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蒼銀令嬢アリア・ヴァルミラ 病弱令嬢に転生した終焉将軍の聖戦譜  作者: 妙原奇天


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第12話 堕天の契約

 夜の裂け目が閉じ、静けさが戻った――はずだった。


 氷の粉雪が舞い、燃え残りの梁がぱちりと鳴る。そのたび、崩れた鐘楼の影が短く伸びて縮む。蒼銀〈そうぎん〉の刃は布に包んでもなお掌で脈打ち、私の呼吸とどこかで拍を合わせている。肺は焼け、喉は鉄の味を忘れない。立っているだけで眩暈がするのに、足は退かない。退けば、何かが取り返しのつかない方向へ転がる、と身体の古い記憶が告げていた。


 氷の結晶が割れる音――その内側から、まだ光が漏れた。結晶の中心、白い繭のように封じられていた光体が、ゆっくりと膝をつく形にほどけていく。翼は半ば霜に縫い止められ、羽先は欠け、光輪はかすれて輪郭を失っている。それでも、顔は穏やかだった。整いすぎた眉、刃物のようなまつげ、涙の跡だけが“生きもの”に見せている。


 熾天使〈してんし〉ルイセル。天の秩序の臍であり、罰の代行者。その彼が、地上の石に膝を落とし、氷の粉にまみれて息をしている。息をする――天はそれを、許すのだろうか。


「……汝」


 彼の声はかすれていた。神の周波数は消え、骨を震わせるような清潔な音もない。ただ、人に似た低さだけが残る。


「汝、神敵……いや。名で呼ぶべきか。アリア」


 白い羽の根元から黒が滲み、霜の糸と絡み合う。彼は自分の胸元に手を当て、目を伏せた。涙が、氷の粉と混ざって冷たく光る。


「我は、堕ちた。摂理は裂かれ、秩序は揺らいだ。……それでも、我はまだ“刃”だ」


 私は頷かない。頷けば、誓いの門が勝手に開く。代わりに、呼吸の“間”をひとつ長く置く。間は、考える者の武器だ。天は間を嫌う。命令が鈍るから。


 彼は続けた。


「契ろう。アリア。汝は光を氷に変え、我は光を律に変える。律は、世界が流れるための溝。神はその溝を独占する。……我は溝を壊す翼を、汝に与える」


 風が止まり、焦げた梁が一度だけ鋭く鳴った。ミナが遠くで誰かに包帯を巻く声、フィオが子どもを座らせる声、父の号令、盾を繋ぐ音――街の音が、私の背中で重なって流れる。灰騎士カイルは半歩ずれた影の位置で立ち、手の甲を握って開いた。痒みはない。代わりに、刃を抜く代償の痛みが指の骨に残っている顔だ。


「契約?」私は言う。「天の者の契約は、たいてい牢獄の設計図でしょう」


「そうだ」ルイセルはあっさり肯んじる。「だから“堕天”の契約にする。天の牢獄を、内側から壊すための」


 ふっと笑いそうになった。天がそんな関数を持っているのか。いや――彼がいま、持っているのだ。秩序の臍が自分に穴を開け、そこから黒い血を垂らしている。冷たい空気が、その匂いにわずかに甘さを混ぜた。


「堕ちてまで、あなたは“律”でいたいのね」


「刃が刃であることをやめれば、ただの棒だ。棒で天は壊せない」


 自嘲にも似た言い回し。天使は、冗談を言うのだろうか。私は一度だけ咳をし、血の味をやり過ごす。白銀に変わりつつある髪が、こめかみにはりつく。寿命の目盛りが、またひとつ削れていくのがわかる。それでも、目の前の光にだけは背を向けられなかった。これは罠かもしれない。牢獄の別名かもしれない。だが、牢獄の図面を知る者が内側にいるのなら、鍵穴の形を逆から教えられる。


「条件は?」


 私は問う。契約は、条件の数で刃の角度が決まる。


 ルイセルは顔を上げた。瞳に、天の色ではない影が差す。影は、人の側からしか伸びない。


「三つ」


 良い。三は扱いやすい。


「一つ。汝は、祈らない者の自由を律とする。祈る者の自由と同じだけに」


「同量の自由、ね。過不足は『神の側』に付け替えない」


「そう」


「二つ目は?」


「我は汝の“翼”になる。だが、汝の命令で飛ばぬ。汝の“間”で飛ぶ」


 私は笑った。彼は昨夜の会話を聞いていたかのようだ。間で飛ぶ翼。命令ではなく、座標で動く刃。私の病室剣の型に最もよく馴染む。


「三つ目」


 ルイセルは言葉を一度だけ噛み、そして出す。


「代償は、我と汝で分け合う。汝の寿命が削れるなら、我の“永遠”も削ぐ。汝の痛みが強ければ、我も痛む。——同じ重さで」


 空気が、耳の裏で小さく震えた。同じ重さ。天の者が、重さを等分と言う。歌よりも甘い響きだが、甘さは罠にもなる。私は首を振る。


「“等分”は危ないわ。人の痛みは計量器を壊す。あなたは多めに持ちなさい」


 彼の目がわずかに細くなる。「なぜ」


「あなたの永遠は、人の命よりも軽いから。軽いものは、割れやすい」


 一瞬、風が戻り、氷の粉がふわりと舞い上がった。彼は頷かなかった。だが、否定もしない。沈黙の中にだけ、同意が走ることがある。


「……では、四つ目を追加しよう」


 契約は増えるたびに重くなる。重さは、転がりにくさだ。


「我らが壊すのは“牢獄”であって、“祈る心”ではない」


 私は肩の力を少し抜いた。最初から、それがないと始められない。


「よろしい」


 膝から力が抜けそうになる。ミナの気配が近づき、でも彼女は止まる。これは医療の場ではない。言葉の手術台の上だ。フィオが小さくむせび、カイルが半歩、私の斜め後ろへ動いた。盾の面を、風に向ける角度だ。


「方法は?」私は問う。「契り方」


「古い。原初の。——光と影を、交ぜる」


 彼は自分の胸に手を入れ、折れかけの光輪から一片を摘まみ取った。光は白ではない。透明で、薄い。指に挟まれた途端、影を欲しがるようにかすかに震えた。私は蒼銀を布から半ば抜き、刃の背に自分の白銀の髪を一筋、巻き付ける。髪は熱を持たず、しかし生の匂いがする。


「名を問わない?」私は念のために言う。


「問わない。名は鎖だ。鎖は今夜、要らない」


 よろしい。私は左の掌を刃先に軽く当て、古代語の一字を心の中で置く。《間》。ルイセルは光片を自らの翼の根元――黒が滲むその境に押し当てる。《堕》。二つの文字が、声にならない声で向かい合う。


「——契約を交わす」


 同時に言葉を落とした。声は天にも地にも、届かない。代わりに、青と黒が動いた。蒼銀の青が布の下から溢れ、ルイセルの翼の黒と絡み合う。青は冷やし、黒は縫い止める。二つの光は互いの呼吸を覚え、脈動の周期をずらし、やがて同じ拍に合う。空気が重くなり、石が沈黙し、氷の粉が宙に留まる。


 蒼銀と漆黒――融合。夜の真ん中に、細い螺旋が立ち上がった。螺旋は、光でも影でもない。輪郭だけの柱。柱は、上ではなく“外側”へ伸びた。世界の壁に触れ、そこに、白い筋を一本引く。筋はひびになる。ひびは、牢獄の図面を浮かび上がらせる。


 反神同盟――。言葉はまだ音を持たない。けれど、形はもうある。私が呼吸を一つ、深くした。肺が焼け、目の奥が白くなる。寿命の目盛りが、ふたつ、削れる気配。私はそれを見逃さない。契約は、代償の計算を後回しにする性癖がある。


「アリア様」


 カイルが跪いた。地に片膝をつき、剣を立てる。誓いの礼ではない。祝祭の跪礼でもない。——見届ける礼だ。彼の灰の瞳が、夜と私のあいだで焦点を結ぶ。半歩ずれた位置から目線を上げ、彼は低く呟いた。


「あなたは、もはや神よりも美しい」


 笑ってしまう。こんな時に。声は出ない。笑いは胸を痛める。痛みは、合図だ。カイルの言葉は褒め言葉ではない。宣言だ。神の“美”は奪う美だ。私の美は――彼の目には、返す美に見えているらしい。美は、道具になる。道具にするのは、私だ。


 ルイセルが、細い影を落とした。翼の黒はまだ不安定で、肩に重い。


「盟は、宣言だけでは立たない」


 彼は言う。「行為が、名に血を通わせる」


「初手は?」私は問う。


「水路だ」即答だった。「天は“与える水”に印を付ける。印は見えない。だが、感じられる。印のある水は、祈りと交換する形でしか配られない。……印を剥がす」


 私は蒼銀を軽く持ち直す。印は、冷やすと割れる。昼間に“自然”と名付け直した溝が、役に立つ。


「神殿は騒ぎますね」とミナが言い、苦笑に近い呼気を漏らした。「祈祷の数を増やすでしょう」


「増やさせなさい」私は息を整え、声を落ち着かせる。「祈りの煙が増えるほど、印は濃くなる。濃くなれば、剥がしやすい」


 フィオが袖で涙を拭いて頷き、立ち上がる。「じゃあ私、井戸の子たちに伝えてきます。『水の色が変わったら、怖がらずに待って』って」


 ルイセルが私へ目を向ける。そこに、かつての命令の光はない。問いだけがある。「汝の人々は、汝の“堕天”を受け入れるか」


「受け入れなくていい」私は首を振った。「受け入れは、また鎖になる。彼らがするのは、食べること、眠ること、笑うこと。……信じることは、各自が決める」


 彼の口元がわずかに動く。微笑――いや、学習のしるし。


「では、盟の名を」


 私は空を見上げた。夜は割れていない。星は少ないが、見える。星は名を欲しがらない。名を欲しがるのは、人と神だけ。名は道具。ならば、使う。


「“反神同盟”」


 言葉に息を通す。声は街へ落ち、石に吸われ、井戸に触れる。井戸の底で、青い泡が一つ弾ける。泡は印を嫌う。泡が一つ、印をごく薄く剥がし、流す。


 契約の柱がひときわ明るく脈打ち、やがて沈んだ。蒼銀と漆黒は分かれず、しかし混ざりきらず、私の掌と彼の翼の根にそれぞれ薄い膜として残る。膜は、皮膚の内側で呼吸を始めた。私の寿命は、確かに削れた。だが、代わりに何かが延びた。呼吸の届く距離。座標の射程。名の使い道。


 カイルが立ち上がる。剣を納め、蝋印の欠片を親指で弾く。「面を、増やします」とだけ言って広場を見回し、崩れた屋台の布を集め始めた。盾の面は、布でも作れる。蒸気は庇になる。庇は、夜のあいだに“正しさ”を薄める。


 父がこちらに歩いてきて、足を止めた。視線がルイセルで一度だけ止まるが、問いは投げない。問えば政治になる。彼は私へ短く顎を動かし、「朝まで持たせろ」とだけ言って去った。命令ではない。共同作業の合図だ。


 ミナが私の脈を取り、眉をひそめる。「早い。……でも、リズムは均一。契約の“外科”は成功です」


「薬は?」


「後で。本当に必要なときに効かなくなる」


 彼女はそう言って手を離し、別の担架へ走る。フィオは子どもたちを井戸へ連れていき、並ぶ順番を遊びに変える。「ゆっくり、順番。早く飲んだ人が、次の人に『はいどうぞ』って言うのよ」。子どもが笑う。笑いは、契約の言葉よりも早く街を覆う。


 私は蒼銀を包み直し、布の結び目に自分の白銀の髪を一筋、絡めた。結び目は固くしすぎない。ほどける余地は、呼吸の余地だ。ルイセルは翼をたたむ仕草を何度か試み、黒と白の境目で痛みに顔をしかめる。その顔は、人に近い。


「……痛む?」


 私が問うと、彼は短く「うむ」と頷いた。


「良いことだわ」


 痛みは、生きている証拠。彼は意味を考える顔をして、やがて理解の角度で首を傾けた。


「盟友よ。次は、何を壊す」


 “盟友”――その響きは、天にも地にも馴染まない。だが、夜にはよく馴染んだ。私は息を吸い、夜気に残る焦げの匂いと粉雪の匂いを混ぜて胸に入れる。


「まずは、印を剥がす。次に、祈祷の回数を減らす『自然』を作る。朝に“水が勝手に増えた”と、人が思えるように」


「天の監察は?」


「遅いわ。遅さを味方にする。遅い組織ほど、名目と帳面を大事にする。帳面は――」


 私は足元の石をつま先で軽く叩いた。「書き換えられる」


 ルイセルは目を細める。「我の“律”が役に立つ」


「役に立てて。あなたの律で、帳面の『正義』の誤植を訂正して」


 彼の口元が、ほんの少しだけ上がった。天の者の微笑は、まだ不器用だ。


 広場の隅で、子どもの合唱が始まる。「蒼銀姫」。私は笑わず、ただ手を胸に当てた。借りた名は、返す時期を見極める。今はまだ、使う。光を集め、庇を作るために。


 カイルが戻ってきた。肩には濡らした布、腕には割れた盾の残骸。彼は私とルイセルのあいだに視線を一往復させ、低く、しかしはっきりと言う。


「同盟の布告は、外へ出しますか」


「出さない」私は首を振る。「名は内側で循環させる。外には、水とパン。布告は、腹が満ちた後」


「承知」


 彼は半歩下がり、しかし膝はいつでもつける位置に留まる。信徒の礼ではない。同伴者の距離。彼の影が、私の影とわずかに重なる。その重なりは鎖にならず、ただ夜風の形を変えた。


 白銀の髪に冷たい風が通る。蒼銀の青が布の下で一度だけ薄く光り、ルイセルの翼の黒がわずかに深さを増す。二つの光は、まだ混ざりきらない。混ざらないまま、同じ方向を見ている。


 天の牢獄は、図面を見せた。壁の厚み、鉄の枠、鍵穴の形。図面が見えたということは、壊し方も見えるということだ。私は天蓋の布に指で小さな円を描き、呼吸の“間”に座標を置いた。


 祈りの自由。祈らない自由。どちらも、同じだけの席を用意する。食卓に。


 遠くで、夜明けの気配が砂のように滲み始めた。空の低いところに薄い灰が敷かれ、星がひとつずつ、役目を終える。鳴らなかった鈴は、今朝も鳴らないだろう。かわりに人の足音が鳴る。水を汲む音、パンを割る音、子どもが笑う音、誰かが泣きやむ音。音は名よりも早く同盟を広げる。


「行きましょうか」


 私は言う。立ち上がる足は震える。震えは止めない。生きている証拠だから。カイルが半歩、先に出て風を切り、ルイセルが片翼を庇いながら外の光を測る。白銀の髪は朝の色を受け、蒼銀の刃は布の下で眠り、漆黒の光はまだ言葉を持たない。


 ——反神同盟、発足。


 布告はしない。行為だけで知らせる。天の牢獄に、最初の小さな欠けを増やすために。呼吸は整った。座標は決まった。あとは、歩幅を合わせ、面で受け、面で押すだけだ。


 朝の最初の風が頬を撫で、灰騎士がもう一度だけ跪き、低く復唱した。


「あなたは、もはや神よりも美しい」


 私は答えず、ただ前を見た。美は道具。道具は人のために使う。天のためではない。地のため――ここで息をする者たちのために。

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