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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第4話 祈祷式の異変

 神殿の大扉は、最初の一寸で世界の音を変える。

 引き戸ではない。左右に割れる石の翼。磨かれすぎた白が朝日の粒を砕き、参道の両脇に集まった人々の歓声と祈りを、すり潰してから中へ運ぶ。香が焚かれている。乳香とミルラに、城下のパン屋の甘い匂いが混ざり、目の奥を痺れさせた。

 視察までの時間稼ぎ——のはずの“祈祷式”。病の回復を祝う名目で開かれる、公開の儀。父は「王都の顔を立てるための寸劇だ」と短く言った。寸劇は嫌いではない。脚本がこちらにあるかぎり。今日は、半分だけこちらの脚本だ。残り半分は“上”の即興。だから、私は呼吸の“間”を、いつもより長く取る。

 ミナは礼服に身を包んでいるが、白衣の匂いを消さない工夫をしていた。彼女は香油の代わりに、わずかに薬草を袖に忍ばせる。私が嗅ぎ慣れた安心の匂い。フィオは緊張しきっていて、手袋の端が少しずれている。直そうと手を伸ばしたら、彼女が先に気づいて自分で整え、私に「大丈夫です」と口の形だけで言った。

 灰騎士カイルは、神殿の石に飲まれても色の変わらぬ灰色で、四歩下がってついてくる。射程内。だが影の濃さは一定に保ち、存在の輪郭を過度に浮かび上がらせない。神殿が“異物”を検知するときの閾値を、直感で知っているのだ。彼の剣は封じられ、鞘口に封蝋が押されている。神殿に入る者すべてへの形式——だが、その蝋印は神殿の紋ではなく、公爵家の紋だ。父のささやかな牽制。

 大広間は、天井が高すぎる。音が上に逃げ、祈祷歌が薄く舞い、柱が森のように並ぶ。中央に祭壇。その奥に、神像。人の形をしているが、目は刻まれていない。瞼だけが、たっぷりと彫られている。見ているふりの瞼。昔、私はそこに刃を突き立て——いや、まだ思い出すな。思い出し方は、こちらで選ぶ。

 大司教は白よりも薄い金色の法衣をまとい、私たちの前に歩を進めた。年齢は、神殿の柱よりは若い。だが手の皺は深い。昨日、塔の上で青い花を見たと言ったら、この男は信じるだろうか。信じるだろう。信じることにかけて、神殿は古い訓練を積んでいる。

「ヴァルミラ公爵令嬢、アリア。祝福の子よ」

 祝福。口の中で砂になる言葉。私は膝に意識を落とし、崩れぬ角度で立つ。大司教は続けた。

「今日は、御身が光に返されたことを、神々にお返しする日。血も、涙も、呼吸も、すべて神の造作。返礼すれば、また頂ける」

 呼吸は私の造作だ、と喉まで出かかったが、飲む。返礼の動作だけは整える。胸の前で両手を組み、額に寄せ、下ろす。病室剣で磨いた指の動き。紙一枚を挟んで破らない力。祈りは剣に似ている。刃を見せずに街道を通る技。

 儀が始まる。神殿歌の旋律は単純だが、単純であるほど、耳の奥へ長く残る。踏み台の段差を一段上がるたび、心臓は慎重に拍を選ぶ。ミナの気配が後ろで拍を刻み、フィオの気配が祈りを重ね、カイルの気配は砂ではなく石の上に立ち、動かない。父は列の横で、王都の役人と騎士たちの顔色を、無表情で確認している。

 祭壇の前で、私は一度だけ目を閉じた。香が強くなる。大司教が祝詞を唱え、青い煙が天井へ吸い込まれる。煙が瞼の裏に影を描く。影がやがて、形になる。

 “それ”は、鳥のような声で笑った。

 笑いは、最初、優しかった。理解されたい者の笑い。次に、諦めた者の笑い。最後に、愉しむ者の笑い。

——お前は、神に触れた。穢れた者。

 言葉は内側から聞こえた。耳朶ではない。骨の空洞を撫で、背骨に沿って冷たい指を這わせる。「穢れた者」のところで、指先が心臓を叩いた。叩かれた心臓は、私のものだった。神のものではない。

 私は目を開けず、目を開いた。視界が二重に重なり、神像の瞼の彫りと、燃えた天幕の裂け目が一致する。昔の天幕は、風が吹くたびに星を零した。今の天井は、星を拒む。大司教の祈祷は続く。周囲は、何かを期待している。奇跡。ああ、奇跡。最も安い単語。

——返せ、穢れ。返礼の仕方を教えてやろう。

 笑いが鋭くなる。私の内側の熾きが、ふっと息を飲む。ここで燃えれば、燃やされる。主導権は、言葉にある。なら、別の言葉を。

 私は、ゆっくりと吸い、止め、吐き、——間を聴いた。間は、何もないのではない。間には、選択がある。私は間の底に指を入れ、ほんの少しだけ、何かの蓋をずらす。

 涙が、熱くなった。熱いのに、冷たい匂いがした。鼻の奥に鉄の味。頬を伝う感覚は、水のそれと同じなのに、重さだけが違う。床に落ちる音は、しなかった。石は音を飲む。代わりに、香炉の煙がひと筋、逆流した。

 誰かが息を呑む。誰かが「血だ」と囁く。誰かが「奇跡だ」と呟く。奇跡は便利だ。説明を省略できる。私は目を開く。世界は白っぽく、中央だけに色が集まっている。色は赤。私の涙は、赤い筋を描いて顎へ落ち、そこから空中でほどけて床に触れ——広がらない。

 広がらない血は、線になる。線は、やがて紋になる。

 床の上に、剣が浮かび上がった。光ではない。濡れた跡が、乾いた石の上で形を取り、先端を祭壇に向け、柄を私の足元に置く。刃渡りは短い。片刃。軍用。見栄えより機能。私の剣だ。アルトの剣だ。いや、剣の“理”だ。

 大司教の声が、祈祷ではない高さに割れた。

「……これは」

 彼は膝が言うことを聞かないといった風に、前のめりに一歩進み、止まる。金の法衣が鈍く揺れる。彼は、言う。

「神殺しの印」

 広間の空気が、ひゅっと細くなった。参列者の何人かが後退し、何人かが前へ出る。剣を抜く者はいない。神殿の鈴は、やはり鳴らない。代わりに、蝋燭の炎が一斉に低くなる。風はない。恐れは、風より速く火を削る。

 私は笑った。笑いは、冷たい。勝ち誇りの笑いではない。思い出し方を選べた者の笑い。

「なら、私が誰かを思い出したのね」

 声は小さい。だが、広間には届いた。音が逃げる天井が、たまたま一度だけ音を返したのだ。父の視線が、遠くで鋭く光る。彼は即座に前へ一歩——出ない。出ないことを選ぶ。動かないことは、最強の動きだ。ミナは私の肩に手を添え、小さく圧をかける。今、崩れれば儀は「中断」になる。中断は、神殿の台本。完遂は、こちらの台本。

 大司教が口を開く。言葉は震えたが、言葉の選択は素早い。

「誤解なきように——これは、贖いのしるしでもある。かつて神に触れ、穢れに触れた者が、今、光に返ろうとしている」

 言い換え。早い。神殿は古い戦場で訓練を積んでいる。だが、その言い換えは、私の耳には呪詛の裏返しにしか聞こえない。返ろうとしている? 誰が? どこに? 私の呼吸は私のものだ。私の血は、私の涙だ。私の剣の影は、私の足元から伸びる。光に返す気はない。光は、貸した覚えがない。

 カイルの気配が、石の上で一段だけ濃くなった。彼は動かない。だが、石が彼の靴底の形を覚えた。射程は保たれ、視線は私の横顔ではなく、祭壇と参列者の間を往復する。彼の手の甲に、目に見えぬ痒みが走ったはずだ。昨日の紋は沈んだが、痕跡は残る。痕跡は、天候のように、動きの予兆を変える。

 私は剣の紋に視線を落とし、呼吸の“間”に、短い古代語を置いた。

《聞こえるか》

 返事は、笑いではなかった。風のない場所に生まれる、紙の擦れる音。神像の瞼の裏で、何かが一度、瞬きをした。見えない瞳は、私を見ない。見ないのは、見られている側の礼儀。よろしい。礼儀は守る。戦は、次の段取りへ進む。

 祈祷式は、予定どおりに終わった。終わらせた、と言ってもいい。大司教は「剣の紋」を吉兆の新解釈で包み、参列者はそれを安堵の袋に入れて持ち帰った。王都の役人は早書きを走らせ、公爵家は石の上に布をかぶせ、紋の水分が消えるまで誰も踏ませなかった。カイルは廊下で封蝋の剣に添え手をし、ミナは私の指の付け根の冷えを確認し、フィオは震える手でマントの留め具を外した。

 外へ出ると、石段の上に鳥がいなかった。昨日まで人に慣れてパン屑を拾っていた白い鳥たちが、一羽残らずいない。空は青すぎるほど青く、鐘楼の影だけが長い。神殿の鈴は、やっぱり鳴らない。代わりに——どこからともなく、羽音がした。

 それは、夜の予告編だった。

 その夜、塔の外で、鳥たちが一斉に飛び立った。響き方が、昼の鳥ではない。寝込みを起こされた森のように、暗がりから暗がりへ、黒い風が移動する。羽ばたきは統率も混乱もなく、ただ“向き”だけが一致していた。北東。平原のほう。神殿ではなく、城壁でもなく、彼方。

 私は窓を開け、夜の風を肺に入れた。血の匂いはない。香の匂いもない。代わりに、雨の前の金属の匂い。雷は遠い。けれど、地面の下で石同士が擦れ合い、火花を我慢している音がする。

「聞いていたわね」

 私は夜に言う。返事はない。だが、塔の先で何かがわずかに光った。青い花は見えない。見えないのは、咲いていないからではない。夜だからだ。夜は、花を内側で咲かせる。

 ミナが静かに入ってきて、温かい液体を差し出した。蜂蜜と少しのスパイス。解くための味だ。私は受け取り、一口飲む。身体が丁寧にほぐれる。ほどけすぎないところで止める。ほどけすぎると、戻らない。

「痛みは?」

「……覚えている、という痛み」

 声は出ない。唇の形だけで、ミナに伝える。彼女は頷く。

「痛みが“合図”であるうちは、使えます」

 彼女の言葉は、戦の野営地で聞いた軍医のそれと同じだった。あの頃の軍医は、いつも火の粉を払う手のまま、平然と言った。「生きている証拠です」と。

 フィオが窓辺の鳥の影を見て、身震いした。「不気味……」と呟いてから、「すみません」と自分を叱る。私は首を振り、彼女に椅子を勧める。彼女は座らない。座らずに、夜の鳥を数えた。数えられない数を数えようとするのは、祈りに似ている。

 扉が軽く叩かれる。カイルだ。彼は入らない。

「護衛の交替を、塔の影で行う。巡回は倍に」

 短い報告。彼は、祈祷式で起きたことを、自分の言葉で名指ししない。名を与えれば、鎖になる。彼は剣の理を知る。私は目を細め、窓の外の鳥に視線を返す。灰の騎士は、鳥を見ない。見ないことで、鳥の向きを受け取る。明日の朝、彼は何も言わずに北東の巡回を厚くするだろう。私が言わなくても。

 大司教からの書状は、その少し後に届いた。丁寧な文で、次回の祈祷式では“封印の祈り”を追加したい、とあった。封印。私は笑う。封印は、鍵を用意した者の勝ちだ。鍵は、こちらにある。鍵穴も、こちらで決める。

 机に広げた羊皮紙に、私は小さな円を描いた。円の内側に、剣の紋の簡略形。刃の向きは——北東へ。ミナが覗き込み、うっすらと笑う。

「地図ですか?」

「うん。——内側の」

 私は指輪の赤を光にかざす。夕焼けの色。血の色ではない。終わりの色と始まりの色が重なる分岐点。呼吸を吸い、止め、吐き、間で選ぶ。祈祷式は“奇跡”で終わったことにされた。ならば、その奇跡は道具になる。神の声は嘲りだった。嘲りは、刃を研ぐ音に似ている。よく聞けば、音程が選べる。

 思い出したのは、罪悪ではない。名だ。私は私の名を思い出した。アルト。アリア。二つが重なったとき、血は涙になり、涙は剣になった。大司教が青ざめた理由は、神殿の古い書にある。神殺しの印は、悪ではない。——独立だ。神の管理の外で呼吸する者の印。支配を拒む者の、合言葉。

 なら、私は合図を出し続ける。青い花に。飛び立つ鳥に。灰騎士に。父に。ミナに。そして、私自身に。

 夜が深くなっても、鈴は鳴らない。鐘楼の影が窓の縁まで届き、部屋は石の洞のように静かになる。私はベッドに戻り、天蓋の布に指で小さな円を描いた。病室剣の三の型。——結ぶ前に、ほどく。ほどく前に、測る。

「見ていなさい、天の連中」

 囁きは風に紛れた。返事はない。必要ない。返礼は、こちらのやり方で。血と涙と呼吸の数で。剣の紋は、床から消えた。だが、消えたものほど、長く残る。明日の朝、参道の石に、誰かが似た形を見つけるだろう。偶然の水の跡。否、それは偶然に見えるように置いた“印”。

 私は目を閉じる。泣きはしない。泣きは使う。祈りはしない。祈りは読む。眠りは、味方にする。深いところで、鳥の羽音が大河の流れに変わる。北東。平原。昔の戦場が、もう一度、地平線からこちらを見ている。

 ——覚えておきなさい。私が選ぶのは、贖いではない。攻略だ。神に触れた手は、もう神を持ち上げない。扉を押し開ける。鍵は、ここにある。

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