タルノス沖海戦 Ⅰ
大海賊の幹部たちが対策を話し合った日から十日と少しだけ経ったフランベーニュ沖の海。
フランベーニュとの取引は終わり、三隻の護衛船とともに本拠地へ戻る特大の帆船。
その船上。
「さて、現れる客はどちらだろうな」
魔族の男は隣に立つふたりの人間、正確にはひとりは人間の姿をしているが魔族に属する者ではあるのだが、とにかくそのふたりに声をかけると、すぐさまふたとおりの答えが届く。
「順当にいけば海軍でしょうね」
「ですが、情報によれば海軍は正規の軍船ではあるものの百五十隻。それに対して自称海賊は大小合わせて六百隻。質はともかく数だけを考えれば、弟の子分どもにも十分に勝ち目があるでしょう」
「ほう」
相反する意見。
一瞬だけ冷ややかな風が辺りを包むが、ふたりの人間のうちの年長者の男がすぐさまその雰囲気を破る。
「たしかに数は勝因の大きな要素だ。まあ、どちらにしても、正面からぶつかりケリがつくまでやれば相当な損害が出るのは確実。そうなってもやってきますかね?」
その男ペルディエンスがその場を取り繕いつつ、主である魔族の男に声をかけると、問われた男はニヤリと笑う。
「余程のことがないかぎり来るだろう。どれほど損害が出ていても奴らがやってきたくなる数で我々はフランベーニュに乗り込んだのだ。来てもらわなければ困る」
「たしかに」
「そうなると問題はやはり合流して我々の前に現れることですか……」
「そうですね。そうならないように策は講じましたが、所詮は腰抜けの集まり。しかも、同じフランベーニュ人であるのだからおかしな協定を結ぶ可能性は捨てきれません。そうなったときは、さすがに完全勝利は難しい……」
「まあ、ここは見上げた努力と言わなければいけないのでしょうが、双方合わせて七百五十隻はさすがに多すぎます。ですが、逆に……」
「百隻を超えるということは、海軍が持つ軍船のほぼ半数を王太子は私的利益のために動かしたことになります。ここでそのすべてを失ったらどうなりますかね」
「海軍幹部は当然としても、王太子にもそれなりの傷はつくでしょうね」
ふたりの話がそこまで進んだところで、その場の頂点に座す魔族の男が口を開く。
「それは弟の方も変わらない。なにしろ海軍の船は曲がりなりにも国家の所有物で兵も正規兵。王太子個人の懐は傷めない。だが、もう一方はそれなりの金を前金で支払わなければ動かない傭兵。六百隻もの大軍を集めて失敗すれば溜め込んでいた隠し財産が一気になくなるだろうな」
「つまり、弟君は宝石と高級酒を積み込んだこの船だけは絶対に沈められないということですか」
「それは兄貴も同じでしょうね。ただ多くの軍船を沈められては面目が立たない。というか、そもそもそのために今回の悪事を始めたのですから……」
「どちらにしても、どうやってこの船を無傷で手に入れるつもりなのか興味があります。悪の総帥コンセブシオン。おまえがその立場ならどうする?」
「その悪意ある肩書には大いに異議を申し立てますが、とりあえず私なら……」
「報告……」
「多数の船が見えます」
大海賊の幹部たちの会話を遮るように届いた見張りからの声。
その声が本物の海賊たちの乗る船に響いたときから半日ほど時間を戻した彼らがいる海域より北東の海でアグリニオンの歴史上最大級のものとなる海戦がおこなわれていた。
のちに「タルノス沖海戦」、さらにある事情により「第一次タルノス沖海戦」と呼ばれるものである。
歴史に残る大規模な海戦。
だが、この戦いが好意的な評価を受けることは非常に少ない。
特にフランベーニュ王国においては。
そして、その理由なのだが、これが国の中心にいる者が私腹を肥やすために兵を動かしたために起こったという戦略上はまったく意味のない戦いであるというのが、その公的な理由である。
もっとも、フランベーニュでこの戦いの評判が悪いのは、それよりもそれを逆手に取られて海賊風情にフランベーニュ人同士が戦わされたからというのが大きな理由といわれる。
自尊心の塊であるフランベーニュ人にとってその後に待っていた出来事も合わせ考えれば、すべてが屈辱の極み。
当然といえば当然のことではある。
もちろん、それとは逆に、両者を戦わせることに成功したうえ、最終的な勝者となる大海賊ワイバーンはその手腕を高く評価され、この戦いの後に鉱山地帯からフランベーニュとアリターナを一挙に叩きだした魔族軍の将グラワニーに並び評される有能な戦術家として名を上げることになる。
陸のグワラニー、海のワイバーン。
そして、これから長い時が過ぎてこの時代を俯瞰できるようになったとき、歴史研究家のひとりアレックス・グラッシントンが唱えたその標語は多くの者から支持されることになるのだが、実際のところそれが正しいのかは微妙と言わざるを得ない。
その理由であるが、まず、グワラニーの場合、鉱山群の戦い以前も、そして、それ以降も多くの戦いのなかでその智謀を披露し勝利を収めていったのに対し、ワイバーンは戦いという一点に関してはこれが最大の戦果であったこと。
さらに、ワイバーンに関していえば、評価対象である今回の策は、バレデラス・ワイバーン個人は組織の長としてそれを承認していたものの、策を考えつき練りあげたのはすべて実戦部隊の指揮官たちだったことが挙げられる。
もっとも、実際の戦いにおいて活躍したのは最前線で武器を振り回していたバレデラスのほうであったのは確かであるし、「タルノス沖でおこなわれた海戦の衝撃はそれだけ特別なものであるわけで、それを実行に移しただけでもその手腕は十分に評価されるべきものである」という意見に賛同する者が多数いることも忘れてはいけないことではある。
さて、長い余談になったが、話を「第一次タルノス沖海戦」へ戻そう。
「……多数の船を発見しただと?」
「どこのものだ?」
「各船に掲げられているのはフランベーニュの国旗。海軍です。数百五十。真っすぐこちらに向かってきています」
「くそっ。防御魔法を展開しろ」
「はい」
……やはり、こうなったか。
見張りからの報告に六百二十四席隻の大船団を率いる髭面のフランベーニュ人の男は苦り切る。
「我々が奴らの背を取ったのではなく、奴らが我々の鼻先に現れるだと」
「ありえん話だ。ワイバーンに嵌められたのか?」
「それとも奴らはワイバーンを葬ることに成功し、ついでとばかりに俺たちも消すつもりか」
取り巻きであるボリビル・カルコピノ、アティーリオ・ソクシア、カンデラリオ・バステリカが怒鳴りまくるなか、その男アンガス・モロザリーアが思案する。
……事実だけを考えよう。
……海軍だって沖合に腹に宝を抱えたワイバーンの船がいることくらいは知っている。
……それにもかかわらずこちらに向かってくるとはやはり四隻の海賊船はすべて仕留められたということなのか?
……そうなると、宝もすべて海軍が回収したということになる。
……つまり、我々が宝を手に入れるためには海軍を叩くしかないわけか。
……いや。待てよ。
……相手はあのワイバーン。たとえ四隻とはいえ、やつらと一戦してここにやってくるほど海軍の余力が残っているわけがない。
……そもそもあの用心深いワイバーンが狙われていることがわかっていながら四隻で動くはずがない。そうなれば、海軍の被害はさらに大きいはず。それが百五十隻いるということは……。
……奴らはまだワイバーンに合流していないと考えるべき。
……ワイバーンを探していたものの、見つけられず、ワイバーンとの約束で奴らの黒旗を掲げていた我々を偶然見つけてやってきたということか。
……つまり、罠に嵌めるつもりで俺たちこそが嵌められたと考えるべきか。
……だが、どちらにしても、こうなったらやるしかない。
……たとえ相手が海軍であっても。
……まあ、たとえ百五十隻でも全力のワイバーンよりは遥かに弱いはず。
……ワイバーンを攻めるかどうかは残った数で考えよう。……いや。
……ワイバーンの恐ろしさを知らないのでやる気満々の他の船の奴らには申しわけないが、前金は貰っているのだ。海軍を倒したところでやめておくのがやはり正しい選択だろうな。
……とりあえず……。
「戦闘準備。まずは腰抜けの集まりフランベーニュ海軍を叩く」
「奴らは我々の四分の一。ここで海軍を叩き潰せば、褒美はさらに出る。俺たちが海軍の腰ぬけどもよりも強いことを見せつけてやれ」
「信号旗。横陣。それから、予定通り行動されたし」
一方のフランベーニュ海軍であるが、実をいえば、彼らにしてもこれは完全な遭遇戦だった。
「まだ海賊どもは見つからないのか」
双方が相手を確認する少し前。
フランベーニュ海軍の最新鋭船となる「ロシェル」の船内でその男ブノア・オディエルヌはいら立っていた。
彼の苛立ちの原因。
もちろんそれは合流先としていた海域にワイバーンがいないこと。
と言いたいところなのだが、そうではない。
実をいえば、彼は出港前にひとつの情報と命令、それからふたつの伝言を聞かされていた。
それこそが彼の苛立ちの本当の原因だった。
「私欲に取りつかれた愚弟カミールがかき集めた海賊崩れが乗る船は約三百隻。それらが大海賊ワイバーンと密貿易をおこなおうとしている。大海賊と海賊崩れ。そのどちらもがフランベーニュの敵。
この世から消しさり正義を示せ」
「ただし……。最低でもワイバーンと名乗る強欲な海賊が手に入れた我が国の財を奪還し、私のもとに持参せよ。もうひとつ、これをおこなう際に留意する点がある。悪逆な海賊ワイバーンは一方で我が国にとって重要な交易相手でもある。今後の貿易に支障が出ぬようワイバーンの誅殺は部外者の目の届かないところでおこなわなければならない。すなわち襲撃は陸上からは絶対に見えない海域でおこなうこと」
「そして、最後に提督に対する報酬であるが、これに成功した場合、多額の金品で報いるだけではなく、私が即位したときに現在の男爵から子爵に提督の爵位を引き上げることも約束する」
それが王太子からもたらされた情報と命令である。
そして、二か所からやってきた伝言がこれである。
「非公式なものとはいえ、フランベーニュとの正当な取引をおこなっている我々をカミール王子は傭兵を使って襲撃しようとしている。 海軍は是非それを阻止していただきたい」
「第二王子カミールが用意した襲撃部隊はあわせて六百隻。ただし、フランベーニュ各地から集まるので集結には時間がかかる。そして、彼らはその所属をごまかし、またその目印にするためにすべてワイバーンの黒旗を掲げている。 なお、カミールが集めた者たちは皆各地で略奪を繰り返しているお尋ね者たちであり、これを討つことに関しては法的にはまったく問題ない。 だが、同じ海賊とはいえ我が国と正当な交易をおこなっているワイバーンを、それとわかっていながら攻撃するというのは後々問題になることは肝に銘じられよ」
ちなみに、自らの航路と合流箇所ともに伝えてきた前者がワイバーン、後者は第三王子ダニエルからの伝言となる。
……どれもこれも本当のようでもあり、嘘のようでもある。
……だが、事実と突き合わせていくと、王太子殿下の情報は間違いでダニエル殿下の情報が正しい。
……さらに、王太子殿下は正義を振りかざしているが、目的はワイバーンが抱える大量の貴石。
……王太子殿下の命は絶対であるが、ダニエル殿下が陛下の最側近であることを考えれば、これだけの警告を受けながらそれに反する行為をおこなえば、すべてが終わったあとに罪に問われる可能性がある。
……そうなった場合、王太子殿下はその指示を唯一聞いた私にすべての罪を擦り付けて終わりにする可能性はある。
……さて、どうしたらよいものか。
そう。
実をいえば、出撃はしたものの、この時点でも海軍の指揮官であるこの男の方針は決まっていなかったのである。
そして、本来ならば絡み合った情報を検討し、正解にたどりつくためにはまだまだ時間が必要だったのだが、それを許さなかったのが、副官ブリアック・フォルマオンからやってきた言葉だった。
「オディエルヌ提督。右前方に多数の船が見えると先行しているロシュフォール提督から連絡がありました」
提督。
それはブリターニャ王国で最初に使い始めた軍船を指揮する将軍に与えられた肩書である。
そして、海軍に入った者ならこう呼ばれることを夢見るものである。
「提督。ご指示を」
再びやってきた提督という快い響きと指示を請う言葉。
……さすがにうだうだと考えている暇はない。
……前にいる奴らが本物のワイバーンでなければ、たとえ全滅させても陛下から罪を問われることはない。
……まずは目の前にいる者が誰かを確認する必要がある。
「詳細を知らせよ」
オディエルヌの命令は連絡員を通じて伝達される。
それから、まもなく……。
「ロシュフォール提督より返信あり。敵は総勢六百。全船にワイバーンの黒旗と呼ばれる二匹の翼竜が描かれた旗を掲げているとのこと」
……これまたダニエル殿下の伝言どおりか。
ここで、オディエルヌの頭にダニエルからの伝言、その一部が浮かぶ。
「……それとわかっていながら攻撃するというのは後々問題になる」
……ということは、わからなければワイバーンを討っても罪には問われないということになる。
……ありがたいことに、カミール殿下の子分どもはワイバーンの黒旗を掲げている。それを利用すれば言い逃れはできる。
……これはいい。
「全軍に伝達。前方の船団は我が国の交易船を度々襲っている賊の集まりである。数は多いが、所詮烏合の衆。日々の鍛錬を怠らぬ我々の敵ではない。一隻も逃さずすべて沈めよ」
「突撃準備。防御魔法を展開しろ」
「ロシュフォール提督に連絡。全速で敵に接触し攻撃を始めろと」