全部嘘ならいいのに
声が枯れる頃、ようやく涙が止まった。体中の水分を出し尽くしたんじゃないかってくらい、たくさん泣いた。
長時間泣いていれば当たり前なんだけど、目が腫れすぎて半分も開かなくなっていた。たぶん鏡を見たら、目を背けたくなるくらい酷い顔に違いない。頭も痛いし、ぼーっとしてる。泣き疲れるなんて、子どもの頃以来だ。
「落ち着きましたか?」
尋ねられて、私は俯いたまま頷いた。ちょっと今、この顔を晒す勇気はない。
「寒くは?」
今度は首を横に振る。
ディナートさんにしっかり抱きしめられてるうえに、マントにくるまれてるんだもん。どちらかと言えば暖かくて気持ちいい。
彼に優しくしてもらう時や、距離が近くなる時はいつもドキドキするのに、今日に限って言えばドキドキするどころか、とても安らぐ。ずっとこのままでいたいなって思うくらいに。
「お話を聞かせてくださいますね?」
「はい」
掠れた声しか出ないけど、私は午前中にあったことを彼に話した。
あの少女の父親らしき人の遺品を見つけたこと、視察の時になぜディナートさんが浮かない顔をしたのか分かったこと、そして自分がどうして勇者なのか疑問だと言うことを洗いざらい。
最後まで黙って私の話を聞いてくれた彼は、聞き終わると私の耳元で囁いた。
「なぜ貴女が勇者に選ばれたのか、それはアレティしか分かりません。いや、もしかしたらアレティ自身も分かっていないかもしれませんね。でも私は、貴女が懸命に勇者としての務めを果たそうとしているのを知っています。誰よりも近くで見てきたのですから」
確かに再召喚された初っ端から、ディナートさんがいつも一緒にいてくれた。思い出しても顔から火が出そうなくらい、いろんな醜態も晒してきた。
それでも、見捨てずに根気よく付き合ってくれて、今だってこうして一緒にいてくれてる。
「貴女からしたら理不尽なことも多かったはずです。なのに怒りもせず逃げ出しもせず戦おうとしている。我々、この世界に生きる者のために。そんな優しい貴女だから、私は全力で支えようと思ったんですよ」
違う。優しくなんてない。
「優しいですよ。でなければ、この世界の人間のために、こんなになるまで心を痛めることもないでしょう」
「悲しいふりをしてるだけかも」
「そんな器用なことが貴女に出来るとは思いませんが?」
くすりと笑う気配がした。
「ディナートさん。私、戦うのが怖いです。本当は今すぐここから逃げ出したいです。こんなんじゃ……」
「命を賭して戦うのが、怖くない人なんていませんよ」
「ディナートさんも?」
「ええ、もちろん。――と断言したいところですが、貴女に幻滅されては悲しいので、内緒ってことにしておきます」
それ全然内緒になってないんじゃないの? つい笑っちゃった。
ディナートさんが腕を解いて、私の両肩を掴む。温もりが遠ざかって、彼の腕の分だけ距離が出来る。寂しいと思ったのは一瞬で、私は自分の顔の状態を思い出した。
今の私の目は、顔は!!! 真正面からに視線に耐えられない仕様なんですが!!
慌てて顔を背ける。少しでもディナートさんから顔が隠れるように。
「何でそんなに顔を背けるんですか?」
「え? いや……その、ねぇ?」
察してくださいよ!
心で念じても、残念ながら通じなかった。「失礼」と言う声とともに顎を掴まれて、くいっと正面に戻された。
「気休めにしかならないかもしれませんが、どんな時もそばにいます。貴女が核を壊すその時も、ね」
「でも、ディナートさんは、副団長で……」
私のそばにいたら、副団長としても仕事が滞るんじゃないの?
「今は貴女の世話役が最優先事項になっておりますからご安心を。ちゃんと調整はつけてあります。私の部下たちはとても優秀ですから支障はありません。ついでにこういう時ぐらい団長にも団長らしい仕事をしていただきましょう」
それに、今現在の副団長としての仕事は妖魔討伐関連が主だし、それは私の世話と被るところが多いから、何の問題もないと言い切る。
「だから、大丈夫。必ず貴女のそばに」
不意に彼の顔が近づいた。何が起こってるのか頭が理解しないうちに、右のまぶたに暖かいものが触れた。次いで左まぶたにも。
え? 今のって……。キス!?
声もあげられないでいるうちに体が離れて、私は楽しげに笑う彼の顔を呆然と見上げた。
「な? な……なに、を」
「貴女の見たままですが?」
「どう、して?」
「さぁどうしてでしょうね? ――そろそろ部屋に戻りましょうか」
返事をする間もなく、腕を引かれて立たされた。自分で歩けるのに、ひょいと抱き上げられる。
「自分で歩けますから!」
言っても彼の足は止まらない。一歩一歩進むたび、鎧同士がぶつかる音がして、何だかやけに生々しい。
「ディナートさんってば!!」
「何と言われようと下ろしませんよ。貴女のその顔を、他の者に見せるなんて耐えられません。人払いはしてありますから、人目につくことはないと思いますが。念のためです」
「あ。そうか。そうですよね。士気に関わりますよね。ごめんなさい」
勇者が泣きはらした顔してたら、示しがつかないどころか、皆が不安になるものね。うっかりしてた。
「んー。そう言う意味ではないんですけどね。まぁ、いいでしょう。とにかく、私以外にそんな無防備な顔を見せてはいけませんよ」
私の部屋の扉の前で、そう言いながら私を下ろした。少し平衡感覚がおかしくなっていてよろめく私を彼が支えて、しっかりと立たせてくれる。
ねぇ、『そう言う意味じゃない』ってなに? じゃあどんな意味なの? まさか? いや、それは違うよね。私の勘違いだよね。
甘い声で思わせぶりなこと言われたり、(まぶただけど)キスされたり、抱き上げられたり、今みたいに腰を抱かれたら、誤解しちゃうじゃない。ディナートさんはずるい。
腕を突っ張って離れようとするのに、それすら許してくれなくて。むしろ、腰に回った腕にさらに力がこもった。どうやったらこの腕から逃げ出せるのか、悩む私の頬を、空いたほうの手がそっと包んだ。
「こんな風に可愛らしい顔を見るのは、私だけの特権。よろしいですか?」
私の髪を撫でる指は優しくて繊細なのに、彼の瞳が剣呑な色を帯びてきらりと光った。
泣きつかれて疲れた上に、さっきの彼の言葉の意味がよく理解できないのに、頬だけがどんどん熱くなっていく。
どうしていいか、何を言ったらいいか分からなくて、熱い頬を持て余しながら狼狽える私を、しばらくじっと見下ろしたディナートさんは、ふっと小さく笑って腕を解いた。
「今日のところはこれで良しとしましょう。返事はまた今度。さて。少しお休みください。その目の腫れが収まるまでは絶対に部屋からは出ないでください」
動揺が収まらなくて声も出ないので、首を縦に振って答えた。
「夕食後、作戦会議があります。それまでには何とか治していただかないといけませんね。後で布と水桶を持ってきますから、それで冷やしてください」
他の人が来ても絶対に扉を開けないように、と念を押して、ディナートさんが立ち去った。
半日で色々あり過ぎて、私の許容範囲を超えてる。このまま強制終了していいかな。いや、ディナートさんからタオルと水を受け取るまでは……起きてないと。
ベッドに倒れこみたい衝動をこらえて、彼を待つ。
窓から外を見れば、今の状況が全部嘘みたいにのどかだ。世界が妖魔の脅威に晒されてるなんて全部全部嘘ならいいのに。
ディナートさんはすぐに戻って来て、扉の前で私に水とタオルを渡すと、仕事に戻るからとすぐに踵を返した。
「待って!」
私の声にディナートさんは足を止めて、ゆっくりと振り返った。
「全部終わったら、私、あの子のところへ行って、お父さんのことちゃんと話します」
他の誰でもない。私があの子に告げなきゃいけないことだと思うから。でも、ひとりで行くのはやっぱり怖い。
「一緒に行ってもらえますか?」
ディナートさんは最初びっくりした顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「ええ。喜んで。一緒に行きましょう」
「はい! ありがとうございます、ディナートさん!!」
絶対生きて帰って、あの子に会わなきゃ。
例えあの子から嫌われても、憎まれても、罵られても。それが彼女に対して私が出来る精一杯のことだから。




