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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第9話 灰騎士の誓い

 夜は、呼吸の数を数えるのに向いている。

 城の石は昼の熱を吐き、天蓋の布は星のざわめきを吸って黙る。窓の外、塔の先は花を咲かせない。青い花は夜の役を終え、今はどこか内側で静かに芽の向きを変えている。机の上には、倉庫の帳簿と水路図、それから昼間に民から届いた小さな布花が一輪。誰かの手の温度がまだ残っていて、指で触れるとわずかに押し返してくる。

 扉が、二度だけ叩かれた。約束のリズム。私の“射程”に入る前の礼儀。

「入る」

 低い声。灰騎士カイル。影が床に沿って伸び、敷居で半歩だけ躊躇して、入った。月の光に、彼の外套の灰は濃くも薄くもならない。変わらない色は、騒ぎに飲まれない冷静の色だ。彼は私との距離を測り、机とベッドのあいだに視線で線を引く。線の上に膝をついた。

 膝が、石に触れる音はしなかった。彼はいつも、音を置かない。

「アリア様」

 呼び名に“姫”はつかない。評議会のあと、彼は一度も“蒼銀姫”と口にしなかった。名は民に借りておく。ふたりの間では不要だ。私は頷き、枕元の水に唇を湿らせる。喉の痛みは薄く、肺は今日は静かだ。痛みが合図でなくなる夜は、言葉が遠くまで届く。

「申し上げる」

 彼は背を伸ばし、剣に手を置かず、私の目を見る。その目はいつも“形”を優先する。感情を先に置かず、形を先に置く。形は刃物より嘘をつかない。

「あなたこそ——」

 彼は一拍だけ間を取り、言葉を選ぶように瞼を落とす。

「——王の器」

 胸が、急に締めつけられた。

 音は変わらず、部屋の空気も変わらないのに、肺の奥だけが石を飲み込んだみたいに重くなる。水を飲んだばかりの喉が乾く。指輪の赤が、夕焼けではない色で一瞬、濃くなった。

 その言葉を、私は知っている。

 ——昔、雪の野で。終焉剣アルトリウスを腰に下げ、天幕の前に立っていた夜。凍る息の向こうで、忠誠の膝が次々に石を鳴らし、低い声が重なっていった。「王の器」。あの言葉は火種になった。主従の鎖は最初、暖かく、やがて重く、ついには呼吸を奪った。旗は増え、列は伸び、名は肥大した。肥大した名は、人を潰す。あの夜、焚き火の火の粉に紛れて、私の部下のひとり——まだ若い士官が、笑って言ったのだ。「あなたが立てば、みんな生きて帰れる」。朝、彼は帰らなかった。

 胸の奥で、凍りがきしむ音がした。私は息を吸い、止め、吐く。病室剣の型に体を任せる。間が、足場を出す。足場に立って、彼を見た。

「……その言葉は、二度と使わないで」

 声は高くない。怒りの温度を避け、刃の角度も避け、ただ指定する。私は手を伸ばした。伸ばした指が途中で震える。震えは止めない。震えは、生きている証拠。指先で、彼の頬に触れる。硬い。男の頬は石ではない。だが、石のように“動かない意志”が皮膚の下にある。私はそこに触れる。

「あなたは私の剣じゃない」

 言って、自分の掌の冷たさに気がついた。蒼銀の残響だ。封じているのに、掌の内側で青が呼吸している。私はそっと手を引こうとしたが、カイルが微かに首を振った。許可ではない。受容だ。彼は目を閉じず、私の言葉だけを飲んだ。

 沈黙を、彼は壊さなかった。沈黙は、壊さないほうが正確なときがある。やがて彼は、膝をついたまま、ほんの少しだけ姿勢を変えた。膝の角度を一度、戻し、それから深く折る。忠誠の礼ではない。降参でもない。——距離の調整。射程の再定義。

「いいえ」

 低い声が、月明かりの縁で震えずに落ちた。

「あなたが戦場に立つなら、私は盾になります」

 盾。剣ではない。私は目を細める。盾は、持ち主を前に押し出さない。前に出るのは持ち主の選択だ。盾は、受ける。受けることに、矜持を持てる者は少ない。彼はそれを選んだ。

「……盾は、重いわ」

「重さは、持つ者が決める」

 彼の言葉は短い。短いが、余白がある。余白は、私の呼吸と噛み合う。私は手を膝に戻し、布団の皺を指でなでる。なで方は、刃を研がないほうの手つき。研ぎすぎると、刃はすぐに欠ける。

「王の器、という言葉は、私を殺す」

 独白に近い声で言った。私に向けて、ではなく、過去に向けて。天幕の雪、凍りついた笑い、ひとりずつ消える足音。言葉は、革命の合図でもあり、虐殺の合図でもある。合図は聞こえやすいほど危ない。私は視線をそらさず、カイルへ続けた。

「器に人を流し込んだ夜がある。器はいっぱいになって、溢れて、こぼれたのは命だった。——もう、同じ形で立ちたくない」

 カイルは頷かない。頷けば、誓いになる。彼はただ、静かに剣から手を離し、空いた手を胸に置いた。騎士の礼でありながら、神殿の礼ではない。彼の“信”はここにある、と示す場所。心臓。鼓動は、彼の言葉と同じ速度で鳴っている。

「……ならば、言葉を変えます」

 変える——彼は言葉の重さを知っている。言い直しは、敗北ではない。調整だ。彼は短く息を吸い、吐く。

「器ではなく、方向。王ではなく、座標。あなたが向こうと定めた方角に、盾の面を揃える」

 私は、笑ってしまった。胸の締めつけはほどけない。ほどけないが、笑いは別の筋肉でできる。笑いが少しだけ、凍りを遠ざける。

「座標。いいわね」

「剣は面で受けられない。盾は面で受けられる。私は、面で受けます」

「受けすぎて、割れないで」

「割れたら、次の面を差し出します」

 無茶を平然と、まるで朝の予定を口にするように言う。私は眉をひそめ、すぐにその表情が救いになることに気づく。怒ると、呼吸は生き返る。怒りは、呼吸の味方だ。

「……あなた、わざと私を怒らせて呼吸を整えさせてない?」

 彼は珍しく、目尻をわずかに緩めた。冗談は言わない。冗談の代わりに、沈黙で肯定する。

 窓の外で、風が塔の角を撫で、鋼の留め金が小さく鳴った。私は枕元の布花を指で回し、机に広げた水路図を彼に示す。夜に呼ぶ話題は、ひとつがいい。

「水門が動いたわ。北東の溝は、明日には市場の裏の井戸まで“勝手に”つながる。神殿の検分は遅い。遅いあいだに、私たちが『自然』にしておく」

 カイルの視線が、図面の上で静かに進む。読みは速い。彼は図面の一点を指で軽く叩く——指は、いつも音を置かない。「ここ、細すぎる。警備の目も細い。人が詰まる」。私は頷き、鉛筆で線の太さを少し増やす。線が太くなれば、人が二人すれ違える。すれ違いは、争いを減らす。

「それから」

 私は蒼銀の短剣の影を意識の端で撫でる。布の下で青が薄く息をした。刃は眠っている。眠りを破るのは、次の鐘が昼の音のとき。夜は、刃を布で包む時間だ。

「『蒼銀姫』という名は、借りておく。でも、私の中では呼ばない。名に呼ばれると、歩幅を間違える」

「承知した」

「あなたは、私の“信徒”でもない。あなたはあなたの『信』を持つ人。私は、そこに便乗する」

 カイルは首をわずかに傾け、理解の角度を作る。

「便乗——」

「そう。信は運搬に向いてるの。人から人へ、温度ごと運べる。あなたの信に、私の信を重ねる。重ねたまま、どちらも壊さずに運ぶ。……できる?」

「できる」

 即答。彼は未来のことでも、やれるかどうかの確認に迷わない。その代わり、方法は細かく考える男だ。私は笑い、天蓋の布に小さな円を描いた。病室剣の七の型。——名を受けず、座標を置く。

「もう一つ、確認」

 言葉は、傷口に触れない角度で出す。「『王の器』を、誰かに言われたら、どうする?」

「殴らない」

「そうじゃない」

「笑わない」

「それも違う」

 彼はわずかに考える顔をして、最後に短く言った。

「——聞かない。『聞こえない』ふりをする」

 私は拍子抜けして、それから納得で頷いた。聞こえないふりは、戦場の知恵だ。挑発や呪詛や甘言は、耳で聞く前に体で拒むのが早い。耳は甘い。体は、固い。

「よろしい。私も、聞こえない」

 窓の外、夜の鳥が一度だけ羽音を鳴らした。神殿の鈴は鳴らない。井戸の水面は静かに呼吸しているだろう。私は布団を整え、カイルに視線で合図を送った。——射程の外へ。彼は立ち上がり、膝の跡を残さずに部屋の影へ戻る。

 敷居で、彼が振り返る。珍しい。彼は後ろを気にしない男だ。気にしないから、振り返らない。今夜は違う。月光に、灰の輪郭が薄く光る。

「……あなたが、戦場に立たない夜があるなら」

 言葉は途中で止めず、最後まで置く。

「私は、その夜のために盾を磨く」

 私は、返事をしなかった。返事は、鎖になることがある。かわりに、枕元の水を一口飲み、喉を湿す音だけを答えにした。彼は頷かず、扉を音なく閉めた。

 夜は、再び呼吸の数を数え始める。私は天蓋の布に指で小さな円を描き、息を吸い、止め、吐き、——間に「座標」を置く。王の器ではない。王の座でもない。方角。私の呼吸が届く距離を、どの向きへ伸ばすか。それだけを、決める。

 胸の締めつけはまだ残っている。残っているが、凍りではない。凍りは音を消す。これは、音を選べる痛みだ。選べるなら、使える。痛みは、生きている証拠。証拠があるうちは、道が伸びる。

 枕元の布花をもう一度撫でる。昼の温度が小さく戻ってくる。民の手の温度は、神の祝福よりも信じやすい。私は目を閉じ、蒼銀の影を布の下に感じながら、そっと笑った。

 ——王ではなく、方向へ。

 塔の外で、風が石を撫で、鋼の留め金が一度だけ短く鳴った。鳴らない鈴の代わりに。私はその音を合図に、眠りへ歩を進める。眠りは、弱さじゃない。次の呼吸を遠くまで運ぶための、夜の訓練だ。

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