ほどよく空気が中和されたところで、窓を閉め、隣の部屋に行く。

 ビールを一本、道連れに。

 ぷしゅ、勢い良い音を出してビールの栓をあけた。ぐびり、一口飲むと苦さと昂揚が滲み出てきた。

 カーテンを締め切った部屋、しかし丸く一箇所だけ外に向けられている瞳。

 天体望遠鏡―――それで固定してある部屋を覗いた。 

 奴は家に帰っていた。まあ、こんな遅い時間なのだから当然だが……。カーテンを閉めず、白いレースのカーテンをかけているだけだ。

 それだけで外から見えないと思い込んでいるらしい。部屋の電気を点けていれば、レースのカーテンなど無いに等しい。

 男がうろうろと部屋の中をうろついている。食べ物を運んだりしているようだ。

 やがて落ち着いたらしく、恐らくテレビがあるのだろうと思われる方角を向いて動かなくなった。

 他には異常は無いようだ。

 今日はこれでいいだろう……。

 さて、ホテルに戻るべきか……。少々面倒臭いが、ホテル代だって馬鹿にならなかったのだし……。

 あのぴしっとしたベッドの寝起きは最悪だが、もう一度シャワーだけは使っておきたい。

 買出しの袋を手に、部屋を出て施錠し、今度は本当にホテルに向かって歩き出した。


 * * *


「で、どうだったのよー?」

 日替わりランチを目の前にして、チトセは弾む声できいた。

「どうも何も……」

 オレンジジュースを啜りながら語尾を濁す。

「教えてよー、何やらされた? 幾ら貰ったーっ?」

「えっとぉ……合計で三万」

「えっそれっぽっち?」

「え、ぽっちって……もっと貰えるの?」

「うーん、遣り方にもよるし、人にもよるけど。で、で、でっ? 何させられたっ?」

「ええとぉ……エヴァンゲリオンの綾波レイの衣装を着て、外で食事」

 お着替え、を見せたことは何となく黙っておいた。

「ほうほう。美味しいもの食べられたかいっ?」

「あ、うん、それは」

「でも三万かー。もう少し行くかと思ったけどっ」

 チトセはカルボナーラスパゲッティをずずずずっと啜った。それをコンソメスープで流し込む。

 あまり行儀の良い子では無い。

「でも、カラダ売らないんだもん、三万貰えるだけで脅威だよ。チトセったら、そんなバイトしょっちゅうしているの?」

「いやー、しょっちゅうって訳じゃないけど、コンビニとかでバイトする訳に行かないじゃないっ? 会社があるもん。それにコンビニのバイトなんて高が知れてるし……。だから会社終わって余った時間なにかに使えないかなーって色々ネット検索したたんだよ」

「ふんふん」

「そしたら、ちょっとアダルト向けサイトの掲示板に『エッチ無し、コスプレなどの要求をのんでくれる人、デートしてください』って書いてあったわけ。

その後に、年齢は何処まで許せるとか、未婚じゃなきゃ嫌とか、顔は**系がいいとか書いてあるんだけどさ。今の世の中って人の愛情に飢えてるじゃない? エッチ無しでも、自分が指示した通りになってくれる女の子が居るなら、お金払ってでも付き合って欲しいんだよーっ!」

 私はオレンジジュースの最後を飲みきった。

「そういうもんかなあ……」

 甘い考えのような気もするし、それで理屈が通るような気もする。 

「でっ、でっ? その人とはもう終わっちゃったっ?」

 私はゆっくり首を振る。

「ううん……今度は知り合いに紹介したいって。でもその人は、自宅で逢いたいって」

「ええっ! それってちょっとヤバイかもよぉ……なんたって勝手知ったる自宅なんだもん、何されるか……」

「やっぱり、危ないのかなぁ」

「昨日の人は危なそうな感じだったっ?」

「いや、昨日だけでは全然普通だったけど」

 ちょっと変態入っていたけれど。

「うん、油断出来ないかなぁ……。でもね、今度の人は家で会ってくれるならもう少しお金弾んでくれるって」

「へえー……まあ、そう言う風に女の子と話したいだけの奴だって居るんだし、大丈夫かもよっ?」

 冷めてしまったコンソメスープを徒にかき混ぜながら、私は考えていた。

 ミヤモトさんや、そのイシイシンゴなる人物は、いきなり獣に豹変したりするんだろうか。

 それとも、優しいシンジ君のままで居てくれるんだろうか。


「では、明日の五時から九時の間に来てください。それから三時間お付き合い頂く、という形にしますんで」

「はあ……」

 ミヤモトさんから電話が掛かって来たのは次の日。私は会社から帰って家でばたんと横になっていた、丁度その時だった。

「あの、イシイシンゴさんの電話番号は? イシイさんからは連絡無いんですか?」

「あー、彼ね電話恐怖症なんですよ、電話で喋ろうとすると緊張して訳分かんない事とか、放送禁止用語とか喋り捲っちゃう病気なんです」

「はあ……」

「まあ、ですから明日お好きな時間に地図にある住所に行ってくれれば、それで契約成立て訳で」

「そうですか……」

「ま、僕ともまた会いましょうよ、今金欠なんで、また来月とかになると思いますけど」

「はあ……」

 がちゃり。つーつーつー……。

「はあ……」

 イシイシンゴなる人物はどんな人間なのか? 

 所望しているのはミヤモトさんと同じエヴァの綾波レイの格好、言葉遣い、仕草。仕草ってところが難しい。実際に動いている人間の真似をする訳じゃないんだもの、アニメを見てもなんだか良く掴めない。

「うーん、でも三万以上は確実……」

 一ヶ月の間に半分このバイトをしたとして……。

 15×3=45……軽く見積もっても45万? そんなに上手くいくかしら……。

 でもするのがあれだけなら、充分にやっていける……。

 客をとっかえひっかえしていれば、飽きられることも無い。

 あ、でもコスプレ衣装はミヤモトさんのだから、イシイさんのところが終わったら一旦返さなきゃ……。

 部屋の電気は消したまま。

 留守電は入っていない。

 観葉植物はしなびかかってる。

「うーーっ」

 ばっと起き上がり、カーテンを閉めた。電気を点ける。

 乱雑とまではいかないけれど、適度に散らかった部屋。

 飲んだ後片付けなかったジュースの缶とか、雑誌類が散乱している。

 雑誌を一冊ずつ積み上げていって、部屋の角に積んだ。

 ジュースの缶は袋に集めて台所のゴミ箱の傍に置く。ずっと使っていなかった掃除機を引っ張り出して、ごおおおっと部屋中を旋回する。洗ってない食器は昨日の分だけだ。それらも熱いお湯をざっとかけて、それからスポンジでごしごし磨いていく。床の妙な染みに雑巾をかける。

 明日出す分の燃えるゴミを纏めて玄関においておく、散乱した靴を並べる、ベッドのシーツをきちんと伸ばす。

「はあーっ……」

 これらをやっている間は、何も考えなかった。

 初めて会った人の前で下着姿になったこととか。

 明日会うイシイシンゴがどんな人間なのかも。

 突然、カレーライスが食べたくなった。

 冷蔵庫の横には丁度じゃがいも三個と人参一個、玉ねぎが三個置いてあった。

 冷蔵庫を見る。一昨日買った豚肉がある。賞味期限は今日。

 ジャガイモの皮を剥き始める。

 ぐるぐるぐるぐる。

 しゅるしゅるしゅるしゅる。

 三個とも剥いてしまって、しまった、と思う。一人分には多すぎる。

 まあ、いいか……。

 人参も剥いていく。しゅるしゅるしゅるしゅる、玉ねぎも、ざくざく、ぺらぺらぺら。

 そこまでやった所で、やっぱり肉じゃがにしよう、と思う。

 じゃが芋を鍋に入れて、砂糖で焦がさないように温め、肉を入れる、酒、醤油……ぐつぐつぐつぐつ……お湯を足す、少し煮込み、最後に玉ねぎを散らして蒸らす……。冷蔵庫からさやえんどうを持ってきて洗い、細く切って出来上がった肉じゃがに載せた。

 見た目は完璧だ。さて、味だが……。

 一口。まだ味が充分に染みていなかったけれど、味付けは良かった。

 一仕事終わった。

 自分で料理を作るなんて、何ヶ月ぶりだろう。

 どういう心境の変化なのか自分でも分からない。

 とにかく、今はお腹が空いていない。そのまま火を消して蒸らしておいた。

 何だろう、この感じは。

 空虚……。

 これからお金がどんどん入ってくるかも知れないのにさ。

 まだ、何か足りない。

 私がオタクじゃないから?

 好きでコスプレする女の子には、うってつけのバイトだよね、これって。

 なんだろう、金魚がじいっと水槽を外から眺めているような、こんな真っ白い客観的な感じは?

 とにかく、着ていた服を全部脱いでパジャマを着た。

 眠ろう。

 何も食べなくていい。

 ただ眠りたい。

 明日になったら、何かが変わっているかも。

 或いは自分の気持ちが。

 それらを待って、とりあえず寝よう。

 それしかない。


 五時に会社が終わった時、どういう方向でイシイシンゴの家に行こうか考えていた。

 綾波レイの衣装は風呂敷に入れて、ロッカーに置いてある。だからといって会社で着替える訳にはモチロンいかない。

 家に一回戻ったら、到着するのが九時くらいになってしまう。あまり遅いと危険が増すので嫌だった。

 途中で着替える場所……公衆トイレ? あ、コインランドリーとかが空いていたら使えるかも。

 他には……コンビニのトイレ――でもいきなりトイレから綾波レイのコスプレ女が出てきたら、店員はどんな顔をするだろう。

 うーん、やっぱり一目につかないところがいいな。でも公園のトイレなんて、外から見ただけでも吐き気がする。あんなところ入りたくない。ああ、どうしようか。

 とりあえず、会社を出る。

 チトセが何か話したそうにしていたけれど、無視して歩いた。今はチトセに付き合っている余裕がない。

 何処かで着替えなきゃ。余計な荷物が二つもあるせいで重かった。

 それに初めて行く住所だから、迷わずに辿り付けるかどうか……。

 とにかく**町に向けて歩を進める。

 まだ真っ暗にはなっていない空。

 少しだけオレンジ色を残して、あとは空虚になった青。

 これからいかがわしいバイトに行くのだ。

 どんどん虚しさやら悔しさ、そしてどうして? がやたらと増殖していく。

 お金がたんまり貰えるじゃない。

 あんなちょっとのことで。

  

 知らない道をずるずる歩いた。普通の住宅街になって、やたらと旧式の家が多かった。ところどころに新築が顔を出す感じ。

 外灯がちか、ちか、と点き始め、辺りが少しずつ暗くなっていく。

 やばい。

 周りを見渡しても、コインランドリーは無い。やっぱりコンビニしかないかな……。

 と思ったところに、しなびた光を撒き散らしている一件のコインランドリーが見つかった。幸い客もいない。

「よし……」

 中に入って、ざざざっと勝手に店内のカーテンを閉めた。そこからは速攻で脱ぐ、着る。およそ三分。

 よし、とささっとカーテンを開け、中にあった鏡で自分の姿を確かめる。靴も代えた。靴下も白、髪にはばっちん留め。自分の着替えた荷物が結構邪魔になってしまった。ふと、店内に取り付けられた四つのコインロッカーが目に入った。

 百円を入れて施錠出来るオーソドックスなもの。着替えと、お金を入れとこうか……。持っていくのと、コインロッカーに入れとくの、どっちが危険だろう。ううむ……。今日会うイシイシンゴが善人かどうか……。そんなこと考え出しても堂堂巡りだ。

 私は財布の中身、悲しいかな二千円しか入っていなかった――無用の心配だったか……。ともかく、それを紙袋の底に入れて着ていた服をどさどさっと詰め込み、ロッカーを施錠した。荷物は大分減った。コインランドリーなら夜遅くまで営業しているだろう、なんていっても無人なんだし。帰りに取りにくればいい。そもそもデートすることになったら邪魔だし、家にもう一度戻る、なんて危険を回避できるもんね。これでいいや。

 手にタッパーの入ったビニール袋を持って、綾波レイの格好をした私はもう一度地図を見る。

 うーん、ここから右に大分歩いたところのはず。ハイツ河合……か。ぼろいアパートを想像した。とてとて、とサイズの合わない靴で歩き続け、前方に十階建てほどのマンションが目に入った。近寄ってみると、『ハイツ河合』の文字がある。

「え、ここぉ……?」

 もっとボロイ家を想像していただけに、安心度は増した。

 て、て、て、て、と昇っていくと、七階にたどり着く。そこの奥に、一件だけ表札の掛かっていない部屋があった。

 ここだ。

 ぴんぽーん、と押せばいいのに、なんだか押すのがためらわれる。

 また緊張しているんだろうか。

 うーん、うーん、と逡巡していると……逡巡していても仕方ないんだけど、誰かが階段を昇ってくる音がした。

 げっ、誰だろ? こんな格好、不審に思われるっ……。

 と思った直前。

「あれ、君はぁ……わあっ! レイちゃんだね!?」

 と言う声。一瞬、私は後ろに退いた。その男は太り肉――ていうか単にデブ、で黒ぶち眼鏡に、妙にてかった頭髪――普通に暮らしていたら絶対に避けるタイプが目の前に居た。

 これがイシイシンゴか―――? うわ、最悪かも……。昨日のミヤモトさんとは段違いに最悪だ。

「あの、イシイシンゴさんですよね…? ミヤモトさんから紹介されてきたんですけれど、綾波レイとして」

「ああ、ああ、ああ、そうか、ミヤモト……と、と、とにかくあがって、レイちゃん、お茶でも用意するよ」

 はあ、と呟いて後に続く。靴箱はやっぱり乱雑だった。はっきり言って靴を脱ぐのが嫌だった。三十分でもここに居れば、靴下が真っ黒になるような気がした。

 中に入ると、部屋は中央で何故かカーテンで仕切られて居り、ソファから私の方までのエリアは大方片付いていた。そして、キッチンに続くと思われるエリアには、これまた大きなカーテンがかかっていて中が覗けないようになっている。何をそこまで警戒しているのか、それともこれが何かの便宜上良いのか見当がつかなかった。とりあえず、まま綺麗そうに見えるソファに座ることにする。

「レイちゃん、紅茶好き? 僕はねぇ、結構凝ってるんだよ。紅茶といえば、やっぱりフォションだよねえ。あ、アイスクリームは好き? ハーゲンダッツとフォションの買ってあるんだけど、どっち食べたい? 味はねえ、クッキー&クリームと、ストロベリーだよぉ」

 イシイシンゴは一体何の仕事をしているのだろうか。まあ、それはミヤモトさんも分からなかったんだけど。お互いそういう処は立ち入らず、かなぁ……と。

「あ、アイスはいいです――」

 出来れば紅茶も要らない、と思ったが、これもバイトのうち、と諦めた。だってあのカップ、きちんと洗ってあるのかしら……?

 しかしイシイシンゴは本格的なティーポットでお茶を淹れ出した。凝っている、というのは本当のようだ。

「これはダージリンだよ。オレンジペコーも好きだな、ミルクたっぷりのもいいよね」

 きょろきょろ周りを眺めるのも失礼かと思い、黙って座っていた。そういえばテレビが無い。現代人がテレビ無しで生活できるとは思えない。アニメ趣味なら尚更だ。では、隣の部屋にあるのか。

「はい、どーぞっ。ミルクとシロップもあるから、これね、蜂蜜のシロップで美味しいんだよぉ」

 私はとりあえず両方入れてみた。カップに目に見える汚れは付着していない。大丈夫か……?

 ごくん……。

 紅茶の濃い香りと、甘さが広がる。疲労に甘さがとても効いた。

 ごくん、ごくん、ごくん。

 あ、意外に飲めちゃってる。だって美味しい。

「気に入ってくれたみたいだねぇ。レイちゃん」

「あ、そうだ……あの、三時間でいいんですよね? で、料金の方はどうなってるんですか?」

 私はいきなりビジネスライクになって言った。

「三時間、僕とお喋りに付き合ってくれたら五万円、でいいかなぁ」

「え、五万……?」

「そう、五万~♪ だいじょーぶ、僕のパパってねぇ、お金持ちだから、お小遣いたくさんくれるんだぁ。この家もね、ハヤトが一人で暮らせるならいいよって言ってねっ」

 …………え? 

「はやと? あの……イシイシンゴさん……ですよね?」

「イシイシンゴ……それ、誰なのかなぁレイちゃん?」

「え? だってミヤモトさんからのしょーかい……」

 口が痺れる。上手く動かない。目が開かなくなってきてる。

「だって、みやもほはんが……ほほだってひってたはら……ひたのに……」

 ぱたん。

 真っ暗、ああ。


 息が苦しい。

 何処で眠ったんだろう、私は。

 と、カラダが動かないことに気がつく。何かの箱の中に居る……自分の身体が……。

 ごとっ、ごとっ、ごとっ……

「ううー」

 これは衣装ケースだ! 

 透明の衣装ケースの中に私の身体がすっぽり収まっている。ケースにはところどころ小さな丸い穴が開いていて、空気孔になっているようだ。一番大きな穴でも、手首がすり抜けるだけでそれ以上は脱け出せない。しかも右手だけに手錠が嵌めてある。

「なに、ここは……」

 と、隣を見ると、私と同じように衣装ケースに入れられているおじさんが居る。苦痛に表情を歪めて耐えている。見ると、衣装ケースは二段になっており、上の段におじさんが、下の段に……排泄物が入れてあった。

「うっ……」

 排泄物を見た途端、気持ち悪さと臭さが一気に去来した。

「なっ…なっ……」

 おじさんは腐った魚のような目で、ぼそぼそと喋った。

「あんたァ……なんでこんなトコに来ちゃったの……」

「わ、私は……アルバイトで……」

 気を失ってしまったことから考えても、さっきのイシイシンゴだかハヤトだかは多分紅茶に一服もったのだ。紅茶の中に直接? それともあのシロップか砂糖……? あれから何時間経っているんだろう……。

 服装に乱れは無い。髪留めもそのまま付いている。

……でも如何わしいことをされなかった、という確証は無かった。

「私……なにされたんでしょう……」

「ああ、ハヤトに薬盛られて、寝ちゃって閉じ込められたんだよ」

「あの人、ハヤトって言うんですね」

「そう。イマムラハヤト」

「あの、私……眠っている間、何かされてませんでしたか……その、服脱がされたり……とか、その」

「いや、大丈夫だった。君が眠ってからハヤトがカーテンを開けて、『新しい仲間だよ。レイちゃんだよっ!』って叫んで、それから君を抱き締めてじっと見つめては居たけれど、それ以上のことは何も」

 私はほうっと、とりあえず安堵した。これからの問題はどうやって逃げるか――だ。

「で、ハヤトは……?」

「トイレだ。直ぐに戻ってくるから、喋らない方がいい」

「は、はい……あの、私はミズハと言います。あなたは」

「イマムラコウジです。私はハヤトの叔父です」

 叔父……がなんだってこんな目にあっているのか。

 どすどすどすっと音がして、ハヤトがこっちに戻ってきた。

 カーテンを開け、それからカーテンと襖を閉めた。

「叔父さん、レイちゃんに余計なこと言わなかっただろうね?」

「……いや、何も」

「レイちゃん、ごめんよ、こんな目に合わせて。でも僕は君のことが好きになってしまったんだ。だから仕方無いんだ、食べたいものある? なんでも好きなもの言ってよ。アイス? シュークリーム? ケーキ? ごはん系がいい? なんでもいいんだよっ? なんなら買ってきてもいいよ、食べたいものなんでも言ってねっねっ?」

 ………こんな状況でモノを食べたくなる人間が居るだろうか……。

「叔父さんは何が食べたいのさ? 僕だって鬼じゃないんだから、叔父さんの分も用意してあげるよ」

「寿司」

 多分、長い監禁生活でおかしくなっているのか、もう腹を決めているかのどちらかだろう。

「……ふざけんなよっなんでお前が家畜と同じお前がっ」 

 どごん、どごん、と叔父のケースをハヤトが蹴る。

「もういいっ。お前のメシは無しだ。今日は飢えて暮らせ」

 そう言うと、ハヤトは私の方を向いた。

「レイちゃんは?」

「……要らない」

「駄目だよー、食べないとお腹空いちゃうよ? 僕が寝てからお腹空いたら困るでしょ? ちゃんと僕を頼ってくれなきゃ」

 猫なで声で、私のケースの近くに座り込む。

「碇君、出してくれる?」

「僕は碇君じゃないっ! ハヤト君だよっ!」

 あそう、人によって呼ばれたい名前は違うらしい。

「ハヤト君、ここから出して。息が苦しいの」

「嘘吐かないでよレイちゃんっ! ちゃんと穴開けてあるでしょ? 電動ドリルで僕が頑張って開けたんだから、苦しくなんて無いはずだよ」

「でも、身体が伸ばせなくて辛いの」

「わがままばっかり言わないでっ! 僕のレイちゃんはそんなんじゃないよっ!」

 滅茶苦茶だ。言葉が通じない……。

「ミズハさんっ……」

 隣のイマムラさんが、これ以上は刺激しない方がいい、という風に無言で顔を横に振る。

「ミズハ? 何言ってるんだよおじさんっ、この子はレイちゃん、エヴァのファーストチルドレンのレイちゃんだろっ!」

 げすっげすっとイマムラさんの箱を蹴る。

 その内満足したのか、カーテンを閉めて隣の部屋で何か作業をしているようだった。

 その隙に、私は隣の死にかけているイマムラさんに話し掛けた。

「……イマムラさんは、どうしてこんなことに」

「……ハヤトの家はなかなかの金持ちでね、あの子は二人兄弟だが兄の方は優秀で今医学部に居る。そのせいで両親は長男ばかりに手をかける毎日になって、ハヤトにはお金を渡すばかりで放任していた。さしもの私の家も、息子一人だがそれは優秀でね、身内自慢をしたいんじゃない、優秀過ぎて私は馬鹿にされっ放し、口も利いてくれない始末さ。そういう状況があって、私はハヤトを同情してね、何回もこの家を訪れては飯を作ってやったり、小言を言ったりしていた。だがそういうのはハヤトにとっては愛情なんかじゃなく、唯の迷惑だったんだね。突然怒りだして、リモコンでぶち殴られて気を失ったらこうなっていたよ。この凝った造りといい、前々から用意していたようだね……」

 なんだか重い話で、どういう顔をしていいのか分からなかった。ハヤトの逆恨みなのか、この人がぐちぐち言い過ぎたのか良く分からない。

「閉じ込められてどの位になるんですか」

「まあ、まだ一週間かな……頭が痛くてねえ……頭蓋骨に罅でも入ったかな……」

「どうにか脱出出来ないでしょうか……」

「だってこの箱、自分じゃ開けられないでしょう。それにこの部屋、気づいてますか? 防音材を張り巡らせてあるんです。大きな声を出しても外には聞こえない、ハヤトに殴られるのが関の山です。私が来ている間も、この部屋だけは入れてくれなかったから……それに……うう」

「でもイマムラさんの捜索願とか出ているでしょう? ここが怪しまれたりしませんか?」

「うちの家族は妻も息子も私に無関心だ。だから、捜索願くらいは出しても何処に行った、なんて考えてないでしょう。むしろ家出したんだと思っているかも知れません」

「そんな……」

「私は何処に居ても居ないのと同じ、虚しいですよ、どうせならさっさと息絶えたいですよ。こんな屈辱を受けて」

「…………」

 私はふと、思い出した。

「イマムラさん、SUZUってお店に通ってませんでしたか?」

「え、はい、通ってましたよ。こうなる前は……。あのオカマのママ、変わらずお酒作っているんでしょうね」

「ママ達、心配していました。イマムラさんが最近来ないって」

「え、まさか……ミズハさん、同情してそう言っているんでしょう」

「嘘なら店のことなんて言い当てられませんよ。確かに言っていました。イマムラさんのこと」

「ママが……」

 イマムラさんは少しほろっと来たようだった。まあ、今彼を喜ばせたところでなんのメリットも無いのだが……。

 がらっと襖が開いて、ハヤトが入ってきた。手には食べ物を持っている。

「さあ、レイちゃん、好きなもの選んで」

「……ハヤト君、おじさんの排泄物が目の前にあるから、食べたくても気持ち悪くて食べられないの。それに凄い臭いがするのよ。ずっとここに居ないから分からないでしょうけれど」

 一瞬、イマムラさんに失礼かと思ったが、出して貰う突破口になれば、と思い言った。

「おじさんを普通にトイレに行かせてあげて? そうすれば臭くないわ」

「……駄目だよ。おじさんは僕と同じくらいの体格じゃない。もし戦いになったら勝てるかどうか分かんないもん。それに、おじさんは僕にうるさいことばかり言うから屈辱という名の罰を与えなければいけないんだよ。でも、レイちゃんには気の毒だね。そうだな……」

 それからまた襖が閉まり、向こうの部屋でどたどたと動き回るハヤトの足音がした。

「す、すみません。なんかちょっと失礼でしたよね……」

「いや、いいんだ。何か脱出の可能性があるなら全て試そう。それにハヤトは君が好きなようだし、懐柔出来るかも知れない」

「……そうですね」

 がた、と襖が開いて、ハヤトが何かを持ち込んできた。

「よいしょ、よいしょっと」

 少しの動作で大粒の汗を流すハヤトは非常に気持ち悪い。

「これでよし。臭いは我慢してね、レイちゃん」

 私とイマムラさんの間に、大きなテーブルで柵を作られてしまった。

「…………」

 やはりこのケースから出ないことにはどうにもならない……。

「ハヤト君、私ハヤト君と同じテーブルについてご飯を食べたいわ。お願い、出して」

「……それはそうだねえ、こんなケースの中で一人で食べても美味しくないよね、うーん。ねえ、レイちゃん、逃げないよね?」

「ええ、逃げないわ」

「でも……なあ。裏切られたらショックだからなァ~」

 うーん、うーんとしばらくハヤトは唸っていたが、突然

「よしっ、いいよ。分かったよ、出してあげるよ。でもごはん食べたら戻るんだよっ? いいねっ?」

 と妙に明るく言った。ともかくは、これでOKだろうか。

「分かったわ……御飯、何?」

 蓋が開く。ガムテープで補強してあるのも外し、かぱんっと大きな音がして天井から空気が入ってきた。

 今逃げ出すか?

 今か?

 いや、目の前に巨漢が居る。逃げ出そうとしても直ぐに捕まる……。

 やはり、御飯を食べて油断している時に逃げるしか……。

 と、私の右手を思い切り掴んだと思うと、ハヤトは手錠の片方を自分の左手につけた。

「へへへっ、これで一蓮托生、だねー」

「…………」

 なんてこと。

 これでは逃げ出せない。手錠を脱け出す関節外しなんて技、私は会得していない。

 どうしたら……。

 ともかくも、変わらずにケースに閉じ込められているイマムラさんを背に、私は居間に通された。

 テーブルの上には既にコンビニのお惣菜――フライドチキンやグラタン、スパゲッティ、カツカレー……などなどが乗っかっている。

「さあ、左の椅子にかけて、食べようよ」

「ええ……」

 この手首が繋がれた状態をどうやって打破すれば良いのか……。

 この手錠だって、どうせドンキホーテかどっかで売ってるチャチなもののハズ。金槌か何かで鎖を強打すれば割れそうなもの……。しかし金槌も、その隙もない。

「レイちゃんは何が好きっ? あ、そう言えばレイちゃんが持ってきてくれたお土産何かなぁ」

 私が座っていたソファに置かれたプラスチックケース入りビニール袋をハヤトは持ってきた。その間私も移動させられることになる。

「わぁっ! 肉じゃがだぁ…レイちゃん、これ僕のために作ってきてくれたのぉっ?」

 それは昨日作った肉じゃがで、結局食べなかった為になんとなく持ってきたものだ。いわゆる点数稼ぎ、のつもりだったのかも知れない。もしくは、ミヤモトさんに食べて欲しかったのかも。ミヤモトさん……あの人はこの状況を知っているんだろうか。それとも私が場所を間違えたのか……。

「わーいっ、温めて食べようっ」

 周りを見る。食べ物とゴミ以外には、何も無い。雑誌がそこら辺に散らばっているけれど、ハヤトの後頭部を一撃で倒せそうなものは無い。何か……何かないか。キッチンを見る。洗われていない食器が積み重なっている。虫の死骸も転がっている。包丁は無い……普段使わないから引き出しにしまってあるのか、扉に立て付けてあるのか、それとも元々無いのか……。引き出しを開けてみる訳にも行かず、困ってしまった。

 ハヤトがレンジを使おうとした時に声を掛ける。

「そのケース、蓋だけはレンジ対応じゃないの、外して」

 そう言うと、ハヤトはもたもたした動作でレンジの扉を開け、蓋を外した。その隙に、そっとキッチン台の扉を開けてみる。無い……。

 それにもし包丁が在ったところで、それをハヤトに取られてはこちらが更に危険になる。

 チン、という音がしてハヤトは肉じゃがを取り出した。

「わーっ、美味しそうッ。すごいね、レイちゃんは料理上手なんだねっ」

「そんなことないわ」

 私はそっけなく言った。そんな言葉が嬉しいハズが無い。

 食べないのも変なので、適当に摘んだ。

 ハヤトの食べる量は尋常ではなく、フライドチキンを三秒で平らげ、ドリアを八秒で空にした。

 何をそんなに急いでいるのか、という食べ方。

 飢えた人間がようやく食べ物に辿り付いたとでもいうような食べ方。

 まさに、がつ、がつという食べ方……。

 見ていて吐き気がした。

 包丁は無い……もしくは、別のところか。

 と、ふと床を見ると子供用シャンペンの空き瓶があった。多分クリスマスの時から置きっ放しなのだろう。

 これで後頭部を一打すれば、ハヤトは倒れる――。

 手錠の鍵は多分ハヤトが身につけているはずだ。トレーナーにポケットは無いから、おそらくズボンのポケットだろう。この乱雑な部屋の何処かに置いていれば、三分で行方不明になるだろうから。

 問題はタイミングだ……。

 いや、今しかないだろう。

 ハヤトが食べ終わる前に――。

 立ち上がり、シャンペンの瓶の傍まで行こうとすると、かしゃりっと手錠が邪魔になった。

「レイちゃん、どうしたの? トイレ?」

「あ、ううん、水を……」

「なぁんだ、ジュースを飲みなよ。冷蔵庫に入ってるよ」

 そのままで居るのも変なので、冷蔵庫を開けると様々な種類のジュースが入っていた。とりあえずすりたてりんご、というジュースを手に取った。缶じゃ駄目だ。瓶でないと……そのためには、ハヤトが瓶の傍まで移動してくれないと、手錠が邪魔して取れない……。

「僕、トイレ行きたくなっちゃった。手錠外すの面倒だな。レイちゃん、ついてきてよ」

「………!」

 そう言うと、さっさと背を向けて玄関の隣にあるトイレに近づいていく。私はそっと瓶を手に取り、左手で背中に隠した。

 このままいけば、トイレに入る寸前に頭をぶち割って―――

「あっレイちゃんっ」

 !!?

「え、何……」

 私は瓶を隠したまま、返事をする。

「どうして髪の色、黒なの? レイちゃんなら水色でしょ? 明日脱色剤を買ってきてあげるからね」

「そ、そうね、ありがとう」

「それから赤いコンタクトも必要だな。完璧には完璧を期さないと」

「…………」

 瓶に気づいた様子は無かった。

 そのまま、ハヤトがトイレに入るその瞬間――左手から右手に瓶を持ち替え、思い切り殴った。

 がしゃあああんっ

「うっ……」 

 そしてトイレに蹴って押し込め、扉を思い切り閉めて、開けて、閉めて、開けて、間に挟まった手錠の鎖が劣化するのを待つ。

 ぎいいんっ。思い切り扉を殴りつけると、鎖が切れた。

 今だ。

 片手に割れた瓶の破片を持ったまま、玄関に走る。

「なっ――」

 なんと、玄関は三つも施錠してあった。

 まず一つは簡単な、捻るタイプ。

 もう一つは、左上のかなり届きにくい場所に、同じく捻るタイプ。

 そして、もう一つは鎖錠――。これが一番手間取った。落ち着こうと思うのに、思うように開いてくれない。

 かしゃかしゃかしゃしゃ……。

 その時だった。

 どがんっ――。

「ううっ……っ!」

 思い切り後頭部を殴られた。

「助けて―!! いやああああ、助けて――、誰か――っ! 助けて――!」

 力の限り叫ぶ。

 ごすっ。

 もう一撃受けた。

 頭がずごんずごんと痛い。

 ハヤトが私の口をビニールテープで塞いだ。

「はあ、はあ、はあ、はあ、レイちゃん……お前、僕の言うコト聞かなきゃ駄目じゃないか……はあ、はあ、はあ、はあ」

「………っっ」

 ごすんっ。

 もう一撃、頬を打たれた。

 平手ではない。拳だった。

 気を失いかける。

 ハヤトは私を軽々と抱え、元の部屋に持っていき、後ろ手をガムテープで雁字搦めにした。

 そこへチャイムの音がした。

 誰かがさっきの悲鳴で来てくれた……?

 お願い、中まで入ってきて……この惨状を見て――!

 ハヤトの余所行きの声が聞こえる。

「あ、ヘンな声? 分かんないなあ、僕はテレビ見てたんで、ええ、すみませーん」

 それだけ?

 ばたん、と扉は閉まった。

 なんて簡単に。

 もっと疑ってよ!!

 戻ってきたハヤトは怒りに顔を真っ赤にしていた。

「レイちゃん……やっていいことと悪いことがあるんだよ」

 そうして乱暴な動作で、私をまた衣装ケースに閉じ込めた。

「反省しなよ。それじゃないと、ごはんもおやつも何もあげないし、レイちゃんのこと大切にしてあげないよ」

「…………」 

 口にテープが張られている為、何を喋ることも出来ない。

 ハヤトが去った後、イマムラさんが話し掛けてきた。

「ミズハさん……本当に成功する時しか、ハヤトに歯向かってはいけません……。貴女が思っているより、ずっとあいつは残忍で狂人なのですから」

「…………」


 頬がズキンズキンと痛い……骨まで響いている。

 叩かれた後頭部も、ドグンドグンと脈打つように痛みを訴えている。

 身体中ががたがた言っている。身体を縮こませ、じっとしていても痛みで起こされる。

「…………」

 乱雑に巻かれた両手のテープを何とかして剥がそうという気にもなれない。

 口にもテープが巻かれたままだ。

 ずたぼろ、本当に、ずたぼろだった。

 

 一体何がどうなってこうなってしまったんだろう。

 やっぱり甘いバイトなんて無いってことか。

 私は――


 ピンチの時にこれを使えば、僕は必ず助けに行くから


 ――!?

 

 あ……っ!

 私は声にならない声をあげた。

 ミヤモトさんがくれた携帯電話……あまりに小さいのと自分のではないせいで忘れ去っていた――なんて馬鹿!

 このスカートの後ろのポケットに入っているじゃない!

 私は慌ててもがもがとテープを取りに掛かった。

 動く度に頭と身体中にどくんと響いたが、それでも構わず動き続けた。

「……っ……っ」

「ミズハさん……何をして……」

 その時、誰かが――ハヤトしか居ないが――この部屋に来る気配がした。

 私は解けたテープも手に巻きつけて、沈黙した。

「さあ、そろそろ可愛がってあげないと」

 !? 

 非常に嫌な予感がした。

 今のところ性的な暴行を受けていなかったから、そういうことはしないのかと半ば安心していただけに。

 しかし、ハヤトは私のケースには来ず、部屋の奥においてある大きな箱に向かった。

 箱、というかそれは業務用冷凍庫に見えた。

 ハヤトが蓋を開ける。その瞬間、イマムラさんがうめいた。

「うう……」

 ?

 そして、ハヤトは『何か』を取り出し、それを抱き締めた。

 それは人形に見えた…………いや、人形のように凍った『何か』

「ルリちゃん、寂しかった? でもルリちゃんもレイちゃんみたく生きていれば面白かったのに、あんなに騒いで泣くからいけないんだよ」

 人形は無言だ。

 あれは……ハヤトが殺したのか――?

 そして、今も冷凍庫に入れて愛でている――?

「ほら、見てご覧よレイちゃん。ルリちゃんだよ」

 それは可愛らしい顔立ちをした幼女だった。

「うっ……」

 吐きそうだったが、口のテープが邪魔して吐けない。

 それを察したらしく、ハヤトはびっと乱暴に私の口からテープを外した。

「げええええええっ」

 二段重ねになっている衣装ケースの、下に繋がる穴に思い切り吐いた。イマムラさんがトイレにしている穴だ。

「きったないなあ……レイちゃんは僕をどんどん幻滅させてくれるね。ルリちゃんはこんなに綺麗なのに、何で吐くんだよぉ」

 これほどまでとは思っていなかった。

 このハヤトの異常が――狂気が――既に人一人の命を失わせていたとは……。

「さあ、ルリちゃん、一緒にナデシコのDVDを見ようっ」

 そう言ってハヤトはキッチンの方へ去っていった。キッチンの奥にテレビ・ビデオ機器があるようだ。

「あの、イマムラさんは知っていたんですか……あの女の子のことを」

「はい、ハヤトが見せびらかしましたからね……。どんな風に殺したか、まで聞かせられました。それと、ミズハさんはお幾つですか」

 いきなり、何故話が変わったんだろう、と思ったが答えた。

「二十歳です……が?」

「ハヤトに歳を聞かれたら、五歳はサバを読むといい。あの子は幼児から十代の女の子が大好きです。もしミズハさんが二十代だと知ったら、何をされるか。まあ、むしろ若い方がされるのか、も分からないのですが。あの冷凍された少女は8歳だったそうです……」

 どうしろというのか。だが、少なくとも二十歳と答えるのはマズイだろう。

 とにもかくにも、携帯電話だ。

 むがむがとテープを外し、なんとか全部取り払うことが出来た。

「大丈夫ですか、ミズハさん。しかし携帯を持っていたのなら……さっきの時点でそれを……」

 イマムラさんが言い辛そうにぐちぐちと言ってくる。私だって、なんて失念だ、と後悔しているというのに。

 背中の後ろの隠しポケットから、小さな携帯を取り出した。

「警察にかけるんですね?」

「え――?」

 私の頭は一瞬真っ白になった。

 私は直前までミヤモトさんにかけるつもりだったからだ。

「警察……ミヤモトさん……どっち……」

「そのミヤモトさんという方は確実に私達を助け出してくれるのでしょうか。本当に信用出来ますか?」

「…………」

 こんな事態に陥った元々の原因を辿ると、なんだかミヤモトさんのせい、更にはミヤモトさんが共犯のようにさえ思えてくる。イシイシンゴ=ハヤトを友達だと言わなかったか? 一体……。

「でも、警察は本当にこの部屋まで踏み込んで来てくれるでしょうか? ハヤトは対人時には普通の対応をしているように思えるんですけど」

「そうですね、これといった問題はおこしていないんです。挨拶なども普通にしますし、だから傍目にはちょっとオタクな男にしか見えないんです。ここまでの異常さを秘めていると気づかれないんですね」

「では、警察はうっかり見逃してしまうということも――」

「……どうしましょうねえ……」

「あ、やだ。なんだ、両方にかければいいじゃないですか。早速かけますね、待っててくださいイマムラさんっ!」

「あ、そうですね。私達って間抜けでしたねえ」

 ようやく助かると思うと、イマムラさんの声にも覇気が出てきた。私はとりあえずミヤモトさんの番号を押した。

「あっ――」

「どうしましたか」

「け、圏外に……なってしまいました」

 慌てて、ケースの中から穴を通って外に携帯電話を出してみたが、状況は変わらなかった。

「ここは防音材とか色々張り巡らせてあるからなァ……。圏外ですか……圏外……」

 一気にイマムラさんの声は沈んでいく。

「ど、どうしよう……」

 ここ以外なら――この隔離された部屋以外ならどうか?

 しかし、一度ハヤトに暴力を振るっている身、そう簡単に油断などしてくれるだろうか。

「もう少しでハヤトがルリを冷凍庫にしまいに来ます。その前に、それをしまった方がいい」

 とにかく、携帯は元のポケットにしまい、ガムテープで縛られているように見せかけた。

 数分後、ビデオを見て御満悦らしいハヤトはルリ……それを、私はとにかく人形なのだと思い込むことにした。そうでもしないと、頭の中が狂いそうだった――を冷凍庫に閉じ込める。腐敗を防ぐためだろう。そうして、私のケースの傍に座った。

「レイちゃん、反省した?」

「……ええ……ハヤト君に酷いことをしてしまったと思っているわ」

「そっかー、分かってくれたんならいいんだ。僕だって鬼じゃないんだからね」

「……でもどうしてルリちゃんはあんな……」

 しまった。言うべきではなかった。けれど、鬼じゃないならどうしてルリをあんな風にしてしまったのだ、という疑問が口をついて出てしまった。

「そりゃあルリちゃんが悪い子だったからだよ。反省したっ?って訊いても、わあわあ泣いて帰りたい帰りたいママママ、て言うばっかりだし、僕のこと気持ち悪いとか言い出すし、そりゃあ始末に終えなかったんだから。だから、帰してあげるって嘘ついてケースから出して、首をぎゅっと締めたら案外簡単に静かになったんだ。それで、昔からうちにあった冷凍庫のスイッチ入れて使ってるの。分かった?」

「……私は騒がないわ。だから、もう一度一緒に食事がしたいの。ほら、さっき途中だったでしょう? ジュースもまだ飲んでないのよ……」

「……でもレイちゃんはさっき僕のこと打ったからなァ~……手錠を二個つけてあげる。そしたら打てないよね」

「…………」

 ともかく、この密室を出なければ。

 この閉鎖された空間では携帯が通じない。その為には――。

「分かったわ。ハヤト君の言うとおりにするわ。だから、お願い」

「まあねえ……僕だってレイちゃんと食事するのは楽しいし……じゃあ、蓋開けてもじっとしててよ。そうじゃなきゃ、今度こそ殺すからね」

「…………」

 ハヤトは黙ったまま蓋を開けた。

 そして、傍にあった引き出しから手錠を二組出した。

 一つは私に完全に掛け、もう一つは右手に掛けて左側は私を誘導するのに使った。そして、テーブルの端に嵌めた。それからハヤトは私の周りに武器になりそうなものがないか確認して、それから缶ジュースを渡した。

「さあ、それ飲んでいいよ」

「ありがとう……」

「ねえ、レイちゃんは、エヴァの中で誰が一番好きっ?」

 どうでも良過ぎて流してしまいたい質問だったが、一応答えておいた。

「碇君よ……」

 私は碇シンジとレイ以外のキャラクタが良く分からなかったので、そう答える以外に無かった。

「そっかー。やっぱり僕はレイちゃんが好きだよ。それから、アスカちゃんも好きだけどー、今度はアスカちゃんに似た子が来てくれるといいのになァ」

 来てくれる?

「私、ここに来たのは……紹介されて……」

「紹介って、誰から? 僕、実は見てたんだァ。一昨日レイちゃんが誰か知らない男とデートしてるの。わあ、レイちゃんだあ、僕のところにも着てくれればなあって思ってたら、びっくり。本当に来てくれたんだもんっ! やっぱり運命だね、運命で結ばれてるんだね」

「…………」

 ??? どういうことなのか……。

 しばらくハヤトのくだらない話に付き合い、相槌を打ち、気分を損ねないように努めた。

 ジュースを二缶空にした。

「………ねえ、ハヤト君」

「なぁにっ? レイたん」

 いつのまにかレイたん、になっている。……まあ、どうでもよいが。

「私……トイレに行きたいんだけれど――」

「えっトイレっ? 目の前で見たいなあ……ああっいや、でもレイたんはそんなことはしないんだぁっ!!」

 どうもハヤトの中で神聖視があるらしい。ありがたいことだ。

「うーん、うーん、じゃあいいよ、トイレに行かせてあげる……」

 そういってテーブルの錠を外した。

「でも、両手の手錠はしたままだよ。レイたんは一回僕を裏切っているんだからね」

「分かったわ……」

 手錠をしてあるぐらいなら、大丈夫だ。携帯を取れる――。

「あ、でも、レイたん……僕お願いがあるんだぁ」

「え、え、何?」

「レイたんのぉ……パンツ、頂戴」

「…………っ―――」

 嘘。嫌だ。気持ち悪い。でも、どうしようもない。

 今こいつに歯向かうことは、一生ここから出られないことを意味する。

「……パンツ……なんてどうするの……」

「匂いを嗅いだりして楽しむんだよ。普通だろ」

「…………」

 っ―――なんて気持ち悪い奴っ! 死ねっ! このっ変態っ!!

 という罵詈雑言が私に一気に去来した。

「はあ…………分かったわ……待って、トイレで脱ぐから――」

「駄目、目の前で脱いでっ」

「――――」

 どうにもしようがなかった。

 あと少し、あと少しで電話が掛けられるのに……。

 するり、とスカートの中のパンツに手をかける。

 ハヤトのぎんぎんぎらぎらとした目……。

 これが変態の世界か。それとも一端か。

「はい、ハヤト君。欲しがっていたパンツ」

 最大の軽蔑を込めて頭に載せてやった。

 ハヤトはにこにこ顔でそれを手に取った。

「うわぁ……」

「じゃあ、トイレに入るわね」

 ぱたん、と扉は鎖を挟んだまま閉じた。

 直ぐに携帯を取り出す。

 警察に事情を説明している暇は無い。

 ミヤモトさんっ――お願いっ! 

 トイレの大きな水流の方を押す。

 ずっしゃああああ……

「ミヤモトさん……助けて。イシイシンゴの家に居るハヤトが、監禁する」

「え、ミズハさんっ」

 つ――――……。

「レイたん終わったぁっ?」

「ええ、終わったわ」

 これ以上……時間を掛けると怪しまれる。直ぐに携帯をポケットにしまった。

「待たせて御免なさい……パンツ、返して」

「え? これは返さないよ」

 え、え、このままノーパンで過ごせって言うの? この鬼畜めが。

「じゃあ、もう眠いから寝るわ。戻ってもいい?」

「……そういうのは僕が指示することだから、自分から言い出すな」

「ごめんなさい、余りに眠くて……」

 私はふらふらしているの、という演技をした。

「あ、レイたんっ。シンクロ率下がってる? 直ぐに戻って休んで……」

 何を言っているのやら分からないが、ともかく私はなんとノーパンスカートのまま衣装ケースに戻された。中身が見えないように、必死にスカートの裾を引っ張って……。

 ミヤモトさんに、あれだけの言葉で事態が伝わっただろうか……。

 部屋は完全に真っ暗になった。ハヤトは相変わらずアニメを見ているようだった。

「ミズハさん……電話は……」

「ええ、出来ましたけど、後は神に祈るばかりです」

 ……しかし、神に祈るのは五分でよかった。

「和牛詰め合わせ御当選しました――っ!」

 玄関から異様に明るい声が響いてくる。

 はて、和牛? 

「え、本当っ!?」

 ハヤトが応募していたのか……。

 その後、玄関を開けた直後。

 どがーんっ、どがーんっ、どがーん……

 物凄い音がした。

「み、ミズハさん……もしかして……」

「ミヤモトさんっ!?」

 その後どたどたと部屋に入り込んできては、かしゃり、かしゃりとカメラで撮影しているかのような音がする。こっちの部屋のカーテンと襖もすぐに開けられ、衣装ケースに閉じ込められている私とイマムラさんを様々な方向から激写する。この男……。

「み、ミヤモトさんっ何を――!」

「待って、待って、あとちょっとだから。あと犯罪的なものある?」

「え。あの奥の冷凍庫に女の子の死体が……」

「あそう。どうも」

 そして、冷凍庫の中身をかしゃり、かしゃり、かしゃり。

 その後キッチンに戻ってもう一度かしゃり、かしゃり。

「ミヤモトさん!! 早く開けて下さいっ!!」

「ああ、悪い今すぐに」

 そう言って、ミヤモトさんは私とイマムラさんのケースを開けてくれた。

 ようやくに。

 それからイマムラさんのケースの排泄物を撮影していた。イマムラさんは所在なげに、顔を赤くして俯いている。

「ミヤモトさんっ!! 何なんですか貴方はっ。失礼でしょうっ!?」

「いや、まあ経験、経験」

「はあっ!?」

「あの、私シャワー浴びて、着替えてきますよ……ここでずっと糞尿垂れ流していたから気持ち悪くて」

 そう言ってイマムラさんはシャワーがあるらしい場所へそそくさと去っていった。

「酷いなあ、すーぐ助けに来てあげたのに。いや、しかし衣装ケースに監禁、なんてこんなことになっているとは思わなかったっ! 実に……」

 そこでミヤモトさん、はっと口を止める。

 どう考えても、実に愉快と言おうとしたとしか思えない。

「ミヤモトさん……面白がってますね……」

「いやー、そんなことはない。さあ、警察に電話しようではないか」

「ミヤモトさん、貴方私を嵌めたんですか?」

「えっ!!」

「だっておかしいじゃないですか、イシイシンゴっていう友達に紹介したって言うから来て見ればあんな変態の、しかも名前はハヤトだし。誰なんですかあれは。どういうことっ!」

「いや、まあそれはさ、警察がイマムラハヤトを逮捕して、事件の収拾がついてからゆっくり」

「ゆっくりって貴方……」

 ミヤモトさんは非常に気持ち悪いウィンクをしてから言った。

「僕のことは、貴方の友達ってことにしておいてください。お互い、ヘンなバイトで知り合ったっていうより、警察もごちゃごちゃ言いませんから。ね?」

 確かにコスプレのバイト、っていうのは恥ずかしい。

「じゃあ、この服を着て来たのはなんでかってことになるじゃないですか」

「ハヤトが無理やり着せた、ということにしましょう」

「そんなのが通るのかなぁ……。というかそこまでしてミヤモトさん、何を守りたいんですか?」

「え、守りたいなんて、そんな」

「怪しいなあ……」

 本当に怪しいことずくめだった。

 ここに来たタイミングも、写真を取りまくっていたことも、衣装ケースにそれほど驚いていない点も、冷凍庫の死体にさえそれほど驚いていない点も、全て全て全て、ミヤモトさんは知っていたかのような。

「とにかく、警察を呼んで事情聴取、僕との個人的な話は、後日ということで」

 ミヤモトさんはカメラを抱えて部屋を出て行った。

「あの、ちょっと何処に――」

「カメラ、近くのコインランドリーに隠してきます。警察に見つかったら押収されちゃうから」

「あ、あの――」

「どうかしました?」

「あの、出来れば近くのコンビニで―――女性用下着、買ってきてください」

 ……………。



 警察の事情聴取では、コスプレのバイトをしていた途中でハヤトに拉致され、そのまま家に連れ込まれた、ということにした。ハヤトは「レイちゃんが自分で来たんだよぉっ!」と言い続けたが、イマムラさんの証言もあって二人の人間を拉致監禁、一人の少女を拉致誘拐殺害した、という容疑が固まり逮捕された。その後のことは良く知らないが、ともかく終わったということだ。

 事件から一週間後、ミヤモトさんは私に今度はデジコのコスプレで、と言って衣装を見せてくれたがそれを街中で着ることなど出来るハズもなく、普通の格好にて喫茶店で会うことを決めた。一週間すれば、警察もこっちの動向など気にすまい、ということらしい。

「で、結局、何だったんですか? 私が渡された紙に書かれた住所と、間違い無かった。それなのに部屋に居たのはイシイシンゴではなく、イマムラハヤトという狂人。一体どういうこと?」

 ミヤモトさんはずずーっと紅茶を啜ってから、喋り始める。

「そこにはイシイシンゴなどという人間は住んでいなかったということです」

「え、何。じゃあハヤトが私を拉致すると踏んで、けしかけたんですか?」

 ミヤモトさんは一瞬変な上目遣いをして、それから頷いた。

「まあ、端的に言えばそうです」

「なんだってそんなことをっ!」

「彼が犯罪者だと知っていたからです」

「知っていたなら警察に通報すれば良かったでしょう!?なんで私を巻き込むんだよぅっ!」

「それが……僕がイマムラハヤトの犯罪を目撃したのが、盗撮している最中だったから……」

 は?

「いえね、隣の女の子の部屋とか、カーテン越しに盗撮してたの、それからカメラ動かして周りに面白い人間居ないかなーって見てたら、イマムラハヤトが男の頭を殴って気絶させてて、その後その男は閉じ込められたみたいだったから、おや、これは監禁か!? って思ったんだけど、イマイチ確証がもてなかったし、それに覗き見してて通報なんて出来ないよ。だってオレだって、一介の雑誌記者だよ? 雑誌記者が変態盗撮ってジョークにもならねえよ。だから、あいつのことを尾行して、いつも行くサテンとかチェックして、好きなアイドルからアニメやらを確認して、こりゃコスプレして可愛い子が来たら拉致するな、って踏んで――」

 どんっ!!!

「で、私をそんな危ない男のところに送りつけた、と?」

「いやいやいや、本当にありがとうございました、神様、仏様、ミズハ様。お陰でトップ飾る16面記事として、多少の修正は加えたものの、他には無いほどの良い写真を掲載出来、雑誌の売れ行き絶好調っ! いやー、本当に君のお陰だよ」

「………一発、ぶん殴っていいですか?」

「いやー、勘弁してよミズハちゃん。お給料は勿論払うから」

「お給料っ?」

「そう、これこそ怪しい奴のハートをズギュンっ! 新感覚バイトっ!」

「………で、幾ら?」

 ミヤモトさんは指を七本立てて見せた。

 全部あわせて10万、か……。

「ところで、ミヤモトさん。貴方のコスプレ衣装好きは、フェイク? ホント?」

 ミヤモトさんは「いやー」と言って曖昧に笑い、もう無いお茶を啜り上げた。

 そう、そうなんだあ。


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