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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第6話 蒼銀の剣

 夢の中で、刃は呼吸していた。


 黒く煤けた天幕の裂け目から星が一筋、刃の背を撫でて落ちる。刃は人の言葉を持たず、それでも意味のある角度で私に向き、空気を押し分けた。終焉剣アルトリウス——かつて私がその名を与え、私が最後にそれを振るい、神の心臓に突き立てた鋼。あの時、世界は一度だけ正しい音で割れた。


——お前が神を殺した日を、覚えているか。


 音は、雪に吸われない雷鳴のように、胸の内側でだけ反響した。私は頷くかわりに、呼吸をひとつ、遅らせた。終焉の直前、神は人の顔で笑い、後光の縁に小さな皺を寄せた。慈悲ではなかった。損得の計算だ。刃はその計算式ごと割った。光が泣き、私は燃え尽きた。その燃え残りが、いまの私だ。


——覚えているなら、選べ。再び握るか、再び手放すか。


 夢はそこで、刃先の振幅だけを残して崩れた。目覚めたとき、枕元の空気が震えていた。灯りは落としている。けれど暗闇が青い。影は影のままなのに、輪郭を持つ青が滲みて、天蓋の星刺繍がうっすらと夜光虫のように光って見えた。


 枕元に——それはあった。手のひらより少し長い短剣。刃は青銀〈あおぎん〉に濡れ、鍔は飾り気のない十字、柄には布ではなく薄い革が巻かれている。刃文はない。だが、空気を撫でるだけで指の骨にまで届く細い震えが走る。魔力、と呼ばれるものの表層。奥にあるのは、もっと硬いものだ。意志。刃の“意志”。


 私の指輪が、夕焼け色をひと瞬き濃くした。終焉剣アルトリウス——その名を口にせずに思い出すと、短剣の青はわずかに暗くなり、膜のような光が表面に張った。防ぐ気だ、と無言で笑う。名を縛りにしない。名は鎖になる。刃は鎖を嫌う。誰より私が知っている。


 扉が叩かれる前に、メイドのフィオが悲鳴を飲み込みながら部屋に飛び込んできた。次いでミナ。灰騎士カイルは影の位置から動かず、扉の枠に手を添えたまま、視線だけで状況を測る。


「お嬢様——!」


 フィオが膝をつき、ミナが短剣に近づこうとして、指先で空気の“拒み”に触れて止まる。彼女の睫毛が小さく震え、掌を腹のほうへ返した。


「青……光ってる」


「触れるな」


 カイルが低く言う。命令ではない。報告でもない。石の上へ置かれる配慮だ。私は目だけで彼を見る。彼の手の甲。見えないはずの《誓約》の痕が、暗闇の中でさらに見えない。だが、痒みは伝わったらしい。彼は手を握り、ゆっくり開く。短剣と彼の距離は、射程の外側——半歩。


 やがて父が来た。髪の銀糸が寝間着の襟に触れ、彼の背で夜がきしむ。父は短剣を一瞥し、つぎに私の顔を見た。判断は早い。


「塔の地下へ。封印だ」


 命令は最短で、最善ではない。だが、公爵としてのそれは、屋敷を守る作法として正しい。ミナが抗いかけ、私が目で止める。使えるものは全部、使う。封印も——道具だ。封印は鍵穴を教えてくれる。


 神殿から呼ばれもしないのに神官は来た。彼らは青い光を見て目を輝かせ、「神の贈り物だ」と口を揃えた。贈り物。私は笑う。神の贈り物はいつも、見返りを求める。掌を上に向けさせ、膝を折らせ、うなじに口づけるふりをして牙を立てる。贈り物——それは呪いの表紙だ。


 短剣は布に包まれ、三重に封蝋を押され、塔の地下へ運ばれた。塔の地下は、かつての戦のための貯蔵庫と、かつての祈りのための隠し部屋が複雑に連結している。石段は冷たく、息は白い。壁には古い印が残り、神殿の者たちが新しい印を上塗りする。古い印は「守る」。新しい印は「隔てる」。語彙は似ているが、意味が違う。守る者は中へ置く。隔てる者は外へ追い出す。


 封印の儀は手際よく進み、短剣は黒い石の箱に納められ、蓋に金属の棒が二本、横木のように渡された。鍵は三つ。神殿、大司教、公爵。儀の終いで大司教は白い手袋を外し、封印の印に指を当てて言った。


「これは神のご厚意。民の信仰が戻れば、この刃は“祝福の剣”として公にされる日も来ましょう」


 私は何も言わない。言葉は、ひと呼吸で、刃の角度を変える。今は狙わない。狙うふりすらしない。病室剣の四の型。——受け流す。


 夜になるのを待つ。待つ間に、熱が上がった。体は正直だ。異物は内外の区別なく、体を硬くする。ミナは額の汗を拭き、蜂蜜と薬草の温かな飲み物を作る。彼女は言わないが、目で言う。——行くつもりでしょう。私は目で答える。——行く。彼女は頷き、灯りを消す順番を、いつもと同じにした。いつもと同じは、強い偽装だ。


 塔の夜は、風の楽器だ。石段が低く鳴り、鋼の留め金がときどき笑う。カイルの足音は一定で、石の数を数えるのにちょうどいい。私は足音の隙間——“間”に、自分の一歩を滑り込ませる。呼吸の稽古は、このためにあったわけではない。それでも、役に立つ。


 地下の最下段。封印の間。壁の燭台は半分が落ちている。残りの半分の火も、怯えて縮んだ。黒い箱は石の台の上。大司教の印はまだ新しく、蝋の香りがうすらに鼻を刺す。箱の表面に、薄い霜のような青がかかった。呼んでいる。いや、呼んでいない。ただ、そこに“在る”。在ることは、呼応だ。


 私は石の箱に触れない。指を箱の上に数呼吸、浮かせる。体温で蝋の気泡がわずかに膨らむ。膨らんだ気泡に、古代語を置く。《ほどけ》。音は出さない。言葉は刃ほど鋭いが、触れれば切れる。切れれば血が出る。血が出れば、神殿の鈴が鳴る。鳴らせない。


 蝋は鳴らない。代わりに、金属の横木が小さく縮む音がした。音というより、負担から解放された金属が吐く安堵。私は息を吐き、もう一つの横木に指を滑らせる。細い震えが皮膚から骨へ、骨から記憶へ広がる。終焉剣アルトリウスの柄は、最後に触れた私の手の形をまだ覚えている。


 「……来た」


 背後の闇が形を持つ。カイル。ここで彼に捕まる手筈は、父とミナの台本だ。捕まれば表向き“公爵家の規律”が守られ、神殿への顔も立つ。私はその台本を最初から読み、最初から破り、最初から利用するつもりだ。


 彼は近づかない。敷居の外に立ち、声を低くする。


「護衛として申し上げる。——射程内」


 言葉は、壁の石に吸われずに届いた。それは自白ではない。宣言でもない。合図だ。射程内、つまり、私が倒れたら抱きとめる距離。だが、止めはしない距離。私は頷かない。頷けば、誓いは両方向の檻になる。私は箱に顔を向けたまま、指で小さな円を描いた。病室剣の二の型。握らず、ほどく。


 箱が、静かに呼吸した。蓋は自ら開かない。だが、固執をやめる。私は両手を箱の縁に置き、肩の力を抜く。腕が震える。肺が怒る。怒りは生きている証拠。私は怒りに謝り、刃の代わりに言葉を差し入れる。《出て、来い》。


 青い光が、箱の内側から一筋、外へ伸びた。夜光虫の川のように、石の台を滑って私の手の甲を舐める。冷たさはない。熱もない。温度の前の何か。世界が生まれるとき、最初に鳴るはずだった音が、遅れて届いたみたいに皮膚をなぞる。


 私は柄に触れた。短剣は軽い。軽さは武器だ。振り数が増える。だが、これは振らない。振らずに、在る。掌に収まった瞬間、刃は光を薄くして、自分の影を生んだ。影は足元に剣の紋になって広がる。祭壇の前で床に浮かんだ紋と同じ形。刃渡りの短い、片刃。あの日の理。


「お止めしますか」


 カイルが問う相手は彼自身だ。彼の手の甲は疼かない。痛みが“合図”のうちは使える。だから彼は使う。止めるふりをしない代わりに、見届ける。私は刃を布で包み、体の前ではなく、背に差す。いつでも落とせる位置。落とす選択肢を最後まで持つ。これが鎖を避ける一番の方法。


 部屋を出る前に、私は短剣をひと呼吸ぶんだけ握った。青は深くなり、掌の皮膚に古代語の輪郭が浮かびかけて——消えた。私は小さく笑う。


「これは贈り物じゃない」


 囁きは自分に向けたもの。贈り物を受け取る所作は、身体が覚えてしまう。神殿はそこを突く。私は掌を開き、刃の重みを消すように呼吸を平らにした。


「呪いの証明よ」


 呪いは、証明になる。神を殺して世界が枯れたのなら、神が世界に水を独占していた証拠。刃が現れて民が食にありつけたなら、神が“分け与える力”を独占していた証拠。証拠が揃えば、次にできることはひとつ。水路の付け替えだ。加護の水を、信仰の塔から地下の根へ。


 地上に戻ると、夜は息をひそめていた。塔の上では、青い花は咲いていない。咲いていないのは、咲かないからではない。今夜は刃が咲いた。花と刃は、順番で来る。民が眠る間に、私は机に地図を広げた。内側の地図。倉庫、井戸、貧民区の教会、神殿の地下水路。青い線を一本、塔の地下から引く。封印の間の隣室。かつて祈りの水を溜めた石槽につながっているはずの細い溝。そこに、穴をひとつ。


 翌朝、神殿は騒いだ。封印の印は崩れていない。箱の蝋も割れていない。短剣は——当然、箱の中にある。青い光は薄く、眠っている。私は昨夜、箱に「影」を置いてきた。抜いた本の代わりに同じ重さの石を置くみたいに、青の膜で箱内の気配をなぞった。神殿は見た目を信じる。信仰とは、見た目を整える技だ。


 ミナは目を丸くして、何も言わなかった。言葉よりも確かな拍で、今日の呼吸の稽古を始める。フィオは昨夜のうちに解かれた縄の跡をまだ手首に残し、それでも朝の紅茶に砂糖を一匙余分に入れた。彼女の甘さは、戦のあとの砂糖水みたいに身体を立て直す。父は神殿からの使者と会う準備をし、灰騎士は巡回路を一つ変え、北東へ向かう細い路地を長く歩いた。


 短剣は、私の部屋の壁の裏——天蓋の柱に隠した細い空洞の中で、薄く光っている。私はそれを取り出さない。取り出すのは、まだだ。刃は、振らぬほどに鋭くなる。噂は、市井で勝手に育つ。青い剣。神の贈り物。祝福の刃。どれでもいい。名を与えよ。名は指標だ。私は別の名を、胸の内側にだけ置く。


 ——蒼銀〈そうぎん〉。


 見たままの色であり、見えない温度。蒼銀は贈り物ではない。贈り物なら、包装紙が剥がれた瞬間に終わる。これは終わらない。呪いの証明は、いつだって長い。長く続ける術は、呼吸だ。呼吸は、私だ。誰にも返礼しない呼吸。返礼しないことは、非礼ではない。自立だ。


 昼過ぎ、神殿の鐘は鳴らなかった。代わりに、城下の井戸で水が濃くなった。昨日まで薄かった水面に、青とも緑ともつかない光の粒が揺れ、桶を深く沈めた者だけがそれを掬えた。誰かが言った。「奇跡だ」。誰かが返した。「人が掘った溝だ」。どちらでもいい。水が動いた。水が動けば、麦は芽吹く。麦が芽吹けば、行列は短くなる。


 夜、私は窓を少しだけ開けた。塔の先に、青い花は——咲かなかった。その代わり、短剣の影が、天蓋の布にひそやかに揺れた。私は囁く。


「見ているんでしょう? 天の連中」


 返事はない。なくていい。私は掌に青を宿し、指輪の赤と並べて見比べた。夕焼けの赤は、終わりの色と始まりの色。青銀は、証明の色。二つが並ぶと、奇妙に落ち着く。世界は二色で成り立たない。だが、二色を選ぶことはできる。選んだ色で、夜を塗り替える。


 ミナが戸口に立ち、わずかに驚いた顔で笑った。「今夜は熱がない」。私は頷く。痛みは、合図だ。合図が消えたとき、次の段取りへ進む。刃は眠らせ、呼吸は起こす。神殿は封印を誇り、私は封印を回路に変える。灰騎士は影で射程を測り、父は文机で言葉の刃を研ぐ。


 終焉剣アルトリウスの声は、その夜、もう一度だけ来た。


——選んだのだな。


 私は答えない。答えは刃でなく、行動で示す。蒼銀は布の下で薄く震え、夜は静かに伸びた。塔の外では鳥が一度だけ羽ばたき、すぐに眠り直した。明日の朝、神殿はまた新しい祈りを増やすだろう。増やせば増やすほど、祈りは軽くなる。軽くなった祈りの下で、私は重いものを動かす。倉庫の扉。水路の石。人の習慣。


 これは贈り物ではない。呪いの証明だ。証明が揃えば、裁判ができる。神々が黙っているのなら、人が裁く。人を殺す裁きではない。神の独占をやめさせる裁きだ。私は裁判官にならない。刃にもならない。呼吸になる。呼吸は増える。増えれば、火はつく。火がつけば、誰でも手をかざせる。


 窓辺で私は目を閉じ、病室剣の型をひとつ、静かに打つ。握らず、ほどき、間を聴く。青い光は掌で弱くなり、指輪の赤がほんの少し強くなった。夕焼けは、明日の朝に続いている。蒼銀の刃は、朝に強い。朝は、私の領土だ。神の領土ではない。

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