起動
「ったっだいま~」
快活な声と共に、玄関の扉が開く音がした。特に重々しい音などは響かず、軽く開いたところを見ると、今日は泥酔はしていないのであろう。ストレスにはアルコールが一番、と、駄目人間まっしぐらの台詞をは吐いたこともあるうちの母親は、何かあると酒を飲んでくる。時には付き合いで、時には自棄酒で、時には趣味で。どれにしろこちらには迷惑千番に変わりないのが残念なところだ。
「おかえり」
「お帰りさないませ」
それぞれ異なる声がその者を出迎えた。俺はリビングで、女性は洗い物のために台所で。ギシギシと言う古い家特有の木の軋む音が聞こえ、徐々にこの部屋に近づいてくることを表していた。
「っと。ご飯は食べちゃったかな?」
音が間近に迫ったかと思うと、廊下と部屋を分けている襖が開き、一人の女性が姿を現すと共に、声を放った。
「ああ、あまりに遅かったからな。時計、見てみ?」
首をしゃくり、相手に壁に備え付けてあった時計を見ることを促す。その針は、丁度8時の部分に短針があった。相手は、あらま、と呟きながら頭をかいた。
今入ってきた女性は、俺の母親だ。見た目は若々しく、30台後半といったところだが、その実は40台前半。黒髪で長髪である。ズボラな性格であるのに髪は手入れが行き届いている。エプロンを着た女性が毎日セットをしてくれているのだろう。
そのエプロンを着た女性は、夕食後の食器の皿洗いを終えたようで、手をタオルで拭いた後に台所からこちらのリビングに戻ってきた。
「こんな時間になっちゃってたか。反省反省」
「そうだな、存分に反省していただきたいものだ」
「まあまあ、お食事は取られますか?」
肩をすくめて皮肉気味に言った俺をを取り直すかのように、エプロンを着た女性は声を放った。
「う~ん、いいや、外で食べてきた。ごめんね、香苗ちゃん」
「いえ、構いませんよ。お気になさらず」
香苗、そう呼ばれたエプロン姿の女性は一礼して、笑みを浮かべた。
母親は片手を挙げてなおも謝る様子を見せると、今度は俺のほうに向き直ったかと思うと、バッグをまさぐった。どうやらかなり奥のほうにしまいこんだようで、しばらく物音がしていた。
ようやく見つかったようで、バッグから長方形の物体を取り出した。
「ほれ、我が息子よ。土産だ」
尊大な言葉と共に、バッグから取り出したばかりの長方形の物体をこちらに投げつけてきた。
「あっぶないな」
非難の声を上げると共に、顔のぎりぎりでその物体を受け止めた。全く、顔にぶつかったらどうするきなのだあの母親は。
心の中で不平不満を散らすと、その物体を良く見てみた
「本?」
それは、表に金色で、異国の文字と思しい文字が掘られており、手に持った感触から、背表紙は革だろう。かなり分厚く、辞書といわれても頷ける。……辞書の角は痛いんだぞ?マイマザーよ。
「あんた本好きでしょ?道端で拾ったから持ってきた」
「道端って……」
拍子には傷一つついていなく、汚れもない。埃を払ったくらいはあの母親でもしただろうが、ここまで完全な状態で落ちているものなのだろうか。しかも、かなり豪勢なつくりで高価そうだ。
おれは、そんなことを考えて不安にかられた。持ち主が居て、それも大切に保管されている類の物ではないか?という方向の不安だった。
「まあ、ありがたくもらっておくよ。……盗難届けとか出ていたら突き返す」
冗談めかし、笑いながら俺は言った。