雨の女の子
午後の空を朧雲が覆い、いかにも降りそうな気配であったが、僕は傘を持たずにアパートを出てしまった。引き返せば、一本だけ貧相な傘がドアにぶら下がっているが、面倒臭いのでそのまま歩いた。
梅雨前線が停滞しているそうだ。失業して、若いだけの軟弱な体を持て余していたその頃の僕には、ぴったりの空の色だった。
降ってきたら新しいビニール傘を買おう。百円ショップがあれば助かる。傘なんて、どうせ壊れる前にどこかに置き忘れて無くしたりするから安物でよい。
ところで。
傘を忘れる、これは記憶の問題だろうか。それとも、人と傘との相性だろうか。
改札を越え、電車に乗り、目的の駅に着くまでの20分間、本や広告を読む代わりに僕はそれを考えてみた。
仮にそんな相性があるとして、それはどの傘でも同じだろうか。折りたたみ傘やワンタッチ傘といった種類により相性は変わるだろうか。
あるいは、値段によってはどうなのか。僕なら百円の傘より、五千円の傘を大切にする。すると、忘れやすいのは安物ばかりを買うせいか。ここに気構えの要素も関係するから、考察は複雑になる。
などと考えているうちに目的駅に着いた。乗り越しもせず、切符も無くさず改札を出たが、傘を持っていたらやはり忘れただろうか。
見慣れた商店街を抜け、約束の喫茶店に入ると、すでに女の子は奥のテーブル席で、残り少ないオレンジジュースをストローで啜っていた。
「やあ」と声をかける。
「はい」という返事。
その頃、一ヶ月か二ヵ月くらいのペースで僕たちは電話をし、約束をして会っていた。
初めて出会ったのはそれより二年前の冬、勤めていた設計会社がまだ健在だった頃だ。仕事を早く終わらせて会社を出ると、霙が降っていた。僕は引き返して傘立のなかから、ずっと以前から置き去りにされていた所有者不明の黒傘を拝借し、商店街まで歩いた。
普段は目につかなかった喫茶店を見つけたのは、古風な店のドアが、その日の雨に似合っていたからだろう。
頼んだコーヒーは美味しく、僕の冷えた気持ちを温めてくれた。勘定を済ませて店を出ると、頬を赤くした女の子が追い掛けてきて、「忘れ物です」と、本当は僕のものではない黒傘を手渡してくれた。僕は彼女と店内に引き返し、お礼のつもりでオレンジジュースをご馳走した。
春になって会社は潰れ、定期券の期限がまだ残っていたから、電車に乗り、またこの店にやってきた。奥の席に女の子はいて、僕は再会した彼女に、会社が潰れてしばらくは失業保険で暮らすこと、小説家になりたいことなどを話した。話してしまってから恥ずかしくなったが、彼女は自分も詩を書いていると言い、それから文学の話をした。僕たちは電話番号を交換し、ときどき会う約束をした。
それから二年間、お茶友達の関係が続いたが、それ以外の目的では電話もメールもせず、違う場所に遊びに行くこともなかった。頼むのはいつもオレンジジュースとコーヒーだったし、特別な話題を用意したり、さりげない以上のお洒落をすることもない。その日の彼女は水玉のブラウスを着ていた。
「小説は書けてる?」
「うーん。アイデアはあるけどまとまらないんだ」
「話してみて」
僕が話すと彼女は笑い、「それって、まるであたしたちみたい」と言った。「けど、小説としてはつまんないかも……」
「どうしたら面白い小説にできるかな」
「そうね。その男女はまだ恋人じゃないのよね。お互いに踏み込まず、ときどき会って話をするだけだから、物語の山がない。ハプニングに巻き込まれたり、困難を乗り越えたりして恋が芽生えるっていうのはどう」
「ありきたりな恋愛ドラマだなあ」
「つまらない作品の個性より、ありきたりな恋愛話の方が、あたしには面白いけど」
「そういう話は苦手だよ」
彼女はかわいく口を尖らせ、ストローでグラスの底を掻き回した。僕は手を上げて店員を呼び、オレンジジュースとコーヒーのお代わりをした。
本当は、書きたい話なんてなかったのだ。設計会社の仕事もつまらなかったし、何もしたくなかったのに、アリバイ作りで小説家になろうと思いついただけ。だから、退屈な日常を模写する程度の文章しか書けず、それは確かにつまらないものだったろう。
「なら、これはどうかしら。二人がこうしてお茶してる間に、外の時間が早くなり、夕刻には戦争が始まる。帰り道は危険だから、二人は手をつないで帰るの」
「面白そうだけど、僕は戦争イヤだから、もう帰るのはやめて、ずっとお喋りしていたいな」
「そしたら、二人はずっと変わらない」
「つまらないよね」
それから窓の外を見ると、戦争ではないが雨が降ってきた。
「ここらへん、百円ショップあったかな」
「傘ならあるわよ」。そう言って、彼女はバッグから赤い折りたたみ傘を取り出した。
「でも、帰る方向が別だし」
「たまには同じにしてみない?」。ニッコリ笑う。「このままだと、退屈なまま話が終わってしまうから」。誘われているのだとわかった。
「君は傘との相性がいいんだ」
「なにそれ」
「僕は相性悪いけど」
彼女は笑い、「あのね、あなた忘れてるみたいだから教えてあげる。あたしたち、会う日はいつも雨だったでしょ。それはあたしが雨女だから。だからいつも傘を持ち歩いて、忘れないのよ」
僕たちは店を出た。小さな傘に二人が入ると、背中も肩もびしょ濡れになったが、繋いだ手だけが温かかい。どうして僕たちは手を繋ぐのに、二年もかかってしまったのだろう。
それから彼女との短い付き合いがあったが、恋はありきたりで、幾つかの「ハプニング」や「困難」の末に別れた。今では喫茶店も閉店し、僕たちはもう会う理由がない。
ありきたりの体温、ありきたりの涙、ありきたりの映画や食事だった。それでも思い返すと、長雨の下に咲く紫陽花のような明るさを見せる瞬間もある。
つまらない作品の個性より、ありきたりな恋愛話の方がいい。そんな彼女の言葉を思い出しながら書く僕の最近の小説は、なるほど、少しだけ面白いものであるらしい。