太陽の裏側
侍女さんに手伝ってもらって着替えを終えた私は慌てて部屋へ向かった。ディナートさんが待ってるかもしれない。
それほど遠くないし、道順も複雑じゃないからとお供を断って、私は失礼にならない程度の早歩きで廊下を進む。
途中に一つ渡り廊下がある。本館とゲスト用の離れを繋ぐ廊下だ。
両脇は見事に手入れされた庭園で、今は夜の闇に半ば沈んでいる。あちこちに灯された明かりに、花がぼんやりと浮かんでいる。
夕方に見た華やかさも良いけれど、夜も幻想的で綺麗だ。後でゆっくり見に来ようかな。今はディナートさんと会うほうが大事だ。
横目でちらちらと眺めながら、歩調を緩めないで通り過ぎようとしていたところに声が掛かった。
「そんなに急がれて、どうなさいました?」
「――っ!!!」
私は咄嗟に飛び退いて、声のした方向に向き直った。
声は視界の利かない左側から聞こえた。悪意のないのんびりした声だったけど、それでも無防備になりやすい方角から声がしたら、本能的に警戒心が沸き起こる。
館内だからとアレティを置いてきたことを後悔した。最近のアレティは力を使い果たしたからなのか、呼んでも反応しない事が多い。
絶体絶命のピンチには飛んで来てくれるとは思うんだけど、確証は持てない。
「どなた、ですか?」
いつでも逃げ出せるように身構えながら訊いた。
「驚かせてしまったようで申し訳ありません。テリオです、ヤエカ様」
「テリオ、さん?」
声は庭の暗がりから聞こえた。そこから、人影が立ち上がった。ゆっくりとこっちへ向かってくる。近づくにつれて廊下に灯された光でその顔が露わになる。
確かにテリオさんだ。
私はほっと胸をなで下ろした。
「びっくりしました」
「失礼いたしました。お姿が見えたので、声をかけずにはいられませんでした」
彼は廊下と庭を隔てる柵をひらりと飛び越えて、私の目の前に立った。
テリオさんがじっと見下ろしてくるので、居心地が悪くなった私はそっと後ろに下がった。
その動きに気付かないはずないのに、テリオさんは気を悪くした素振りもなく、綺麗な微笑を浮かべている。
「よくお似合いですね」
「あの、このドレスは……?」
「ルルディがここにいる時分に作らせた物なのですが、一度も袖を通すことなく聖都に上がってしまいましてね。古いもので申し訳ありません」
古いなんて思わない。
ドレスには皺もなければ、色褪せもない。そして優しい花の香りが微かに漂っている。主であるルルディがいなくても、たとえもう袖を通すことがなくても、大事に大事にしまわれていた証拠だ。ルルディはここで沢山愛されて育ったんだろう。ドレスひとつからもそれが分かった。
そうやって保管されていたドレスを誰が嫌だなんて思う?
それよりむしろ気後れする。
「あの、私なんかが着てしまって良いんですか?」
「誰にも着られずにしまい込まれるより、貴女のような可愛い方に着ていただいたほうがそのドレスも喜ぶでしょう」
何でこの人は歯の浮くようなセリフをぽんぽんと口にするんだろう!
暑くなった頬は湯上りだってことで誤魔化せると良いんだけど。
固辞するのも失礼だし、押し問答になりそうだったので、このドレスは有難く着させてもらうことに決めた。
「あ、ありがとうございます。遠慮なく着させていただきます」
小さくお辞儀をすると彼は満足そうな顔で頷いた。
急いで戻るつもりだったのに、だいぶ時間を食っている。そろそろ彼との会話を切り上げる頃合いだ。
「私、そろそろ戻らないと。ディナートさんと……」
打ち合わせがあるんですと続けようとしたんだけど、急にテリオさんが私の手を取ったので、驚いて言葉が止まってしまった。
「ヤエカ様は、彼をとても信頼していらっしゃるのですね」
当たり前だ。ディナートさんは私の先生なんだから。
「ですが……彼は本当に貴女が信頼するに足る人物なんでしょうか。彼は魔族です。つい先日まで我々が忌み嫌っていた……」
「私は異世界人です!」
彼の言葉をそれ以上聞きたくなくて、言葉を重ねて遮った。
私を心配して言ってくれてるのかも知れない。
それは分かる。分かるけど。
無性に腹が立った。ディナートさんのことを何も知らないくせに。
彼に取られたままの手を力任せに引き抜いた。それほど力を入れていなかったのか、その手はあっさりと外れる。
「魔族が忌み嫌われる存在だなんて認識は、私にはありません。彼はルルディとソヴァロ様からの命令を受けて私に付き添ってくれている人です。テリオさん、それの彼を信用ならないと言うなら、それは突き詰めればルルディへの侮辱ではありませんか?」
「――人とは間違いを犯すものです。それは聖女とて例外ではありません」
彼を睨み上げる目が、熱い。
この人には何を言っても通じない。関わり合うだけ無駄だ。
「急いでいますんで。失礼します」
彼を置き去りにして、私は離れへと歩き出した。
「お待ちください」
低い声と共に、また手を取られた。歩き始めたところを引っ張られたので、バランスが崩れてよろめいた。
その仰向けに倒れそうになった体を抱き留めるように、彼の腕が背中に回った。その瞬間、彼の囁きが耳を掠めた。
「貴女の左目も守れなかったような男、ですよ?」
からかうような笑いを含んだ声だった。
「な!? なぜそれを」
左目が見えない、なんて彼には言ってない。
「ああ、やっぱり見えないんですね」
端正な顔がにやりと歪んだ。
カマをかけられた!? あっさり騙された自分の馬鹿さに腹が立つ。
「どうしてわかったか不思議ですか? 簡単ですよ。彼は必ず貴女の左側に立つ。彼は右利きでしょう? なら、護衛対象は左に庇うのが普通です。じゃないと剣を抜きにくいですからね。それなのに彼はあえて左側に立つ。その理由は? 貴女が体の左側に何らかの弱点を持っているから。貴女は左足も左手も健在だ。なら残るはこれだけ」
そう言いながら彼は自分の左目を指さした。
「実はそう思ったものの半信半疑だったんですよ。ですが、先ほど貴女に左側から声をかけたら過剰に驚いていらっしゃいましたね? それで確信いたしました」
彼の話は毒だ。じわりじわりと私の胸を蝕む。
「左目を失った貴女は、それを庇ってくれる彼に頼り切りだ。ああ、それを責めているんではありません。不安を和らげてくれる存在に依存してしまうのは仕方のないことです。そうでしょう?――ですが、考えてみてください」
私の耳元に彼が口を寄せた。振り払って逃げ出したいのに、両肩に置かれた手がそれを許さない。
「は、離し……」
「ねぇ、そこまで貴女を甘やかして、自分に依存させて、彼は一体なにをしたいんでしょうね? 彼の言うことだけを聞く傀儡にしたいんですかね」
「あなたは……何を言ってるんですか!?」
ルルディとよく似た端正な顔を怖いと思った。背中を冷たい汗が滑り落ちる。
「ほら。現に貴女は私の言うことも聞こうとしない。彼の言うことが正しくて、他の人間が言うことは全て間違ってる? ヤエカ様」
「……いい加減どいてください」
次に彼が何か動いたら吹き飛ばす。人に向かって力を放ったことはないけどそう決めた。
「まぁ良いでしょう。今日のところはこれで引きます。ですが、私が言った事を、今一度よく考えてみてください。自分の頭で考えることを放棄した人間に訪れるのは非業の最期のみ。今ならまだ間に合いますよ。貴女さえよけれは、私に彼の呪縛を断ち切るお手伝いをさせて頂きたい」
彼はそれだけ言うと満足したのか、私の肩から手を離し本館の方へと去っていった。
誰がそんな口車に乗るか!
彼の背中を睨みながら、私は心の中で悪態をついた。
ディナートさんは、そんな人じゃない。
絶対。
不安になったわけじゃない。だけど私の心のどこかに小さなひっかき傷が出来たような気がした。




