降り出した雨
どうやって聖女宮に帰ってきたのかの記憶はない。
気が付けば私は一人で中庭に面した回廊を歩いていた。
頭の中では少女のお母さんが最後に口にした
「主人と離れ離れになったその時から、もうこの世では会えないと分かっていました」
という、諦めを含んだ冷静な言葉が繰り返し、繰り返し再生されている。
「形見を見つけて貰えて良かった」
「届けてくれてありがとう」
と、寂しげに笑う顔が消えない。
私に何が出来たかなんて思うのは傲慢なことだと分かっているけど、でも、でも。
私はふらふらと中庭に出ていた。
いつの間にか降り始めた雨が私の髪を、頬を、肩を濡らす。
さぁさぁと音も立てずに降ってくる雨は優しくて、全部洗い流してくれそうな気がした。
けれど、どれだけ濡れても心は晴れないし、洗われたりしない。途方にくれながら天を仰ぐ。もうそれしか出来なかった。
何もしたくない、どこにも行きたくない。ただ、ここでずっと濡れていたい。
「もう戻りましょう。これ以上濡れていては体を壊します」
すぐ後ろから静かな声がかかった。
けれど、答えるのも億劫だったから、私はその声を無視してずっと空を見ていた。
「ヤエカ殿」
ああ、雨粒が目に入るとちょっと痛いな。でも左目が酸に焼けた時ほどじゃないし、まあいいか。
「ヤエカ殿」
気持ちがざわざわするから名前を呼ばないで。放っておいて。
「ヤエカ殿!」
焦れたような声と一緒に、手首を強引に引かれた。
目を空からディナートさんへ移すと、彼は苛立っているようにも心配しているようにも見える顔で私を見ていた。
「手、痛い。離して」
「離すわけにはいきません」
「ずぶ濡れじゃないですか。戻らないと風邪ひいちゃいますよ?」
「その言葉、そっくり貴女にお返しします」
手は離してくれそうにないし、帰ってくれそうにもない。
私だって戻るつもりはない。
ディナートさんから、ふっと力が動く気配がした。途端に体を叩く雨が途切れる。
「ダメ。雨を遮らないで」
「しかし……」
「濡れたい気分なの」
彼の作った障壁に自分の力をぶつけた。すると障壁は霧散して、また柔らかい雨が頬を叩く。
ぽたぽたと頬を流れるのは冷えた雨粒だ。熱い雫なんて混じってない。──泣いてなんかいない。
「私のことは良いですから、もう戻ってください。みんな待ってますよ?」
「──私も濡れたい気分なんですよ。それで中庭に出たら、先客がいただけです」
見え見えの嘘。
「じゃあ、好きにすれば?」
「ええ、そうさせていただきます」
それきり会話は途絶えた。
降りしきる雨の中、時間が止まったように並んで立ち尽くす。はたから見たらきっとすごく滑稽な姿だろうな、と頭の隅で思った。
そうしているうちに、あたりはだんだんと暗くなってきた。あちこちの部屋で明かりが灯され始め、窓越しに暖かな光が漏れてくる。
あたりが薄い闇に包まれ始めたころ、私は空を仰ぐのをやめて俯いた。ずっと動かないでいたせいか、首が痛んだ。
びっしょりと濡れた髪からぽたぽたと落ちる雫が視界の端に見えた。
ずっと私の手首を掴んだままだったディナートさんの手に、小さく力が籠る。
「なじられたかったな……」
「ヤエカ殿?」
「お前のせいだ、お前が悪いってそう怒鳴られたかった。その方がずっと……」
ずっと気が楽だったよ。
「ヤエカ殿……」
苦しそうな、切なそうな声が私の名前を呼ぶ。
「先日、私はもう貴女に触れないと誓いました。ですが、これからあの誓いを破ります」
その言葉が終わるか終わらないうち、私の体は彼の腕にからめとられていた。
抵抗する暇もなくて、次の瞬間にはもう彼の胸に顔を埋めていていた。
耳のすぐそばで掠れた声が囁く。
「後で煮るなり焼くなり好きにしていただいて構いません。──こんな貴女をただ黙って見ているくらいなら、罰を受けた方がましだ」
雨に冷えた体に、彼の体温が少しずつ移ってくる。
また彼の優しさに甘えてしまいそうだ。これ以上甘えたらきっと戻れなくなる。分かっているのに。
「ヤエカ殿。強がらなくていい。ここには私しかおりません」
彼の言葉が、熱が、甘い毒みたいに私を侵食する。
「大丈夫。だから、どうか自分の心を殺さないで」
繰り返される優しい言葉。拒んでも拒み切れなくて、とうとう折れた。
「ディナ、トさっ……」
「頑張りましたね」
「でも、でもっ!」
「そんなに自分を責めないで」
ぎゅっとしがみつく私の頭を、彼はゆっくりと撫でる。それに合わせて、自分の中の固く張りつめたところがぽろぽろと剥がれ落ちていくようで、涙がこぼれた。
一度こぼれ始めたら後は止まらなくて、次から次へと涙だか雨だか分からないものが頬を滑り落ちていく。
「一人で背負えない荷なら、私も一緒に背負いますよ。だから、決して一人で苦しんではいけません」
──ともにこの世の災厄に立ち向かう一騎士として、私は貴女に誓いましょう。何があっても貴女を信じ、最後まで貴女と共にあることを──
ああ、そうだ。以前ここの訓練場で、そう言ってくれたっけ。あの言葉通り、最後まで一緒に戦ってくれるつもりなんだ。私が帰るその日まで、ずっと。
「ありがと……う」
彼の気持ちが嬉しい。
けれど、焼けるように苦しい。
甘えるのが怖くて、でも今だけは温もりに守られていたくて。
ほんの少しだけ、あともう少しだけと自分に言い訳をしながら、私は彼の腕の中にいた。




