反撃の痛み
――もうダメかも
逃げたい気持ちが、諦めに負けそうになって行く。
それを何とか振り払って、必死に考える。
何か。
何か、ない?
せっかく結んだ思考を片端から蹴散らすように、ディナートさんの手がふくらはぎを撫でた。それに合わせてくるぶしまでのスカートが膝の少し上までめくれ上がる。
「きゃ!?」
「ぼんやりしていると、手遅れになりますよ?」
他人事みたいに、からかいを含んだ声で笑う。
誰のせいで!
悔しくて唇を噛みながら睨んだその視線の先で、ディナートさんは相変わらず感情の見えない冷たい目で私を見つめ返している。
唇だけが笑みの形に吊り上がっていて、それはもうすでに笑顔と呼んでいい顔なのかも分からない。
何か抵抗する方法は? 武器は?
――!
武器!
そうだ! アレティ!!
(アレティ! ちょっとアレティ!! 起きてっ)
心の中でアレティを呼ぶ。気配が薄くなっているけど完全に消えてないから、うつらうつらしてるところに違いない。それなら呼び起こせるはず。
って言うか、完全に寝てたって叩き起こすわ!!
(アレティ! アレティってば!!)
――ソウ騒グデナイ
(聞こえてんなら早く来て! ピンチなのっ)
――ナラ、明確ナ意志デ呼ベ 斯様ナ中途半端ナ声ナド届カヌ
アレティの言わんとしてることは何分かった。
だって、この場は逃げ出したいけどディナートさんは傷つけたくない。そう言う迷いがいまだに消えないんだから。
(中途半端!?)
――如何ニモ
(え、じゃあ来てくれないの!?)
――イヤ、参ジルハ可能ダガ、構ワヌノカ? アレヲ傷ツクルハ必定
(そ、それは……)
ちょっと手加減してよ……と言う前に、私の右手に冷たい感触が現れた。反射的にそれを握り込む。
――此奴モ騎士ナレバ、コノ程度ノ斬撃ハ避ケヨウ
「アレティ!?」
――避ケラレヌヨウナ無能ナラ死ンデモ影響ハアルマイ?
「ま、待っ……」
止める間もなく右手が大きく薙いだ。
この勢いで振られた剣が当たったら、鎧を付けていない体は相当に大きな怪我を負うだろう。私の乏しい経験でもそれは分かる。
肉を切り裂き骨を断つ嫌な感触が右手に響いてくるかもしれない。それを覚悟してぎゅっと目をつぶった。
けれど、腕が振り切られてもその感触は一向に襲ってこなかった。その代わり、全身を抑えつけていた重さが消えていた。
弾かれたように上体を起こすと、ソファより数メートル離れた位置にディナートさんが片膝をついているのが見えた。
片頬から赤い血がぼたり、ぼたりと滴っている。出血量からして深い傷だ。なのに、痛みも感じていないのかのように平然と立ち上がった。
私に向かって一歩近づく。
「やっ! こ、来ないで!!」
言ってもきっと聞き入れてはもらえないだろうけど。
立ち上がりたいのに、足に力が入らない。私はソファに座り込んだまま、アレティを握りなおした。
剣を持つ手も、はだけた服を押さえる手も、震えが止まらない。
当然ながら彼に向けた切っ先が小刻みに揺れて定まらなかった。それを抑えつけるため柄を握る手に目いっぱい力を込めた。こんな状況で勝てる自信はなかったけど、それでも諦めたくない。
「それ以上近寄ったら……」
歩み寄ろうとしていた彼が、ふっと満足げ笑って足を止めた。
「――よくできました。それでいい」
この人は何を言ってるの?
この状況でそんな笑顔を目にすると思わなかった。見間違いなんじゃないかとまじまじ見つめたけど、その顔に浮かんでいる笑顔に変化はない。
「ディナートさ、ん?」
今まであんなに冷たかった彼の目が、いつも通りの穏やかな色に変わっていた。その変貌の速さに何か裏があるんじゃないかと疑った私は、切っ先を下げることなく彼の名前を呼んだ。『どういうことですか?』とそう言う意味を込めて。
「そうしてすぐに警戒を解かないのも正解です」
それは答えになっていないと思うんだけど。
「ディナートさん?」
「ヤエカ殿。貴女は貴女の世界へ帰りたい。そうでしょう?」
私は訝しみながらも、小さく頷いた。
「貴女の国で銀の瞳は異端なんですよね? だが、そのことを障害とも思わないほどに貴女は故郷に帰ることを切望している。ここまでは間違いありませんか?」
「……はい」
「なら、ちゃんと覚悟を持ちなさい。人を傷つけ、殺してでも信念を貫く覚悟をね。それが出来なければ、この先、我々は貴女を守り切れないかもしれない」
目は穏やかだけど、厳しい言葉が彼の口からこぼれる。
人を傷つけ、殺してでも……?
――フン。喰エヌ男ダナ。
アレティが面白そうに笑い声を立てている。
「今の私のように、旧知の人間が豹変することだってあるんですよ? そう言うのが一番性質が悪い。人を信じるのは良いことです。が、油断をするのはまた意味が違う。分かりますね?」
念を押されるように言われた。
「考えなさい。生き残るために、帰るために。悔しいですが、あの男の言うことは正しい」
考える? 自分の頭で?
今までだってずっとそうして来たつもりだけど、それじゃ足りないと?
「今までだって、自分で考えて行動してきたつもりです。これ以上、どうしろって言うんですか!」
止まっていた涙がまた湧いてきた。
「誰も信じるなって言うんですか。誰も……」
「過信するな、と言っているんです。私を過信して不用意に部屋に招き入れて、それから貴女はどんな目に遭いました?」
「そ、それは……」
「確かに貴女は強い。だが、万能ではないのです。術を封じられ、アレティを呼ぶ意志さえ奪われたら、赤子も同然。権力のある場所には化け物のように老獪な者が蔓延っています。覚悟もなく飛び込めばどうなるか明白でしょう」
言い返せなかった。
今までのあれは全部警告なの? いつまでも呑気でいる私に身をもって分からせるため?
さっき『嫌なら殺せ』『抵抗しろ』と私を挑発したのは、ヒントのつもり?
「で、でも、これはあんまりです。こんな、こんなっ」
「――その点については弁解のしようもありません」
ボロボロ零れる涙のせいで霞む視界の中、ディナートさんが膝を折る。身に着けていた短剣を膝前の床に置き、私を見上げた。
「貴女の気が済むよう、いかようにも処分なさってください。大丈夫です、後はカロルが上手くやってくれるでしょう」
覚悟を決めた穏やかな声で、そんな嫌な言葉を紡ぐ。
死ぬつもりであんなことを仕掛けてきたって言うの? この人は……!
猛烈に腹が立った。
こんな一方的な話ってない。ありえない!! 最低だ!!
「ディナートさん、ちょっと立ってください」
「ですが……」
「いいから立って!! それからその頬の傷、いますぐ治癒して」
「それは……」
うるさい。黙れ。言う通りにさっさとやれ!
そんな気持ちを込めて睨めば、彼は不思議そうな顔をしながらも頬の傷を消した。
ちゃんと消えてるかどうかも確認したかったので、私はアレティをサイドテーブルに置いた。
――我ヲ手放シテ良イノカ?
(ピンチになったら笑ってないで飛んできてよ?)
からかい交じりのアレティにそうお願いする。完全にこの状況を面白がってるわ。
――承知
(本当か、それ!?)
アレティは私の突込みには答えず、それきり沈黙した。
水差しから水を汲んで、タオルを浸す。ドレスが落ちないように慎重にタオルを搾って、彼の目の前に差し出した。
「ヤエカ殿?」
「顔、血だらけです」
ああもう、このドレス鬱陶しい。
まさか彼に背中のリボン結んでなんてお願いするわけにもいかなし、自分じゃ届かないし、人を呼ぶわけにもいかない。
そもそも、全部この人のせいだし! ああもう腹立つ!!
「早く拭いちゃってください!」
呆然としてる彼をイライラしながら促すと、彼は雰囲気に呑まれたように不思議な顔をしながら顔の血を拭った。
黒い軍服の下に着ている白シャツの襟にもべっとりとついているのが見えた。それは私が彼を傷つけて流させた血だ。それに思い至って背筋がぞわりと粟立った。
綺麗に拭われた彼の頬を確かめれば、もう薄い痕すら残ってない。
「よし」
「ヤエカ、殿?」
「私の好きにしていいって言いましたよね? ――歯を食いしばってください」
「は?」
警告は先にしたからね。口の中を切ろうが何しようが知らんわっ!
呆気にとられている彼の頬を、思いっきり引っぱたいた。
ばちーーんと小気味良い音が部屋に響いた。
叩いた手がじんじん痛んだけど、それより怒りの方が強かった。
「ディナートさんの馬鹿!! 馬鹿!!」
あんな犯罪まがいのことして、それが全部私に対する警告だったとかふざけんな!!
揚句に死んでも構わなかった、みたいな態度とるし!!
何でこんな馬鹿げたことに命までかけちゃうかな。悔しい。すごく悔しい。
ディナートさんの命はそんなに軽くないのに。とてもとても大事なのに。
「申し訳ありません」
無理矢理されるのはすごく嫌だったけど、でももしかしたらディナートさんも私のことを好きでいてくれるのかもしれないって。心の片隅でそう思っていたのに。それすら嘘で。その上、私にディナートさんの……好きな人の命を断てだなんて。それがどれだけ残酷なことか、この人は全然分かってない!!
「あ、謝ったってっ! ゆる、さな、いんだ、から!」
泣いてる場合じゃないのに。もっと文句言わなきゃ気が済まないのに。
「こわっ、怖かった、のに! やめて……って、言った、のにっ!!」
「申し訳ありません」
「す、好きな、のにっ。何でっ、何でディナ、トさ……を殺さっ、なきゃ、いけない……の!?」
「――ヤエカ殿?」
「ば、ばかっ!! 嫌いっ!! ディナー、トさんなんてっ、大っ……嫌い!!」
「はい……」
色んなことが頭の中でぐちゃぐちゃに渦巻いてて、自分でも何言ってるのか分からなくなってきた。好きって言った直後に嫌いって、我ながらアホか。
――あ。どさくさに紛れて好きとか言っちゃった。頭の隅でそんな呑気なことまで考えたりもした。
左頬を赤く腫らしながら、途方に暮れた顔で私を見下ろすディナートさんが、そろりと手を上げた。その動きにさっきの記憶が蘇って、体がびくりと跳ねる。
「触らないでっ!」
一歩後ずさった私に、彼は伸ばしかけた手を途中で止め、拳を握ってそっと下ろした。
「ごめんな、さい。私、いま、冷静に、なれな、い……から……。もう、出てって」
「分かりました。――失礼します」
俯いた視線の先で、ディナートさんのつま先が向きを変えた。
何か酷く嫌な予感がして、私は弾かれたように顔を上げた。
「ディナートさん!」
彼の背に声をかけると、彼は足を止め肩越しに振り返った。
「何か?」
何か言わなきゃ。何か言わないと、取り返しのつかないことになる。理屈じゃなくてそんな予感がした。
「明日の、朝にっ……なっ、たら、落ち着き、ます。その時に……ちゃんと、話を……」
「――分かりました。また、明日」
長い沈黙の後、彼はそう言った。そして今度こそ振り返らないで部屋を出ていった。
彼の落とした長い沈黙が何を物語っていたのか、私には分からない。けど多分、もう大丈夫。今までと変わらず、ディナートさんは明日も私のそばにいる。そんな気がした。
今日はもう、何も考えずに眠りたい。
のろのろとした緩慢な動作で最低限の寝支度を整えて、ベッドに倒れ込んだ。
アレティを胸に抱いて、泥のような眠りに落ちていく。




