タルノス沖海戦 Ⅳ
モロザリーアの配下が驚くほど強かったのは確かである。
そうでなければ海軍の中でも鍛えられていることで有名なロシュフォール配下の海軍兵士がこれだけ一方的に押されることなどありえないのだから。
だが、その屈強な部下たちと比べてもモロザリーアは圧倒的に強かった。
相手を全く寄せ付けないその強さは人間のものとは思えない。
つまり、この男には絶対に勝てない。
海軍兵士の心にどこからともなくやってきたその声が伝わる。
そして、その声は徐々に大きくなり、崩壊は時間の問題と思われたそのとき、モロザリーアの前にいかにもという出で立ちの男が現れる。
ただし、手にしているのは飾りのついた剣ではなく、無骨そのものの戦斧。
……服装だけ見てもこいつは司令官。少なくても船長だ。
……だが、戦斧を持つ腕は太い。それなりにやりそうだ。
……しかも、これだけ押されている状況で隠れることなく堂々と敵前にやってくるとは、海軍のなかにも肝が据わった奴がいるのだな。
……まあ、こちらは探す手間が省けたのだが。
モロザリーアが口を開く。
「俺の名はアンガス・モロザリーア。この集団の長も任せられている者だ。どうやら司令官のようだが、そちらの名も聞いておこうか」
「アーネスト・ロシュフォール。この船の長で前衛部隊を率いる提督でもある」
「……ロシュフォール提督。あんたが生きている間は名を覚えておいてやる。それにしても戦いの場に戦斧を持って現れる提督がいるとは思わなかった。殺す前に言っておくが、それは使い慣れない者には無骨で重いだけの代物だ。提督なら提督らしく宝石のついたきらびやかな剣を使ったらどうだ。愛用の剣を取りにいくというのなら待っておいてやるぞ」
「気づかいは感謝するが、私は剣よりこちらの方が得意だ。ついでに言っておく。私はこれでおまえを倒すためにここに来た。殺されるために来たわけではない」
「そうか。つまり、自信があるということか。だが、それほど自信があるのなら子分どもに戦斧の扱い方を教えてやるべきだったな。そうすればこれほどあっさりと殺されることはなかっただろうに」
「くだらんことを言っている暇にさっさとかかって来い。それとも、こちらから行ったほうがいいのか」
「いいだろう。そんなに死にたいならすぐに望みを叶えてやる。それから……」
そこで言葉を切ったモロザリーアは部下たちを眺める。
「いいか。これは俺とロシュフォール提督との一対一の勝負。手を出すなよ」
それは一騎打ちの宣言だった。
だが、それは片方だけのものだけでは成立しない。
その場にいる者はその相手を見る。
……いいだろう。
……この状況ではそれの方が好都合。
心の中で呟いたロシュフォールがそれに応じて高らかに宣言する。
「これは私と海賊の頭モロザリーアとの勝負。どうなろうとも決着がつくまで手を出してはならぬ」
「さて、これで安心して戦えるだろう。海賊。それから、どうやらおまえは相当やるようだ。最初から全力でいかせてもらう。まあ、そうなれば勝負を楽しむことなく一瞬でケリがつくことになるだろうが、そこは勘弁してもらおう」
「それはこちらのセリフだ。では、いくぞ」
フランベーニュ海軍所属の軍船上でおこなわれた一対一の戦い。
これは多くの面で異例だった。
もちろん、陸戦ではあまりお目にかかることがなくなった一騎打ちは海上ではいまでも頻繁におこなわれていた。
そして、双方がそれを宣言した戦いではどんなことがあっても決着がつくまで周りは手を出さない。
それはどのような場合でも守られ、それを破った者は相手ではなく味方に殺されることも珍しくない。
それが軍、海賊を問わず海に生きる者共通の掟となる。
だが、それを考慮してもやはりこれはきわめて珍しいものといえるだろう。
なぜなら、戦っているのが海軍の提督と海賊の頭目という、一騎打ちになることなどあり得ない者同士であること。
それに加えて、ふたりが手に持つ武器が剣ではなく戦斧であることからだ。
……さすがにこれを見逃す手はない。
……白兵戦をおこなう提督の姿を目に焼き付けなければならない。
ほぼ同様の理由によりその一角だけは休戦状態にはいり、双方がふたりを取り囲む。
隣に立つ敵に手を出すことなく。
これまたこの世界の一騎打ちがおこなわれる際の暗黙のルールとなる。
まあ、この辺は別の世界でおこなわれている無機質的な戦争を知る者にとっては随分とのんびりしていると思えるのだが、これがこの世界の海で生きる者の伝統であり、違和感なくすべての者にそれは受け入れられる。
そうして始まった二人の戦い。
それはひとことでいえば、予想外。
そう表現できるものであった。
その一因はもちろんロシュフォールの戦斧の冴えである。
それまで部下たちが叩き折られた剣とともに体まで切り裂かれていたモロザリーアの太い腕から繰り出される強烈な戦斧の一撃を彼ロシュフォールは何度も跳ね返し、折りを見て反撃すらしていたのだから。
十何度目かの斬撃を躱されたモロザリーアがニヤリと笑う。
「いい腕をしている。腰抜け海軍の提督にしておくがもったいない。このまま俺の部下になれば今の倍の給金を出すぞ」
一見すると冗談に聞こえるが、実をいえばそれはモロザリーアの心からの言葉。
そして、余裕綽々の表情でロシュフォールはそれに対してこう答える。
「とりあえず誉め言葉を受け取っておこうか。海賊」
もっとも、心の中でロシュフォールは別の言葉を吐いていた。
……重い。
……すでに手が痺れている。
……この調子でやっていてはそう長くはもたない。
……といっても、この男には決定的な一撃を与えるだけの隙がない。
……ダメだな。これは。とても勝ち目がない。
次の一撃に備えて戦斧を構えながら、ロシュフォールが口を開く。
「ひとつ聞いてもいいか」
「なんだ?」
「おまえたちはワイバーンのものとされる二匹の竜が描かれた黒旗を掲げていた。おまえが大海賊といわれるワイバーンなのか?」
「いや。俺はワイバーンではない。正真正銘のアンガス・モロザリーアだ。ついでに言っておけば、この戦場には奴も奴の配下もいない」
「では、なぜ?」
「味方と識別できるように旗を掲げよという奴からという指示があったからだ。理由は知らん。というか、こうなるように仕組んだのだろうよ。あの男ならそれくらいのことはやる」
……この圧倒的な有利な状況でこの男が嘘を言うはずがない。
……ということは、本当のことか。
「狡猾だな」
「そうだな。まあ、こっちもそれに見合うだけのことをした……いや。するはずだったのだから」
「見合うだけのもの?なんだ?それは」
「おまえたちと同じ。ワイバーンを襲うはずだった。それを知った奴が俺たちを嵌めたということだ」
……なぜ、こいつらがそれを知っている。
……いや。ワイバーンがそれを知っていただと?
「なるほど。それと、もうひとつ聞きたい。実はワイバーンとは口先だけで剣の腕はおまえたちが上ではないのか?」
「さすが提督。よくわかっているではないか。と言いたいところだが、そうではない」
「強いのか?本当に」
「俺たち木っ端海賊と奴を含む大海賊とは大人と子供くらいに力の差がある。しかも、ワイバーンとは大海賊の最上位の名。末端の部下でも俺より強い」
「海軍の正規兵を圧倒するおまえたちが子供?」
「やってみればわかる。まあ、わかったときには手遅れなのだが……。もっとも……」
……おまえにはその機会はないのだが。
その言葉を口にせず、もう一度口を開く。
「さて、聞きたいことを聞けたのだ。そろそろ終わりにしようか」
「ああ。そうだな」
……これだけの情報を引き出したのだ。生き残った者がひとりでもいればいい土産になるだろう。
実を言えば、ロシュフォールは話し始めた時点で自らの命が尽きることを覚悟していた。
だが、ただやられるわけにはいかない。
多少なりとも有益なものを残したい。
すべてはそう考えてのものだった。
だが、ここで彼に幸運が訪れる。
まず、異様な音とともに、船が沈み込みながら右に傾く。
続いて、轟音とともに、帆を張ったマストが倒れかかる。
「モロザリーア様。サリテーヌ様より伝言。時間ですと」
「わかった」
遥か後方から聞こえる部下のひとりの声にモロザリーアはそう応えると、数歩後ろに下がり、ロシュフォールに声をかける。
「提督。戦いはここまでだ」
「逃げるのか?」
「たとえば、この船と俺の船だけなら最後までやる。だが、今回はそうではない。ここで提督の首を取っても港に帰りつけなければ意味がないからな。俺自身はともかく全体としては俺たちの負けらしい。そして、俺よりも遥か遠くまで見える俺の部下が今逃げないと戦場から脱出できなくなると判断したのだ。残念だが従うしかあるまい」
「それを聞いたら、なおさら逃がす気になれんな。勝ち逃げを許すほど私は心が広くないぞ。それにもう一歩で私の首はおまえのものだ。せっかくここまでやったのだ。土産に私の首を持っていくべきだろう」
……挑発か。
……俺たちと違い、軍の勝利のために自らの命を捨てることを厭わぬよう教え込まれている軍人ならそう言うだろうな。
……だが、そんなことに付き合う義理は俺たちにはない。
……それに提督はともかく子分たちには戦うだけの気力はもう残っていない。
……ここは提督の名誉を保つ出口を用意してやるべきか。
「それはいい考えだ。だが、おまえが俺とやり合っているうちにこの船は沈むぞ。早く船底に開いた大穴を塞げ。そして、また会おう。ロシュフォール提督。今日は本当に楽しかった」
「全員引き上げだ」
海賊たちはその言葉とともに潮が引くように悠々と自船に戻る。
逃げる奴らを追いかけたい。
と思うだけの体力を残している者はいなかった。
ロシュフォール自身を含めて。
……助かった。
そして、それが彼と生き残ったものたちの共通の思いだった。
戦斧を杖代わりにして見事なまでの操船技術で戦場を急速離脱する十二隻の船を見送り終わると、ロシュフォールは疲れ切った部下たちを見やる。
「今日は我々がいかに力不足か確認できた戦いになった。生き残った者は死んだ者たちの分も訓練を重ねなければならないが、我々が今やらなければならないこと。それはこの船を沈没から救うことだ。かかれ」
……それにしても……。
……奴らはどんな奇術を使っているのだ。
……あれだけ激しい戦いをしながら、死者は我々の方だけにしかいないというのは納得がいかん。
……それから……。
……私の首を取る直前まで押しまくった奴と同じ強さの者がゴロゴロしているという大海賊ワイバーン。
……奴の話が本当なら、とても勝てる気がしないな。
……そして、本当にそんな奴のもとにこんな状態で行ってもいいのか?