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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第8話 英雄と怪物

 人の声は、石造りの街を甘くする。


 初陣の翌日、王都の坂道には子どもの走る音と、焼き上がった薄いパンの匂いが戻っていた。噛めばほろりと砕ける白い欠片を「蒼銀のパン」と呼ぶ店が現れ、女たちが笑いながら列を作る。誰かが、窓辺の壺に青い布を結んだ。誰かが、井戸の杭に銀の糸を巻いた。名は意匠になる。意匠は、動線を変える。

 その一方で、石畳の隅には黒い染みのような囁きがあった。


「病弱令嬢が神の領域に触れたとさ」

「加護を横取りした怪物だ」

「いや、英雄だろう。あの一撃がなきゃ俺の甥は死んでた」

「英雄は長く生きない」


 窓から聞こえるその混線を、アリアは椅子に浅く腰掛けたまま、呼吸で受け流した。吸って、止めて、吐いて、間を聴く——病室剣の型は、言葉の海でも役に立つ。


 父は朝早くから外套を羽織り、手短に告げた。


「評議会に出る。——来るか?」


 来るか、ではない。本当は「来るな」だ。彼の視線に落ちる影は、娘を戦場に連れていく父の影と同じだった。アリアは首を縦に振った。止める声はミナが飲み込み、フィオはただ帯の位置を確かめた。灰騎士カイルは扉の外、半歩の余白に影を置いた。


 王国評議会は、古い劇場のような場所にあった。半円形に階段状の座席が連なり、中央には石の床。床には昔の王が刻ませたという理想の紋——天秤に麦束、剣にオリーブ。天井は高く、音は上へ逃げる。逃げる音を、貴族たちの刺繍が捕まえて胸元で震わせる。


 議長は長机の奥で鐘を鳴らした。乾いた音が三つ、空へ消える。


「公爵令嬢アリア・ヴァルミラ。——昨夜の一件について、説明を」


 説明。便利な刃だ。言葉で切れるまで刺す。アリアは立たない。立てば、剣になる。座ったまま、視線で場を測る。右列、神殿派。左列、軍務派。正面、王都官僚。父は後方で腕を組み、ミナは壁際に控え、カイルは半歩、影。


「盗賊の襲撃。結果として死者は少数。被害は最小。——その功は認める」


 軍務派の老騎士が言う。続けて神殿派の若い神官が笑った。


「だが、方法が問題だ。神の領域に触れた。凍結は古い禁呪。病弱令嬢がふるってよいものではない」


「病弱であれば、助けないほうがよかった、と?」


 アリアは問いを返す。返すだけで、場の空気はわずかに沈む。若い神官が眉をひそめ、別の貴族が机を指先で叩く。


「民が崇めるのは勝手だ。しかし王国を動かすのは“規範”だ。規範に“神殺し”はない」


 神殺し。言葉は刃こぼれしない。傷は深いままだ。アリアは目を細め、天井を見上げる。白い漆喰に亀裂が一本、走っている。水が乾くたびに増える細い線。誰も見上げないから、誰も直さない。


「英雄か怪物か、ですな」


 議長がまとめる。貴族らしい平坦な語り口。選択肢を狭め、議場の空気に二色しか与えない。二色は議論を楽にする。結論も、責任も、配布しやすくなる。


 アリアは微笑した。

「どちらでも、構わないわ」


 ざわめき。議長の眉が動く。神殿派の数人が椅子をきしませる。アリアは続ける。


「英雄は便利よ。もし私が英雄なら、私を掲げて行列を短くしなさい。怪物はもっと便利。もし私が怪物なら、私に怖れを押し付けて、あなたたちは清らかな顔のまま、民へパンを配りなさい」


 笑っているのに、言葉の角は柔らかくない。ミナが壁際でほんの少し肩をすくめ、父は咳払いを飲み込んだ。

 若い神官が立ち上がる。


「言葉遊びは結構。だが“凍結”の件は明確な規範違反。神の加護を酷使し、神の秩序を乱した。怪物が乱すなら、潔く封印のもとに——」


「——怪物と呼ばれるのは、慣れている」


 アリアはそこで、少しだけ笑みを深めた。

「神の秩序? 祈っても麦が来ない秩序を、秩序と呼ぶの? 封印? 箱の中で飢える民に“忍耐”を配るのね」


「無礼——!」


 神官が吠える。吠える声を、別の老貴族の扇子が乾いた音で鎮めた。

 視線が一斉に、アリアの後方へ向かう。影が、半歩、前に出た。


 灰騎士カイルが、鞘にかかった蝋印に指を添えた。神殿の封ではない、公爵家の封。その封を、彼は静かに——壊した。蝋が小さく泣き、刃は半寸、光を覗かせる。会議場の空気が収縮する。兵の手が無意識に柄へ寄る。神官の喉が上下する。父は動かない。ミナも動かない。動くのは、音だけ。


 カイルは剣を抜いた。抜く音はほとんどなかった。刃が空気を切るときの、紙を裂くような音がひと筋、天井の亀裂に沿って走った。彼の剣は蒼銀ではない。だが、理がある。抜き放った刃先は誰にも向かず、床に向けて静かに下ろされる。戦いの構えではない。誓いの姿勢だ。


 議長が蒼白になった。


「無礼者! 議場で抜剣なぞ——」


「護衛ではない」


 カイルが言った。低く、石に染みる声で。

「——信徒として、抜いた」


 信徒。言葉が場を斜めに切り裂いた。神殿派の神官の瞳が怒りと困惑で二重に光る。彼らの“信徒”は神へ向かうと決まっている。人へ向かう信徒は、規範に記載がない。

 アリアは振り返らない。振り返れば、鎖になる。彼の覚悟に首輪がつく。その代わりに、ほんの少し顎を上げた。言葉は前へ飛ぶ。


「わたしの“信”は、呼吸にある。生きている手の温度。分け合う皿の重み。——あなたは?」


 問われたのは議場全員だった。誰も呼吸を忘れていないのに、誰も答えられない。

 沈黙を切ったのは、意外にも軍務派の老騎士だ。白い眉を撫で、喉を鳴らす。


「規範は必要だ。だが規範が生まれた理由はもっと必要だ。飢えれば、人は死ぬ。死なせる規範がもしあるなら、それは破れやすく作られているはずだ」


 議長が苦い顔をする。「しかし——」


「しかしを言う前に、計算を」


 アリアは帳面を開いた。神殿から“奉納”として徴収される食料の計数、各地区の配給、井戸の水位、麦の在庫、病死の増減——昨夜、眠りに落ちる前にまとめ直した数字。

「祈祷の回数と、配給の減り方の相関は『ある』。祈祷を増やすほど、配給は減る。祈りの煙は麦と一緒に消えるの」


 笑い声は、出なかった。議場は数字を恐れる。数字は神話を壊す。

 神殿派の神官がなおも言う。


「その数字の正しさは、誰が証明したのだ」


「倉庫で汗をかいた手が。井戸の底で指を切った子が。——証人の名は、今日も列に並んでいる」


 静けさは、敵ではない。呼吸の“間”に似ている。アリアはその間に、短くだけ笑みを投げた。


「英雄と呼ぶなら、英雄らしく働くわ。怪物と呼ぶなら、怪物らしく“分ける”わ」


 議長が結論を先送りにしようとしたその時、外から鐘が鳴った。

 昼の音。

 老騎士が耳を傾け、微かに目を細める。


「……北東。水門が動いたな」


 水門。アリアは目を伏せ、短く息を吐いた。昨夜、短剣の影で“ほどいた”水路が、ようやく表の石を数枚動かしたのだ。井戸の水位は上がる。祈りの煙は薄くなる。民の列は、短くなる。


 議場の玉座——王のいない椅子の背後、天井の亀裂から白い粉がはらりと落ちた。だれも見上げなかった。だが、粉は落ちる。落ちるたびに、天井は軽くなる。軽くなった天井の下で、重い決断は、少しだけしやすくなる。


 議長は苦い顔のまま、錫杖を鳴らした。

「本件、結論は持ち越す。——ただし、ヴァルミラ公爵令嬢の行動は、当面“地域防衛の特例”として容認する。神殿は祈祷の回数を据え置き、食料奉納の一部を停止。水路の検分は軍務局と公爵家の共同で行う」


 言い回しは最小限の譲歩だ。だが、石畳に置かれた小さな石は、やがて誰かの足を止める。止まった足は、視線の向きを変える。向きが変われば、道がずれる。


 解散の鐘が鳴った。神殿派の神官たちは沈んだ吐息を胸元にたたみ、貴族の幾人かは目を逸らして扇を開いた。軍務派の老騎士は小さく頷き、背を丸めて去った。

 父は近づかず、遠くからわずかに顎で合図を送った。——よくやった、とは言わない。言えば政治になる。彼の無言は、刃より温かい。


 廊下に出ると、日光が白く揺れた。ミナが寄り添い、フィオが駆け足で水を持ってくる。アリアは受け取り、口を湿らせた。喉はまだ痛む。痛みは合図。合図があるうちは、使える。


 カイルは剣を納め、蝋印の欠片を掌に重ねた。

「覚悟は誓いではない」と彼は低く言った。「誓いは檻だ。覚悟は、歩幅だ。——俺は歩幅を決めただけだ」


 歩幅。アリアは笑った。

「なら、合わせないとね。——半歩、ずれていて」


 彼は瞬きし、薄く笑った。半歩のずれは、鎖を飾りに変える余白になる。


 評議会の階段を降りる途中、下から声が上がった。

「蒼銀姫——!」


 子どもたちが手を振り、女たちが布を掲げ、老いた男が帽子を取った。英雄の名が空に舞い、怪物の陰口が石の隙間に溜まる。どちらもある。どちらも、街の“重さ”だ。


 アリアは立ち止まり、掌を胸に当てた。

「——怪物と呼ばれるのは慣れている」


 自分に言い聞かせるように、もう一度だけ。

「けれど、怪物の役割は決める。私は人間のために怪物をやる」


 風が通り、銀糸の看板が光を跳ね返す。遠く、塔の先に青い花は咲いていない。昼は花の役ではない。昼は水の役だ。

 アリアはゆっくりと歩き出した。歩幅は短い。短いが、止まらない。背後で半歩ずれた影が、静かに寄り添う。護衛ではなく、信。信徒ではなく、同伴。

 英雄と怪物。名は二色。彼女はその二色を、麦色に混ぜるつもりでいた。


 その夜。

 枕元の蒼銀の短剣は布の下で淡く息をし、窓の外では黒い鳥が一度だけ羽音を鳴らした。神殿の鈴はやはり鳴らない。代わりに井戸の水面が静かに揺れ、星を一つ、飲み込んだ。

 アリアは目を閉じ、病室剣の型で一日の言葉を畳んだ。握らず、ほどき、間を聴く。

 英雄であれ。怪物であれ。

 ——呼吸の届く距離を、広げるだけ。

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