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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第7話 初陣

 最初の警鐘は、昼の音ではなかった。

 城壁の上を走る鈍い鐘。午睡の時間を蹴破って飛び起きさせる、金属の舌の荒い呼吸。二打、間、一打——北門。三打、間、二打——橋のほう。城下の鳩が一斉に空へ弾け、煙突の上の薄い灰が逆流した。窓の外、石畳を黒い帯がうねる。帯の前端には、外套を裏返した男たちの影。旗はない。狼煙も上げない。行儀の悪い連中。名乗るほどの矜持もない。盗賊だ。

「下がって! 扉を閉めて!」

 廊下の向こうで、フィオの悲鳴が指示に変わる。彼女の手は震えていない。震える暇を他人に譲るのが、彼女の癖だ。ミナは既に包帯と止血薬を抱え、階段に向かって走っている。彼女は戦場の音を知っている。カイルは——声を出さない。出さない代わりに、歩幅を半分に切り、私の部屋の敷居に影を据えた。射程内。

「お嬢様、ここに」

 フィオが言い、扉を押す。木目が悲鳴を上げる。私は座っている。座っているが、心は立っている。窓の外の黒い帯が、門へ、そして市場へ、そしてパンの列へ伸びていく。列の先頭に、子どもの頭。次に母の肩。次に、老人の杖。列の最後に、祈り。「神よ」。——鳴らない鈴。

 指輪の赤が、夕焼けの前ぶれのように脈を打った。壁の裏の細い空洞。そこに隠した短剣は、名を呼ばなくても在る。蒼銀〈そうぎん〉。贈り物ではない。呪いの証明。これは封じる刃ではない。分けるための刃だ。体は薄い紙のように脆い。紙は破れる。破れるが、紙ほど火を早く運ぶものはない。

「——行く」

 声は出ない。唇の形で、ミナとフィオとカイルに伝える。ミナの目が怒る。フィオの目が潤む。カイルの目は、変わらない。変わらない目の奥に、わずかな明滅。彼は敷居から半歩だけ退いた。退くことは許可ではない。選択の余白だ。私はその余白を踏み、壁の裏から蒼銀を抜く。青い光が布の内側で薄く脈打ち、掌に冷たいでも熱いでもない「温度の前」を置いた。

「公爵令嬢!」

 廊下の兵が止めに入る。私は病室剣の一の型——握らず、ほどき、間を聴く——で兵の腕をすり抜ける。身体は軽くない。軽さは敵だ。私は重さを味方にする。足裏で石を押し、呼吸で肋骨を広げ、重さを運ぶ。階段の途中、ミナが短く囁く。

「十歩以上は、借りません」

 借りない。その代わり、返す。私の十歩は、市場の百歩になる。フィオが背後で祈る。私にではない。道に。道が、滑らかでありますように、と。良い祈りだ。叶いやすい。

 城門の内側は、騎士たちの叫びで粗い織物になっていた。灰騎士カイルが号令を飛ばす。

「橋上、十四。右端に弓手。左の石段、二。正面、三」

 数字が出る。数字は剣より速い。騎士たちが散り、盾が斜めに立つ。盗賊たちは甲冑ではない。皮と布。だが刃は鋼だ。顔は布で覆い、目だけが狼。矢が飛ぶ。風が鳴く。盾の縁を叩く音が、雨の前触れみたいに細かく続く。

 私は石段に足を置いた。肺が怒る。怒りは、生きている証拠。怒りに謝る暇はない。蒼銀の柄が掌に吸い付く。軽い。軽いが、命令を待っている。私は刃に命令しない。刃と相談する。相談の言葉は、古代語より古い。

 ——冷やせ。

 蒼銀の青が深くなる。刃の背が息を吸い、街の熱をわずかに奪う。奪った熱はどこへ行く? どこへも行かない。刃の内側に、一拍だけ貯まる。私はその一拍を伸ばす。呼吸の“間”をひとつ増やすみたいに。

 盗賊の一人が私を見つけた。目が裂け、笑いが歪む。「お姫様だぜ」。彼は走る。走りながら、刃を横に払う。風切り音は粗い。粗い刃は、粗い音を出す。私は一歩、前へ。足を滑らせない。重さを運ぶ。病室剣の四の型。——近づけ。近づけることで、敵の剣を長くする。長くなった剣は、扱いづらい。

 刃が私の頬をかすめる、その瞬間——蒼銀が、光を吐いた。

 光は鋭くなかった。柔らかかった。雪が空気を選ぶときの淡い筋。筋は瞬時に広がり、男の肩から肘へ、肘から手首へ、指先へと走る。音はない。代わりに、男の皮膚の下で小さな悲鳴——水の悲鳴が上がる。水が、固まる。固体は泣かない。泣かないから、静かだ。男の動きが止まり、刃が空中で固まり、笑いが凍って歪んだ。

 氷像。私は見ない。見ないで、次を探す。光は渦にならない。線でいい。細い線を何本か、必要な場所だけに。矢筒の紐。弓手の指。橋の上の靴底。石段の端。蒼銀は従う。従うというより、同意する。刃の意志と私の意志が、わずかな重なりで仕事をする。凍る音はやはりない。あるのは呼吸の音だけ。呼吸は、戦場の太鼓より正直だ。

「——退け!」

 カイルの声。騎士たちが一斉に道を開ける。私の周囲に、空白ができる。空白は罠にもなるが、今回は演台だ。盗賊の首領格が前に出る。顔の布は濃い灰。声は低い。剣を引きずる癖がある。刃の背が石を鳴らす。あれは剣の寿命を縮める。寿命を捨てる者は、命も捨てる。

「お前が“祝福の姫”か」

 問う声には笑いがない。仕事の声だ。私は答えない。答えは刃で。蒼銀の先端を、男の足首のわずか手前に置く。置いた瞬間、刃は空気を冷やす。冷えた空気が石に触れ、薄い硝子のような膜を張る。男は踏む。踏んだ足が滑り、膝が折れ、体勢が崩れる。崩れた体は重い。重い体は、私のほうへ寄ってくる。寄ってくるものは、受け止めない。受け止めれば、割れる。私は横にずれる。男の肩が石に打ち、そこで、私は初めて刃を振った。短い円。刃が肩の上をなで、布を凍らせ、筋肉の表面だけを淡く固める。彼は動けない。凍るのは皮ではない。皮の下の恐れだ。恐れは、よく凍る。

 氷は永久ではない。陽が当たれば解ける。解ける前に、仕事を終える。周囲の盗賊の動きが止まっている。それは一瞬だ。一瞬は、十分だ。騎士たちが入る。灰騎士が前へ。彼の剣は蒼銀ではない。だが、理がある。演算の速い刃。彼は首元を狙わない。手首、脇腹、膝。人を殺さず、動きを奪う刃。奪われた動きは、やがて後悔になる。

 私は呼吸を続ける。続けるうちに、胸が焼け始める。内側に、氷の粉が降り積もるみたいな咳の前兆。肺は火と氷でできている。氷は静かだが、火より体力を奪う。蒼銀は重くない。重くないのに、掌が痺れる。痺れは合図だ。合図が続くと、次は——

 血の味。

 喉が金属を噛んだみたいな味を持つ。膝が笑う。笑いは好きだが、膝の笑いは好きじゃない。私は退く。退くのは敗北ではない。選択だ。退きながら、最後にひと筋だけ、線を置く。橋の中央に。凍りは薄く、見えない。見えないが、音を選ぶ。盗賊たちの足音だけを滑らせる音。騎士たちの鉄の靴は、滑らない。鉄は氷と仲が悪い。

 戦は、そこで終わった。終わったことにした。盗賊たちは絡め取られ、凍りは陽に解け、橋は水を飲む。人々の悲鳴が歓声に変わる時間の、ちょうど真ん中で——私は血を吐いた。

 赤は、夕焼けの色ではなかった。鉄の色。舌が痺れ、視界が強い白に洗われる。音が遠い。遠いが、ひとつだけ近い。カイルの足音。射程内。彼は倒れる前に抱きとめる。抱きとめる手は、強くない。強くすると、割れるからだ。私は彼の胸当てに指を置き、短く円を描いた。——まだ、剣を振っていない。私は、振らなかった。振らない戦い方を選んだ。選んだ代償は、肺の中の氷片。咳の鋭さに、涙が出る。泣いてはいない。涙を出す暇が、血に取られている。

「医務室へ!」

 ミナの声。彼女の手が私の額に触れ、温度を測る。温度は「数字」ではなく「速度」で測られる。上がる速さ。下がる遅さ。ミナは速度を読む。読んで、判断する。「今は下げる」。彼女は手早く何かを舌の下に置く。甘くない。苦い。苦みは、生きている味だ。

 民のざわめきが、波のように寄せては引く。誰かが叫ぶ。「蒼銀だ」。誰かが続ける。「蒼銀姫だ」。私は笑わない。笑えない。笑う筋肉が、血と交渉中だ。だが、耳は聞く。名が付く。名は刃になる。悪い刃ではない。時に盾にもなる。蒼銀姫。可笑しい。私は姫ではない。病室の剣士だ。だが、名は人が使う。使いたい名を、使わせればいい。名は光を集める。光は、熱に変わる。熱は麦を育てる。

 意識が落ちた。

          *

 目覚めた天蓋は、昼の色だった。星の刺繍は眠り、布は風の音を吸っている。喉は焼け、胸は痛む。だが、痛みは合図だ。合図があるうちは、使える。

「お目覚めですね」

 ミナの声。瞳の奥のメトロノームは今日は遅い。安堵の速度。私は瞬きを一度する。フィオが涙で濡れた両手を握り、頬をくしゃくしゃにして笑う。

「お嬢様、すごかった! でも、もう、もう、もう……!」

 言葉が渋滞を起こす。私は指で小さな円を描き、彼女の背を撫でる。撫でるより、なでる。撫で過ぎると、余計に泣く。彼女は吸い込む空気の量を間違え、しゃくりあげ、笑って、止まる。可愛い。可愛いは、戦の後に必要だ。可愛いは、血をやわらげる。

 扉の外で、声が低く呼びかけた。

「入る」

 父。彼は椅子に座らない。座ると、政治になるからだ。立ったまま、短く言う。

「勝った。だが、王都は“勝ち方”を見に来る」

 視察は、祈祷式より速くなる。青い花、鳴らない鈴、剣の紋、蒼銀の刃。王都の机に並ぶ単語の皿。皿は重くなる。重い皿は落ちる。落ちる前に、誰かが拾いに来る。

「名が付いた」

 父は続ける。「——蒼銀姫」

 私は目を閉じる。名は、私のものではない。民のものだ。返さない。借りる。借りて、使う。使って、返す。病室剣の五の型。——借りて、返す。借りた名で道を作り、返すときに道を残す。

「民が、門の前に列を」

 フィオが言い、ミナが補足する。「お見舞いを。パンと、布と、小さな花。『姫様』に、って」

 姫様。可笑しい。だが、可笑しさは盾になる。盾を持てば、石は当たらない。私は頷き、喉の痛みを押しながら短く言う。

「——ありがとう、と伝えて」

 声は風に壊れる。ミナが翻訳する。「『ありがとう』です」。フィオが走る。走りながら、窓辺の陽を一掬い持っていく。彼女はいつも、光の持ち運びが上手い。

 灰騎士カイルは、部屋の隅に影を置いたまま進み出た。彼は膝をつかない。膝をつくと、戦になる。彼は立って、短く言う。

「蒼銀は」

 私は枕元の隙間を軽く叩く。彼は頷いた。刃は今、眠っている。眠りは弱さではない。刃こぼれを防ぐ知恵だ。カイルの手の甲は、痒くないらしい。彼は目で言う。——次は? 私は目で返す。——次は、私が決める場で。外ではなく、内側で。王都に“見せる”のではなく、“見せかける”。見せかけは、最初の盾だ。

 その時、外から子どもの声が、風に乗って届いた。

「蒼銀姫——!」

 合唱の稽古を始めたらしい。声は高く、粗く、混ざり合っている。混ざり合った音は、うるさいが強い。私は笑った。今度は笑える。笑いは、血を薄める。

「蒼銀姫か……」

 父が呟く。彼は笑わない。笑わないが、目の皺が柔らかくなる。彼は背を向け、扉の前で立ち止まる。「名は、借りておけ」。それだけ言って、出ていった。良い言葉だ。父はいつも、短いところで正しい。

 ミナが額に手を置く。「熱、下がりました」。私はうなずき、窓の外の青を探す。塔の上に、花はない。花は夜の役。昼は子どもの役。子どもが花だ。花の名は、勝手に増える。蒼銀姫。蒼銀様。蒼銀ちゃん。どれでもいい。どれでも、少しずつ、水を運んでくる。

 私は掌を見た。蒼銀の光はない。ないのに、掌が薄く冷たい。冷たさは呪いの証明であり、使い方の指示でもある。私は掌を胸に当て、呼吸の速度を決める。速くしない。遅くしない。間を聴く。戦は終わった。終わったが、次が来る。次は、名を使う戦。刃を振らない戦。刃は眠らせ、名を働かせる。

「――蒼銀姫」

 窓の外で、今度は老いた声が呼んだ。低く、しわがれた、しかし芯の強い声。私はその声のほうへ顔を向け、唇だけで「はい」と答えた。声は風に乗らず、それでもきっと届く。名は、呼ばれると固くなる。固くなった名は、何かを支える梁になる。梁は、屋根の下の空気を守る。

 初陣は、勝利だった。勝ち方は、良かったかどうかはわからない。血は出た。肺は削れた。寿命は少し、短くなったかもしれない。けれど、麦の芽は土の中で動き、井戸の水はほんの少し深くなった。祈りは数が増えたが、重さは減った。重さの減った祈りの下で、人は動ける。動く人が増えれば、神殿の鈴は鳴らなくても困らない。

 ——見ていなさい、天の連中。

 私は心の中で笑い、天蓋の布に指で小さな円を描いた。病室剣の六の型。名を借り、返すための稽古。蒼銀姫という呼び名が、私の首を締める鎖にならないように。鎖は、飾りにする。飾りは、光を集める。集まった光は、麦にやる。

 血の味は、もうしない。代わりに、蜂蜜とパンの匂いが微かに漂ってきた。誰かが持ってきたのだろう。窓の外で、子どもの声がまた上ずる。蒼銀姫——。私は「はい」ともう一度、声に出した。声は細い。細いが、折れない。折れないうちは、使える。

 初陣は、名を生んだ。名は、道具だ。私はそれを使う。使って、この国に水を回す。刃は眠らせ、呼吸を起こし、道を作る。蒼銀は布の下で息をし、私は布団の上で息をした。息は、命の証。痛みも、命の証。証があるうちは、やれる。

 次の鐘は、きっと昼の音で鳴る。私はそれを楽しみに、目を閉じた。

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