10cmとの格闘
「うわああああっ! ムリ! ほんっとムリ!」
本当、大声上げて叫びたくなるほど勉強したのなんて久しぶりだ。大学受験のときだってこんなに必死にはならなかった。そりゃそうだ。重要度が桁違いだもん。話せないと生きていけないだろうし、英語と違って誰も教えてくれない。
辞書は思った以上に詳しくアルフェンの言葉を解説していた。幸いにも語順は日本語と似ていたので、それは大助かりだ。女性、男性、中性名詞とかあったらさすがにお手上げだし。私は特に勉強ができるわけでもない、地元の下の上くらいの大学を出ているだけだから。
まずは辞書の冒頭に載っていた文字を練習する。アルファベットに似ているようで、そうでもない。雰囲気は少しギリシャ文字に似ている、って感じかな……?
ここで一つの問題が生じた。ペンが思ったより使いにくいってことだ。漫画家さんはこんな苦労をしてるのか、なんて少し思ったけど、すぐに手が痛くなって勉強どころじゃなくなった。
思えば毎日仕事ではパソコンで文字を打ち込んでいたし、当然なのかもしれない。こんなにたくさんの手書き文字を書いたのはいつぶりだろう。
「疲れた……休憩……。」
ベッドにどさっと倒れ込んだ。ふかふかのベッドはとても気持ちがよくて眠気を誘うが、今は眠るわけにはいかない。一刻も早く言葉を覚えなくちゃ……。
辞書の表紙をめくってみると、裏に達筆でこう書かれていた。
「“この文字が読める君に託す。なんとしても生き延び、そして君のいるべき場所に帰るのだ。この私に果たせなかった夢を君は叶えてくれ。ここに、私の得た全てを記す。”」
声に出して読むと、なぜだか私は泣きそうになった。ホームシックってこういう感覚なのかな。別に仕事は疲れるだけだし、彼氏とは別れたばかりだし、一人暮らしも大変だとは思ったけど、不思議とそれが今は恋しくて仕方ない。
「……でも、泣いても帰れるわけじゃないもんね。」
この辞書を書いた人がどうしてここに来たのか、なぜ自分以外に日本人が来ることを予感していたのか、どうして戻れなかったのか……わからないことはたくさんあるけれど、私一人ではどうしようもない。
私は起き上がって、もう一度机と向き合った。とっても気合が入る。壁掛け時計を見ると、朝食を終えてから3時間は経っていた。時計は私の世界のものと違いない。ところどころの共通点がとても助かった。
文字はひと通り書いて憶えた。あとは……
「は、発音かあ……。」
これはまた大きな壁だ。辞書には一応カタカナで読み方が書いてあるものの、それにも限界がある。実際辞書にも、“可能ならば現地人に発音を尋ねた方が無難”とコメントしてある。
「弱ったなあ……。」
とりあえず私は、あのお手伝いの美人なお姉さんに頼るしか思いつかなかった。大人しくしてるって決めたばかりなのに……。