幕間劇:二人の近衛騎士団長(下)
タイトルを幕間劇としましたが、本編と繋がっております
セラスとアハディスが落ち着いた先は、『あかつき亭』と言う名の居酒屋である。
まだ客もまばらな時間だったため、席は選び放題だった。二人が選んだのは店の奥近くの隅のテーブル。申し合わせたわけでもないのに、その席を選んだのは、人目に付きにくい位置のわりに店内が良く見渡せ、なおかつ店の入口が良く見えるからだ。
「くっそ。まだ耳の奥が痛ぇぞ……まったく」
耳朶の後ろ辺りを指で揉みほぐしながら、アハディスがぶつぶつとこぼした。
テーブルの向かい側では、腕を組んだセラスが、ふんと鼻を鳴らす。
「貴殿が悪い。哨兵の身ぐるみを剥ぐだの、そのうえ私用で兵を使うなどあってはならぬことだ。そもそも軍とは……」
「ああ、分かってるって!! ――はぁ……お堅いことで」
長くなりそうなセラスの説教をアハディスが遮った。話を切られたセラスはまだ何か言いたそうに口をぱくぱくとさせたが、酒場での説教は無粋と思いなおしたのかそれ以上何も言わず、黙って店内の様子をぐるりと見まわしている。
木製の丸テーブルと椅子。それが十五ほど。まだだいぶ席に余裕があるが、ほどなく満席になるのだろう。
店内奥のカウンターの向こうが厨房になっている。何かを煮込んでいるいるのだろう。かぐわしい匂いが漂ってくる。
(そういえば、ここの料理は美味いと言っていたな)
セラスはふと部下から聞いた話を思い出した。凝った料理を出すわけではない。むしろ質素と言うべきほどに素朴なのだそうだが、それが良いのだと言う。
漂ってくる匂いに胃が刺激されたのか、急に空腹を感じ始めた。
窓から洩れ来る光はもうすっかり夕焼けの赤だ。その光も徐々に弱まってきている。
給仕の娘が客のいるテーブルの上のランプに明かりをつけ始めている。きびきびと動く彼女の動作につられて、赤いスカートがくるくるとよく回る。まるで赤い花のようだ。
セラスとアハディスの座るテーブルにも娘がやって来て、ランプに火を灯す。
「注文をしたいんだが、構わないか?」
「何にします? 今日のおすすめは塩漬け豚と野菜のごった煮なんですけどね。鶏肉を団子にして揚げたやつも良いですよ!」
セラスが話しかけると娘はにこやかに笑った。その笑顔があまりにもあどけないので、こんな娘に酔客の相手をさせても大丈夫なのかと不安になる。
が、彼女の手慣れた様子を見るに、かなり長いこと務めているのだろう。酔客のあしらいなど慣れたものなのかもしれない。
「両方貰おう。――今日は鶏の香草詰めはないのか?」
「ありますよ。うちの看板メニューですから! 丸ごと一匹お持ちしますか? それとも適当に切り分けて?」
「丸ごと持ってきてくれ」
「おいおいおいおい! 飲みに来て何で酒より先に食いもん注文すんだよ! まず酒だろ酒!」
割って入ったアハディスが葡萄酒を注文し、そのあとまたいくつか料理を頼み、給仕の娘がテーブルを離れた。
ほどなくして、テーブルには料理が所狭しと並んだ。
二人は酒がなみなみと注がれた杯を掲げ、それをあおる。乾いた喉が潤い、程よい酸味がますます食欲を増進させる。暫くはお互い口数も少なく、目の前の料理を堪能することに没頭した。
アハディスもセラスも上流階級の人間である。本来なら街の片隅の居酒屋になど足を運ぶこともない存在だ。だが、型破りなアハディスだけでなく、セラスも妙に馴染んでいる。
「セラス殿はよくこういう場所に来るのか?」
「いや。――それが何か?」
「随分と慣れているように思えてな」
「ああ、それか」とセラスは得心がいったように頷いた。
「子供の頃にな、剣の師匠と共に武者修行にでていたことがあってな」
「はぁ?」
セラスは料理から一瞬たりとも目を離さず、事もなげに答えた。逆にアハディスはぎょっとして、食べかけの肉団子をポロリと口から落とした。
「あんた、貴族だろ? それもいわゆる大貴族のご令嬢だろ? 武者修行ってなんだよ!?」
「お飾りの騎士になりたくなかっただけだ」
驚かれ慣れているのかセラスは涼しい顔で、塩漬け肉を葉野菜に包んで頬張っている。その仕草は豪快だが、見苦しくはない……むしろ美しいと言えるのだが、貴族のそれとはかけ離れている。
もの凄い量の料理を、もの凄い速さで口に運ぶセラスの姿は、庶民のそれと何ら変わらない。聖女の隣に控え、まぶしいほど高潔な騎士然とした彼女と、いまアハディスの目の前で飾らず美味そうに料理に舌鼓を打つ彼女と。その落差が面白い。アハディスは頬杖をつきながら彼女を眺めた。
よくよく見れば彼女の手は傷だらけだ。綺麗な顔、均整の取れた肢体。傷だらけのその手だけが異質だ。だが、それで彼女の魅力が損なわれたわけではない。
むしろアハディスの目には好もしいものとして映っている。
「ふぅん」
「なんだ、アハディス殿。言いたいことがあるなら、はっきり言え。貴殿らしくもなくて気持ち悪いぞ」
セラスはそう口に出してから、しまったと思った。いくら見つめられるのが照れくさいからとはいえ、気持ち悪いは少し言い過ぎたか、と。
しかし、言われたアハディスは気にする気配もなく、楽しそうに彼女を見ている。――ますます居心地が悪い。彼女は気を紛らわすために酒をあおった。いつもより少しペースが速いとは思ったが、もともとなかなか酔わない性質のため彼女は気にすることもなく、杯を重ねた。
あかつき亭は混雑する時間を迎え、喧噪も最高潮に達していた。
あちこちから湧き上がる陽気な笑い声に小さな声などかき消されてしまう。その喧騒をものともせず、セラスは目の前の男に食って掛かる。
「おい。聞いているか、アハディス殿!」
だん! っと杯をテーブルに叩き付ける。
「聞いてるっつーの。しつけえぞ」
アハディスがうんざりしたように、天井を仰いだ。だらしなく椅子に腰かける姿は完全に酔漢のそれだが、この男には妙に似合っている。
セラスは彼と対照的で、姿勢を崩すことなく背筋を伸ばして腰かけているが、完全に目が据わっている。
「私はな、可哀想でならぬのだ。ヤエカ殿は本来もっと快活なお方なのだ。それがあのように思い詰めておられる」
「そりゃあよ、『世界の命運はお前にかかってる』なんて言われちゃあ思い詰めもするだろうさ。俺たちに出来ることはあの子が使命を果たして、元の世界に帰れるように手伝うことだけだ。そうだろう?」
諭すアハディスの声はいつになく優しい。
「貴殿は悔しいと思わないか?」
「ん?」
「何の罪も咎もない、この世界に縁すらなかったあの子に我々はすべてを押し付けるんだ! あんな優しい子に――戦を知らぬ無垢な子に、戦えと言うのだぞ」
吐き捨てるようにそういうと、もう一度セラスは酒を一気にあおった。空になった杯をまた叩き付けるようにテーブルに置く。
その様子をじっと見ながら、アハディスが低く呟いた。
「悔しいさ。悔しいけどな。これしか今のところ道がねえんだ。あんただって分かってるだろう」
「分かってる! だが!」
「もういい。それ以上言うな。言うんじゃねえ」
感情のままに愚痴をこぼしていたセラスがぐっと黙った。アハディスがいつになく真剣な顔で彼女を見つめている。
「おたくの聖女殿や我が主は、俺やあんた以上に悔しい思いをしてなさる。そうだろう?」
「そうだな。すまぬ。失言だった」
今までの激昂が嘘だったかのように、セラスが小さくなった。
「まぁあれだな。今日はお互い酒が過ぎた。そういうことだ。そろそろ出るか」
「そうしよう」
二人は酔いの見えないしっかりとした足取りで立ち上がった。
店の外に一歩でも出れば、あれほどうるさかった喧噪も一気に遠のく。
酒と料理、人の汗とランプに使う油の匂いが入り混じる独特の空気を吸っていた二人にとって、夜気にしっとりと濡れはじめた空気は驚くほど澄んでいて美味かった。
知らず知らずのうち、大きな深呼吸をし、どちらからともなく北へ向かって歩を進めた。
空には見事な満月がかかっている。
月明かりが煌々と降り注ぎ、地に影が出来るほど明るい。
その月明かりの中を二人は他愛もないことを言い合いながら、歩いた。
道の中ほどまで進んだ時だ。何気なく見上げた夜空に――正確には空に浮かんだ望月の中に、黒い影が一つ見えた。
「おい」
先にその影に気付いたアハディスがセラスに短く声をかけた。その声に滲んだ真剣な色に反応したセラスもすぐに彼の視線の先に目をやった。
月を横切った影は真っ直ぐに北を目指している。
「あれは?」
「おそらく、うちの者だ。こんな時間に飛ぶなんざ、よっぽどのことだ。――おい、急いで帰るぞ」
言うが早いか、アハディスの背に虹色の翼が現出した。少し赤みを帯びてキラキラと光っている。
セラスがその見事な翼に息を飲んで固まっていると、アハディスは小さく舌打ちして彼女の細い腰を抱いた。
「わ! な、何をする」
「何にもしねえよ。走るよりこっちのほうが早いだろ。暴れると落とすぞ」
その一言で、セラスがぴたりと動きを止めた。
「もう暴れるのはおしまいか?」
「落とされたのではたまったものではないからな。すまん。頼む」
「なぁに。自分が戻るついでだ。構わんさ」
にやりと笑うとアハディスは翼を大きく羽ばたかせた。ゆっくりと優雅な動作でひとふり。それだけで二人の体がふわりと宙に浮く。その慣れない感覚に、セラスは無意識のうちにぎゅっとしがみついた。
「役得、だな」
にやりと笑ったアハディスの声は、緊張しているセラスへは届かなかった。
「しっかり捕まってろよ!」
「わ、わかっ……っつ!!」
急加速に驚いたセラスだが、かろうじて悲鳴は上げずに済んだ。その様子をちらりと見たアハディスは何も言わず、ただ彼女を抱く手に力を込めた。
事態は動こうとしていた。




