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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第14話 牢の中の祈り

 夜明けは、牢の窓枠の内側からやって来る。

 鉄格子は東を向いていない。塔の陰で日輪はまだ見えず、空は薄い灰だけを増やしている。それでも、光の気圧が変わる瞬間ははっきりとわかった。石の匂いが乾き、藁の湿りが軽くなり、遠くの井戸の桶が縁で小さく鳴る。鳴らなかった鈴の代わりに、朝は足音で合図をする。規則的な二歩、三歩、そしてわざと外す半歩。覚えのあるリズムだ。

 私は格子に顔を寄せず、背を壁につけて座り、呼吸の数を数えた。吸って、止めて、吐く——“間”をひとつ長く、ふたつ短く。病室剣の型は、ここでも使える。呼吸を整えるたびに、昨夜ルイセルが教えた図面の線が頭の中で薄い光を放ち、格子の蝶番が“自然”に緩む時刻を告げる。緩むまでは、言葉の仕事だ。

 廊下に看守がひとり、影を落とした。彼は昨日より歩幅が遅い。祈祷が減った速度だ。手には鍵束、目には眠りの残り。眠りは、弱さではない。選べる者の特権だ。私は彼に視線を向けない。格子の向こうの空へ、声をやる。

「……祈りって、何だと思う?」

 看守は立ち止まらなかった。けれど足音が半拍だけ遅れた。私は続ける。朝の灰は、言葉の角を丸くする。

「私ね、昨夜考えてたの。祈りって、膝をつくことじゃない。心を差し出す儀式でもない。呼吸のことよ。——生きたいって、次の一息を取りに行くこと」

 鍵束が小さく触れあった。彼は鼻で笑いかけて、それを飲み込んだ。「……異端が祈りを語るのか」

「異端の部屋は冷えるでしょう?」私は笑った。「冷える部屋では、祈りはよく見える。飾りが凍って、残るのは中心だけ」

「中心?」

「生きようとすること。——それが祈り」

 言ってから、沈黙を置く。間は、言葉の血流だ。沈黙が流れると、硬い耳にも音が行き渡る。看守の靴が石をかすめ、彼の喉がひとつ上下する。彼は格子によりかからない。よりかかると、鎖の重さが背に移るからだ。彼は自分の重さを、自分の骨で持っている。その骨に、今の言葉が触れた。

「……俺は、祈ってるのか?」

「あなたの子どもは、朝パンを食べる?」

「食う」

「それ、祈りの続きよ。あなたが今ここにいて、鍵を鳴らして、昼まで持たせようって思ってることも」

 看守は返事をしなかった。その代わり、器を差し入れる手がいつもより丁寧で、スープの縁を格子にぶつけなかった。手は正直だ。手は祈りが何かを知っている。

 遠くで、別の足音が始まった。塔の外回廊を走る兵の音。重さが違う。昨夜より、軽い。軽さは逃げではない。決めた者の音だ。私は格子越しに朝の灰を眺めた。空はまだ色になっていない。名を受けないうちに、音が満ちてゆく。

 歌——。

 最初の一声はどこからだったろう。井戸の縁か、焼けたパン屋の奥か、神殿の裏手か。それとも、ミナが包帯を巻く手に合わせて小さく humming したものが膨らんだのか。旋律は単純で、子どもにも覚えられる抑揚だった。上がって、下がって、三度で踏みとどまり、四度で少し笑う。

 “神殺しの歌”。

 物騒な名だが、歌は血を求めていない。歌は、鈍い日常の角を削る。路地の角、扉の角、言葉の角。角が取れれば、人と人がすれ違う幅が広がる。広がれば、喧嘩の通り道に風が入る。風が入ると、怒りは煙になって上へ逃げる。——上は、もう裂け目を閉じた天だ。

 看守が、息を吐いた。吐く音が、歌の拍に合う。彼は鍵束を腰に戻し、鉄棒に指をかけて言った。

「……お前は、それでいいのか」

「何が?」

「神殿に刃向かって、牢に入って、髪を白くして。……生きたいのか」

「生きたいわ。“生きたい”が、祈りだもの」

 私は笑った。「ただ、私は膝をつかない祈りを選ぶ」

 看守はしばらく黙って、やがて格子に額を近づけた。額に鉄の冷たさが移り、彼の声が低くなった。

「……俺の弟が、先週、病気で死んだ」

「そう」

「神殿は『祈祷が足りない』って言った。俺たちは祈祷を倍にした。倍にしたら、出汁の多いスープが半分になった。弟は……腹をすかせて死んだ」

 私は言葉を探さなかった。探したふりも、謝罪の真似も。彼の言葉の重さが、いま初めて自分自身の形で流れはじめたところだ。そこに別の名を被せるのは、救いごっこだ。救いごっこは、天の仕事だ。

「——見てきなさい」

 私は静かにだけ言った。「窓から。外」

 看守は反射のように首を振り、それでも一歩だけ横に動き、塔の窪みから見える広場の端を見た。歌が広がっている。青い布を腕に巻いた者も、白衣の列にいる者も、一瞬だけ口を閉じ、次の瞬間には一緒に歌い出す。歌詞は簡単だ。

 「パンの割り方を、教えてくれた

  水の汲み方を、見せてくれた

  鈴が鳴らなくても、朝は来る

  それが祈りだと、教えてくれた」

 看守の肩が、わずかに震えた。震えは止めない。生きている証拠だ。

「俺が今、ここで鍵を、……落としてもいいのか」

「落とすのは、あなたの祈りが決めること」

「罪だ」

「名は、あとで決められる。今は、息」

 廊下の向こうで別の看守が叫んだ。「塔の下! 反乱旗だ!」

 声は恐怖まじりで、しかしどこか高揚していた。反乱——名の角は鋭い。けれど、旗に風が入るとき、布の端は丸くなる。私は格子から少しだけ身を起こす。脚に力が入らない。寿命の目盛りが削れた痛みは残っている。それでも、目はよく見えた。

 塔の外、広場のひらけたところに、色の薄い布が持ち上がる。紋はない。まだ名を持たない旗。風が一度、布を叩き、布は自分の端を確かめるように揺れる。次の瞬間、誰かが上から絵具を落としたみたいに、青銀の一筋が走った。誰の手でもない。歌の呼吸が色を運んだのだ。旗は青を覚え、次に黒の縁を持ち、最後に白い小さな輪が布の端に縫い取られる。蒼銀と漆黒、そして空白。——反神同盟の「形」だけが、そこにあった。

 兵が数名、塔の内側の階段を駆け上がってくる。鎧の合わせ目が歌に合わない。合わない拍は、転びやすい。彼らの先頭で、ひとりが叫んだ。「かん! 開けろ、命令だ!」

 看守が私を見た。私が彼を見る。そこに命令はない。祈りの種類が、ひとつだけ増えただけだ。彼は鍵束を外し、一本、二本、三本、と順番に触る。触る指先が迷わない。昨夜、笑いで丸くした鍵穴の歯が、音もなく待っている。鍵は、回る。蝶番は、鳴らない。

 扉が開く前に、私は言う。「待って」

 看守も、走ってきた兵たちも一瞬止まる。止まった瞬間に風が入り、歌が廊下の奥まで滑り込む。

「ここを『襲撃』にしないで。——『反転祈祷』を使う」

 私は立ち上がり、格子の影の中に指で円を描いた。《間》。古代語は声でなくても動く。円は空気に薄い膜を作り、兵たちの怒鳴り声の熱を半拍遅らせる。遅れた熱は、怒りではなく息になる。息は、歌に乗る。

 扉が開いた。看守がまず、膝をついた。主にではない。自分の呼吸に、膝をつく。兵のひとりが剣の柄に手をかけ、しかし引き抜かず、次の瞬間にはその手で自分の兜を脱いだ。彼の髪は汗で額に貼りつき、目は真っ赤だ。彼は言った。

「——姫。いや、アリア。……俺たちは、どこへ祈ればいい」

「前へ」

 私は微笑んだ。「息の届くほうへ」

 そのとき、塔の外で大きな音がした。金属の軋み——門の鎖が切れる音。父の声が続き、号令が空に広がる。「扇状に散開! 盾は面で繋げ! 歌を切るな!」

 フィオの甲高い声が笑いを混ぜて飛んでくる。「勝った人が次の人に『はいどうぞ』! パンも水も『はいどうぞ』!」

 ミナの落ち着いた声が重なる。「火傷は水で冷やして、でも体は冷やしすぎない! 祈祷回数を書き込んでる帳面は一旦こっちに!」

 歌は太くなった。先ほどまで路地をぬっていた細い旋律が、広場に面を作り、塔の壁を撫で、神殿の階段を降り、井戸の水面に指を浸す。浸した指が冷たい。冷たいのに、心の中心は温かい。歌の二節目で、誰かが新しい言葉を入れた。

 「誰もひざまずかない

  誰も蹴り落とさない

  面で受けて 面で渡して

  それを祈りと 呼ぶのなら」

 ルイセルの影が、廊下の角に薄く現れ、薄く消えた。堕天の契約の膜は、ここでも生きている。天井の亀裂から粉が一粒落ち、兵たちの眉間から力が抜ける。「天の合図」と勘違いするには、十分だ。勘違いは、正義より役に立つ時がある。

 看守が立ち上がり、鍵束を腰に戻し、私に不器用な敬礼をした。「——俺は、祈る。生きるほうに」

「ようこそ」

 私は微笑み、彼の肩に軽く触れた。皮膚の下の震えは止まらない。止めないで、と言う前に、彼は廊下を走り出していた。走る足音が歌に合い、ぶつかり合う怒鳴り声の角がいくつも削れ、廊下の壁に“はいどうぞ”のリズムが映る。

 扉の外で、カイルが半歩ずれた位置に立っていた。灰の瞳は私の重さを見積もり、剣ではなく布を差し出す。布は冷たい。私はそれで額の汗を拭き、息を整える。彼は私を抱かない。抱けば、鎖になる。ただ、肩を並べる高さを合わせる。並ぶ高さが同じだと、歌は二声になる。

「外へ」と彼。

「面を増やして」と私。

 ふたりで塔を降りる。踊り場でミナが包帯の束を投げ、それを私は胸で受け、カイルが脇へ捌く。階段の下でフィオがバケツを二つ蹴り出し、子どもが走って拾い、笑いながら列に戻る。その列の上を、旗が通る。青銀と黒と空白。空白は名を欲しがらない。そこに、今朝の歌が宿る。

 広場に出た瞬間、風が顔を撫でた。幟の影が地面に踊り、神殿の白い段に〈蒼銀派〉〈神派〉の線はもうなかった。代わりに、同じ旋律で違う言葉を歌う二つの群れが向かい合い、最後の一行だけを同時に歌った。

 「——それを祈りと呼ぶのなら」

 国を覆っていた呪縛は、音で割れた。割れ目に水が入り、笑いが入り、子どもの手が入り、面が差し込まれた。祈祷回数の帳面はミナのカバンの底で包帯と混ざり、神殿の鈴は誰にも触れられていないのに細く鳴った。井戸の水は印を失い、パンの表面は焦げの香りを取り戻し、空の灰は色になり始める。

 私は、塔の影を抜けて空を見上げた。白銀に変わった髪に風が通り、蒼銀の刃は布の下で眠り、漆黒の光はまだ言葉を持たない。持たないから、歌に寄り添う。ルイセルの見えない翼が、歌の拍でわずかに震え、天井の亀裂から粉が舞い落ちる。粉は、祝福でも呪いでもなく、ただの石。石は、面で受ければ庇になる。

 看守たちが次々と鎧を脱いだ。脱ぎ捨てたのではない。畳んで、椅子に置いた。椅子は誰かが座るためのものだ。座れば、笑いが起きる。笑いは、鍵穴を丸くし続ける。丸い穴は、風を通す。

 「アリア様!」

 フィオが駆け寄ってきて、息を切らしながら笑った。「歌、ね。“神殺しの歌”って呼ばれてるけど、みんな勝手に歌詞を足してくるの」

「いいわ。名は内側で循環させる」

「ミナが言ってた。『この歌、包帯より効く』って」

 ミナが隅から親指を一本だけ立てた。彼女の頬には煤がついている。煤は、儀式ではない。生だ。私は彼女に会釈を返し、父が城門の上から腕を組んで見下ろしているのを見た。彼は大声を出さない。出さずに、子どもの列の順番が狂わないかだけを見ている。

 カイルが、半歩前で風を切りながら、低く言った。

「牢は、もう牢ではありません」

「名は、あとから追いつく」

 私は微笑む。「今は、息」

 歌が三巡し、四巡し、五巡目で誰かが失敗して笑い、笑いで旋律がより覚えられ、覚えられた旋律がまた別の路地へ流れてゆく。塔の影を抜け、橋の下をくぐり、市場を回り、神殿の裏口を通り、最後には井戸の底で響く。底で響いた歌は、石に吸われて水になる。水は、印を嫌う。印が剥がれた国は、やっと——喉を鳴らす。

 私は薄い痛みを抱えた胸に手を当てた。寿命の目盛りは確かに削られた。けれど、呼吸の届く距離は延びた。延びた距離に、今日ひとつだけ、言葉を置く。

「祈りとは、生きようとすること」

 それはふさわしくない演説ではない。ふさわしい生活の言い換えだ。朝の光がやっと塔の角に触れ、牢の窓枠の内側にも、わずかに金色が差した。鉄は色を持たない。けれど、その金色を受ければ、少しだけ暖かく見える。

 “神殺しの歌”は、その金色を抱き込むように、さらに太くなった。誰かが手拍子を入れ、誰かが別の節を提案し、誰かが忘れ、誰かが教える。教え合うたびに、国を覆っていた呪縛は一枚ずつ剥がれ落ち、石畳の上で薄い音を立てて砕ける。砕けた破片はもう刃ではない。面のかけらだ。かけらは、庇の端に使える。

 私は目を閉じ、病室剣の型で歌をたたみ、胸の奥にしまう。次の夜、また必要になるだろう。天は簡単に諦めない。だからこそ、私たちは簡単に生きる。簡単に食べて、眠って、笑う。——それを祈りと呼ぶなら、私は世界に向かって何度でも宣言する。

 「祈りとは、生きようとすること」

 鉄格子の内側からでも、外側からでも。同じ音で。同じ呼吸で。青銀と黒と空白の旗が揺れ、歌の最後の伸ばしで、朝がやっと、すっかり来た。

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