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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第15話 最後の戦場

 天と地の縫い目が、ついにほどけた。

 雲の裏側に隠れていた階段が裏返り、空から白い根が下りてくる。根は大地を探し当てるたびに、祈祷の古い柱を突き破り、街角の祈り台を粉に変え、井戸の水面に渦を作る。光は熱を持たず、しかし「正しさ」の圧で胸郭を押し潰す。空気が合図のない軍隊のように前へ前へと詰め寄り、人の息は後退を強いられる。

 神々が降りてきた。

 名を列挙しても意味がない。名は鎖だ。彼らは鎖であり、輪であり、法であり、秤であり、歌であり、目であり、雨であり、刃だった。ひとつではない。多すぎる。多すぎるのに、統べる声はたったひとつ。「従え」。それが、風の向きを変え、影の濃さを揃え、子どもの泣き声に蓋をした。

 世界そのものが戦場になった。

 私は広場の真ん中に立った。布で包んだ蒼銀〈そうぎん〉の背を撫でると、刃は布越しに呼吸を返した。白銀に変わった髪を一つにまとめ、堕天の契約が残した薄い黒膜を肩甲骨の内側で震わせる。翼は見えない。見えないほうがいい。天をまねると、天に負ける。飛ぶのではない。面で受け、間で跳ぶ。

 「配置!」

 灰騎士カイルの声が短く、しかし遠くまで届く。最前線の角度を変え、盾に布を足し、通りへと逃げ道ではなく呼吸道を作り、蒸気の庇を三段に重ねる。彼は叫ばない。指で示し、頷きで結び、左手の指先で戸板の節を確かめる。面の弱いところは、布団の綿を集めて厚みを足す。綿は熱を奪いすぎず、祈りの数だけふくらむ。

 「門、閉じる」

 ルイセルの声は低い。堕ちた天使は、天界の門の前に立ち、翼の黒を薄く広げる。黒は影ではない。律だ。彼は指先で空のひびに触れ、ひとつずつ「間」を嵌めてゆく。間は音ではないのに、音の代わりになる。合唱の調子が狂い、天の軍勢は拍を失う。拍を失った光は、ただの昂ぶりだ。昂ぶりは人にもある。なら、勝てる。

 父は城門の上で腕を組み、口を開かない。彼は政治の人だが、今は父だけをやっている。扉の開閉、荷車の順番、井戸の綱の張り、子どもの列の並び。ミナは包帯をほどき直し、火傷の上に薄い油を塗り、祈祷回数の帳面を包帯の芯に巻き込む。フィオは青い布を腕に巻いて、泣きそうな子の靴紐を結び、笑いのスイッチを押す言葉だけを選ぶ。

 ——歌が始まった。

 “神殺しの歌”。名は物騒でも、旋律は優しい。波が砂を撫でるように、細い抑揚が広場から路地へ、窓から屋根へ、屋根から空のひびへ、とじわりじわりと広がる。歌は秤を持たない。秤を持たない声だけが、天の秤を鈍らせる。

 我は秤、と空が言う。ならば、秤を笑わせる。

 私は布を解き、蒼銀を抜いた。刃は静かに青い呼気を吐き、光ではない冷気で世界の輪郭を洗う。病室剣の型。吸って、止めて、吐く——間に刃を置く。足は地に、視線は斜め、声は胸の奥に。

「生きるために——」

 鐘楼の鐘は折れている。鳴らない鈴の代わりに、私の声が鳴る。歌の拍に合わせ、子どもの手拍子に重ね、天の「従え」の真横に置く。

「——神を殺す!」

 静寂が、ほんの瞬間だけ笑った。笑いは、合図だ。

 空が降った。無数の線、輪、円錐、階段、弧、見たことのない幾何が白く重なり、街に落ちる。落ちるたび、パンが灰になり、水が砂になり、ねむりが帳簿に変わっていく。私は蒼銀を水平に出し、面で受ける。刃の面は、名を嫌う。名ばかりの刃は面で鈍り、鈍った名はただの記号になる。記号は、子どもの落書きで上書きすれば勝てる。

 ルイセルが門を閉じ続ける。天井のひびは彼の「律」で塞がれ、塞がれるたびに天の声は途切れる。天は個を覚えないと言った彼が、今は個の手触りで世界の穴を埋めていく。黒い翼の根が痛み、白い羽の残りが霜を吐く。痛みは、彼にも等しく来ている。そう決めたのは、私たちだ。

 カイルは前へ進む。剣を抜かないことも戦いだ。彼は盾を担ぎ、戸板を押し、庇の隙間を体で埋め、倒れる前に倒れそうな者の肘を持ち上げる。敵は光だ。光には「相手」がいない。相手のいない戦場で、彼はずっと相手をしてくれる——生者の。

 天は、こちらの笑いを嫌うらしい。白い根が怒り、一本が大蛇のようにこちらへ走ってくる。根の表面に古い祈文が浮かび、読む者の舌を縛る仕掛け。私は刃を軽く寝かせ、根の字の「間」を指で弾く。字は間がないと意味を持てない。間をわずかにずらすと、祈文はただの縞に変わり、根は未舗装の道のようにバラバラと砕けた。砕けた破片は鋭いが、面で受ければ庇になる。私は破片を拾わせ、ミナに渡す。ミナはそれを鍋の縁に打ちつけ、鍋は音を返し、音は歌の新しい小節になる。

 神核が、見えない位置で脈打っている。天の中央、秤の臍。そこを貫けば、秤の針は折れる。だが、針は折れても皿は残る。皿に何を載せるかは、地上の仕事だ。

 「——上」

 ルイセルの合図が落ちてきた。門の向こうに、さらに大きな門が開こうとしている。門は重ねるほど強い。強いが、鈍い。鈍いものは、早さで斬れる。私は蒼銀を一度、低く引き、膝を緩め、呼吸の“止め”を長くして体の重心を溜める。病室剣の九の型。跳ばない跳躍。

 地の空気が、私の足裏を押し上げた。飛んでいない。押し上げられた。押し上げられながら、私は刃の面で天の白い文法に指を滑らせ、文の主語を「神」から「人」に入れ替える。入れ替えられた文は、美しいが働かない。働かない言葉は、音になる。音は歌に合流し、合流した歌は、門の蝶番へ向かう風になる。蝶番が、勝手に緩む。

 カイルの叫びが足元から上がる。「面を変える!」

 庇の角度が変わり、路地の空気が巡り直し、布団の綿が焼け残り、子どもの列が広場の端で自然に蛇行する。蛇行は怒りの角を丸くする。丸くなった怒りは、笑いに近づく。笑いは——鍵穴を丸くする。

 天の合唱が、私の名を呼ぶ。名を呼ばせる。呼ばれた名は鎖だ。鎖は、面で受けても重い。重さが胸に来る。寿命の目盛りが、またひとつ削れる。削れるたび、白銀の髪が光を増す。私は痛みを数えない。数えると、減る。減ると、惜しくなる。惜しくなると、鈍る。

 「アリア!」

 フィオの声。彼女は笑いながら泣いている。「パン、焼けた! 焦げてるけど!」

 ミナが手短に言う。「水、足りてる! 印、剥がれっぱなし!」

 父の号令が重なる。「人を回せ! 歌を切らすな!」

 そして、カイル。「前へ!」

 前——そこに、神核の気配が沈んでいる。秤の臍。私は刃を胸の高さ、面ではなく、腹で構える。面で受け、腹で押す。押す先に、柱のような光が一本立つ。震えている。震えは生きている証拠だ。神核は生きている。生き物は、死ぬ。

 ルイセルが叫ぶ。「今だ!」

 私は走らない。呼吸が走る。吸って、止めて、吐く——止めの間に《間》の字を四つ置く。四は重い。重さは刃を沈ませ、沈んだ刃は、光の底へ届く。私は膝を落とし、肩を緩め、手首をまっすぐにし、蒼銀の背を親指で撫でる——「いってらっしゃい」。

 青銀の軌跡が、空の中心に一本、真っ直ぐ引かれた。

 光は音を拒む。だから、世界は一度、耳をなくす。

 音がないのに、歌は続く。

 歌があるのに、鐘は鳴らない。

 鈴は、鳴るでも鳴らないでもなく——ただ、息をする。

 刃は、神核を貫いた。

 外側から見れば、それはただの薄い線だ。光の大河に、鉛筆で引いた一本の、頼りない線。だが、その線こそが「間」だった。間がなければ、世界は動かない。間が入ると、巨大な秤は一拍遅れ、遅れた一拍のあいだに、子どもの手がパンを掴み、女が水を渡し、男が盾を上げ、老人が椅子を差し出し、天使が門をふさぎ、騎士が庇を広げ、父が顎で合図し、ミナが包帯を結び、フィオが「はいどうぞ」と笑う。

 間の線は、やがてひびになり、ひびは、臍に達した。臍は、力の出入り口だ。そこに刃先が触れる。触れた瞬間、青と白と黒が同時に吸い込まれ、吐き出される。吐き出されたものは、光でも闇でもなく、無でもない。——「空白」。名を持たない余白。余白が広場の上に広がり、空へ伸び、地へしみ込み、歌に柔らかい壁を作る。壁は、刃を鈍らせ、鈍った刃は言葉に変わる。言葉は、上書きされる。

 神核が、崩れた。

 光が——弾けた。

 弾けたのに、熱はない。音もない。匂いだけがあった。焼けたパン、湿った土、子どもの髪、油と薬、汗、涙、それから、金属の、古びた、でも真面目な匂い。金属は、長く働く。働く匂いが、世界を一瞬包む。

 沈黙が来た。

 沈黙は、怖くない。怖いのは「命令の後の沈黙」だ。今の沈黙は、「選択の前の沈黙」。息が集まる。集まった息が、誰の喉にも入る準備をしている。私は刃を下ろし、膝をついた。白銀の髪が肩に落ち、黒の薄膜が肩甲骨の下で震えをやめる。寿命の目盛りが、確かに削れた。痛みは、遅れて来る。遅れて来る痛みは、生活の時間の中で受け止められる。

 「……終わった、のか」

 カイルの声が低く、堅い。私は息を整え、答えず、彼の影が私の影に半歩重なる音だけを受け取った。面は、まだ割れていない。割れたら、次の面を出す。それだけだ。

 ルイセルが、門の前から降りてきた。黒い翼の根に霜がつき、白の残りが粉のように落ちる。彼は私の前で膝をつかず、——頭を垂れた。天の者の礼ではない。地の者の、礼。

「秤は、折れた」

「皿は?」

「残った。載せるものを、選べ」

 私は頷かない。頷けば、布告になる。代わりに、広場を見回す。旗が揺れ、青銀と黒と空白が朝の光に透ける。ミナが笑い、フィオが泣き笑い、父が腕を組み直し、看守の男が鍵束を腰に戻し、子どもがパンを半分にして隣に渡す。「はいどうぞ」。歌は続かない。続かないのに、終わっていない。沈黙が歌を抱いている。

 遠くの天井のひびから、最後の粉が落ちた。粉は祝福ではない。ただの石。石は、庇にできる。庇は、雨の日に役に立つ。私は蒼銀を布で包み直し、結び目に白銀の髪を一筋絡める。ほどける余地を残し、きつくしすぎない。呼吸のために。

 「アリア」

 カイルが呼ぶ。名に鎖の重さはなかった。彼の目は赤い。私は彼の肩に軽く手を置く。肩は硬い。硬いのに、温かい。

「生きるために、神を殺した。——だから、これからは、生きるために『何も殺さない』日の数を増やす」

「命令か」

「お願い。お願いのほうが、長持ちする」

 ルイセルが目を細める。「盟友。次は、『名の書き換え』だ」

「そうね。『異端房』は今日から『涼み部屋』に。『祈祷回数』は『昼寝の回数』に。『加護』は『分け合い』に、そして『罪』は——」

「『空腹』に」

 ミナが言い、笑って親指を立てた。私は笑い、胸の奥にまだ熱の残る沈黙をそっと撫でる。

 世界は、静かに息を吸った。

 吸った息を、誰に返すか——それを決めるのは、ここにいる私たちだ。

 天の門は封じられ、秤は折れ、皿は残った。皿の上に、パンと水と笑いと椅子を載せる。鈴は鳴らない。鳴らない代わりに、人の声がある。子どもの声、大人の声、泣く声、笑う声、どれも同じくらいの高さで、同じくらいの速度で、同じくらいの重さで、朝に混ざっていく。

 私たちは、静寂の縁に立った。

 最後の戦場は、ここで終わった。

 次の生活は、ここから始まる。

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