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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第3話 灰騎士との出会い

 砂は、剣のために敷かれている。

 朝の庭。城壁の内側、北棟と馬屋の間に細長い練兵場がある。踏み固められた砂地は夜露をまだわずかに含み、足の裏で鳴らすと低くさく、と鳴く。その中央に立つ男の上着は灰色で、陽の光に晒されても色味を変えない。灰騎士。カイル。

 彼の剣は、飾らない。振りは小さく、歩幅は狭く、肩は落ちている。だが刃先は終始、同じ高さで空気を切り、砂の上に描かれる足跡は、糸を引くように真っ直ぐだ。見栄えのない剣筋。けれど“理”がある。無駄がない、という言葉では足りない。無駄になる前に削ってある。消耗が起きる前にかわしている。戦場で長く生き延びた者の剣だ。

 私は歩く。十歩、踊り場、十五歩、角、二十歩。病室剣の稽古で得たわずかな距離感を、廊下から庭へ延長する。ミナが肩に手を添え、フィオが日除けの傘を持つ。父は来ない。彼は今日、来客と会っている。神殿の人間ではない。軍の古参だと聞いた。視察までの三十日を“戦”に変えないための、布陣。

 庭へ出る扉の前で足を止め、呼吸の“間”を長く取る。風の匂いが変わる。薬草と煮込みの匂いのかわりに、革と油と土が肺に入る。世界が鋭くなる。胸の内側に、小さく火が走った。

 カイルは、こちらに気づいても目を向けない。稽古の終いまでは視線を動かさないのだろう。彼は最後の型で刃を収め、鞘に入れる音すらも音楽にしない。静かに刀身を拭き、とって返すと、ようやくこちらに会釈した。無口、という前評判に相応しい。だが、挨拶はある。

「体調は」

 低い声。砂利を踏むような、乾いた響き。私は頷く代わりに、指を一本、立てた。——一分、見学。ミナが笑みで補足する。

「陽の下での訓練は、刺激としては強い。ですが、今日は“目の稽古”だけ。視線の掃除です」

 カイルの眼差しが、わずかに変わる。掃除? と無言で問う。ミナは肩をすくめる。

「視線は埃を溜めやすい。余計なものに引っかかる癖を落とすのです」

 私は砂場の縁の石に腰を下ろし、カイルの立つ位置を中心に円を描くように視線を動かす。刃の角度、足の拇指球、踵の沈み方、肘の高さ、肩の落とし方、息の出口——目が拾う。拾いながら、戦場の地図が胸の内側で自動的に起動する。アルトの癖は、ここでも生きている。

 彼の間合いは、短い。短いのに、届く。届く理由は二つ。ひとつは初動の速さ。もうひとつは、“相手が踏み込む一瞬前の癖”を知っているから。相手が踏み込む瞬間、膝がほんの少し“内”に入る。視線が、胸から喉に一拍だけ浮く。そこを打つ。あるいは、そこに刃を置いておく。それだけで、勝ちが一歩近づく。

 戦場の理。私はふと、笑いそうになる。彼は“知っている”のに、“知らない”。

 ——なぜ?

「カイル」

 ミナが呼ぶ。「数合だけ、素振りを」

 灰騎士は無言で頷き、砂の上で軽く足をずらす。構え。剣が鞘から滑る。空気に薄い傷が入る。周囲の衛兵たちがざわめきを飲み込み、砂上の小さな音だけが遠くまで届く。

 ——その足幅は、北方平原のものだ。

 気づいた瞬間、肺がひゅっと鳴った。砂の粒の跳ね方、踵の打ち込み方、刃の角度。私がかつて統べた“あの地”の合理が、ここにある。私の兵と似ている、ではない。私の兵の“語尾”だ。獣の匂い。寒風の癖。雪の硬さ。平原の剣だ。

 胸の火が、いきなり大きくなる。熾きが吹き上がり、炭が爆ぜる。肺が抗議を始め、視界が白くなる。ミナの声が遠い。

「アリア?」

 私は立ち上がろうとした。立ち上がる、という行為が、これほど複雑で苛烈な全身運動だと、何度目かに理解する。膝が笑い、足首が叱り、背筋が軋む。砂が、景色を斜めにする。世界の重力が、私の体を——

 傾く前に、抱きとめられた。

 灰の匂いと革の硬さ。胸板の下で低い鼓動。カイルの腕が、驚くほど静かなやり方で私を持ち上げる。急いでいない。だが遅くもない。転倒の先にある怪我の予感を、完璧に読み切っている腕だ。私は無意識に、彼の胸当てに指を触れた。

 ——その瞬間、青が咲いた。

 彼の手の甲。皮手袋の縁から露出していた素肌に、蒼い光が浮かび上がる。蔦のように絡まり、幾何学のように割り、最後には一文字に収束する。古い言葉。古いのに、読める。私の骨が、私の戦が覚えている。

《誓約》

 砂が一斉に息を呑む音を立てた。衛兵の誰かが剣を半ば抜き、ミナが即座に「抜くな」と短く制する。フィオが悲鳴を飲み込み、両手で口を覆う。風が止まった。いや、止まっていない。私たちの時間だけが縫い止められた。

 カイルは——見下ろす目で自分の手を見る。しかし驚愕で目を見開きはしない。眉根が、ほんのわずか寄っただけだ。彼は光を“理解する前に、把握する”。手の甲に現れた紋様が、単なる火傷や魔性ではなく、“状態”であることを、確かめるように。

「離れろ」

 ミナが近づく。彼女は光の近くに手を伸ばしかけ、寸前で止めた。指先に“拒む”静電が走ったのだ。私は息を整え、無理に声を押し出す。

「……大丈夫」

 カイルが私を見る。瞳は明るくない。灰色の、深い井戸。そこに、私の声は石のように落ちた。波紋は、すぐに消えた。彼は頷き、私をそっと石の縁に戻す。離すときも、無駄がない。抱くときと同じだ。

 蒼い紋は、ゆっくりと褪せていく。最後に、皮膚の下へ沈んだ。痕はない。だが、見た者の眼には残る。衛兵たちがざわめき、遠くで鈴の音——ではない、馬屋の鎖の触れ合う音が鳴る。神殿の鈴は、やはり鳴らない。

 私は、紋様が最も濃いときに読めた古代語の輪郭を、心の中でなぞる。《誓約》。誓い、契約、縛り。用途は多い。戦場で最も嫌った言葉のひとつだ。誓いは仲間を救うと同時に、手足を奪う。鎖はいつだって、最初は温かい。

「……覚えが、あるのか」

 カイルが口を開いた。問いは短い。彼自身に向けたものにも聞こえた。私に、ではない。

 私は首を横に振る。——違う。覚えがあるのは私のほうだ。彼の剣筋に刻まれているのは、過去の主従の記憶。主は私。従は彼。いや、そう“だったかもしれない可能性”。断定は、まだ早い。戦は、確定で始めない。

「誓約の紋……」

 ミナが低く呟く。「古い記述でしか見たことがありません。主と従、あるいは守護と守護される者の間に生じる、連絡の印。力の貸与ではなく、意思の同期。——だが今、誰も儀式をしていない」

 衛兵の一人が自分の胸で印を切る。恐れの匂いが漂い、砂の上に見えない線がいくつも引かれる。噂は、廊下より砂の上で速い。誰かが走った。父へ知らせに。

 私は立とうとした。ミナが肩を押さえる。彼女の目が告げる。——今は、動くな。見よ。

 カイルは手の甲から視線を外し、私を見た。彼は一歩下がり、膝をつくでもなく、屈むでもなく、ただ立ったまま軽く頭を垂れた。礼に似た、だが従属ではない角度。そこに、彼の“無記憶の矜持”がある。覚えていなくても、誇りは崩れない。剣の理が支える。

「護衛として、申し上げる」

 言葉が砂を押すように出た。「以後、アリア様は私の射程内で行動を」

 射程。戦場の言葉。私は息を止め、次の一拍で吐く。——危険だ。射程の概念に自分を委ねるのは、鎖の最初の輪に指をかけること。容易い。気持ちがいい。だが甘い。

「不要」

 喉が焼ける。声にならない声に、ミナが眉をひそめる。私は唇で形だけを作り、指で伝える。——今は。不要。カイルの目が僅かに細くなる。拒絶と受容を同時に読み慣れている目だ。彼は頷き、半歩だけ下がる。射程を維持しつつ、距離を尊重する半歩。

 父が来た。速い。灰色の外套が砂の上で短くはためく。彼は一瞥で場の形を掴み、ミナに視線で問う。彼女は簡潔に答える。

「紋が出ました。《誓約》。儀式なし。双方に負荷なし」

 父の表情は動かない。だが眼が、カイルと私の間に見えない線を引いた。彼は私の前に立ち、膝を折って目線を合わせる——ふりをして、声を低く落とす。周囲に聞こえない、父の声。

「王都が動く」

 私は頷くしかない。青い花、鳴らない鈴、そして《誓約》。視察は“確認”から“回収”へ変わる。私を“祝福の器”に収め直す計画が、彼らの机の上に載る。父は続ける。

「選べ。鎖を見せかけに使うか、鎖を断ち切るために利用するか」

 選ぶ。今ここで。

 私はカイルを見る。彼は待つ。待つことにかけては、剣より長く稽古を積んでいる男だ。待つ姿勢は美しい。美しさは、時に罠だ。私は視線を外し、空を見る。塔の先端は昼の光に眠っている。昨夜の青はない。だが、見えないだけだ。花は消えない。輪郭だけが灰に埋もれている。

「……ならば」

 指が動く。ミナと父だけに届く、病室剣の合図。——鎖は、見せかけに使う。《誓約》は護符であり、誘導灯。王都の視線を、灰騎士へ集める。その間に、私は呼吸を伸ばす。剣を持たぬ剣士のまま、距離を稼ぐ。

 父が頷きかけ、すぐに表情を戻す。彼は場の声量を上げ、誰にでも聞こえるように言った。

「灰騎士カイル。娘の護衛を、重任とする。王都には“護衛の強化”として文を出す」

 宣言は簡潔で、解釈を多く含む。王都が読む“誓約”の意味は、彼ら次第。だがこちらの意図は一枚深いところに沈めておける。カイルは片膝をつき、剣の柄に手を置いた。礼ではない。準備の構え。

 衛兵たちの緊張が形を変える。恐れから従いへ、従いから任務へ。名が形を作る。《誓約》は、もう噂ではない。仕事になった。

 その日の午後、私は再び病室に戻った。疲労が骨を空洞に変え、熱が指に雪崩れてくる。ミナは手際よく薬を用意し、フィオは静かな手つきで枕を整える。窓の外では、カイルが一定の速度で廊下を巡回しているのが影でわかる。射程内、という彼の言葉を、私は便利に使う。使いながら、心に釘を一本打つ。

 ——縛られるな。

 夜、塔の上に青いものは見えなかった。だが、風の向きが変わった。神殿の高塔に集まる渡り鳥が、方角を少しずらした。遠い鐘の音が、かすかに詰まった。私は眠りの手前で、古代語の文字の角を思い出す。《誓約》の最後の線。そこに、別の意味が潜んでいた。

 《誓約》は、二人で結ぶものだ。だが、誰が誰に“誓う”のかは、毎度、曖昧にされる。古い記録では、誓いは双方向になった瞬間に鎖に変わる。片方向のときは、道具だ。双方向のときは、檻だ。

 ——なら、片道にしておけばいい。

 私は目を閉じる。呼吸の間に、軽い笑いが混ざる。病室剣の二の型。握り、離し、握らない。離し方の稽古だ。鎖の上で踊る技術は、戦場の理のひとつ。アルトも、アリアも、それを知っている。

 翌朝。私が最初の一歩を床に置く前に、扉が軽く叩かれた。

「失礼する」

 カイルの声。彼は部屋に入らず、敷居の外に立つ。「本日より、巡回の折、動線の確認を行う。アリア様の十歩の道に、障害がないか」

 十歩の道。私は頷く。彼は一瞬、足を止め、それから低く付け加えた。

「……紋のことは、覚えていない。ただ、手が覚えていることはある」

 彼は自分の手の甲を見ない。「あなたが倒れた瞬間に、どう動くか。——それだけは、身体が知っている」

 言葉は、古い雪の上を歩く音に似ていた。冷たく、脆く、だが踏みしめれば確かに形を残す音。私は窓辺の青を思い、微かな笑みを返す。声は出さない。出せば、結びが生まれる。今は、結ばない。紐は手に持ったまま、互いに離れて立つ。

 見よ、天の連中。鎖は見えるところにぶら下げるほど、用途がある。私は鎖を飾りに使い、鍵穴に差し込むのは別のものにする。病室剣は今日も剣を振らず、廊下の影に線を引く。灰騎士は影の外で線を守る。守るふりをしながら、世界の視線を集める。

 視察まで——あと二十六日。青い花は、いつ咲いてもいい。咲かなくてもいい。咲くのは、私の手首の内側。見えないところで、脈が“誓い”の速度を上げる。

 ——二度と“信頼”という名の鎖に、縛られはしない。だが、鎖を使って扉を開けることはできる。

 その夜、鏡に向かって私は小さく囁く。

「おやすみ、灰騎士。射程は、互いに測ろう」

 鏡は黙っている。指輪の赤だけが、ほんの一瞬、夕焼け色に濃くなった。神殿の鈴は鳴らない。代わりに、遠い雷が、まだ雲の裏で笑っていた。

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