アドニア・カラブリタ
「お帰り。アドニア」
「ただいま。お父さん」
この国を動かす評議員のひとりが住む場所にしてはそれほど豪華とは言えない自宅に戻った少女を出迎えたのは当主であり少女の父親でもあるバシレオス・カラブリタだった。
「それで、会議の内容だけど……」
「それはいい。おまえがわかってさえいれば」
報告しようとした娘の言葉をそう遮った父。
もちろんいまだこの家の当主は四十歳になる彼女の父親である。
だが、会議にも出席せず、それどころか報告さえ聞かない。
商売に無関心に見えるバシレオスだが、実はそういうわけでもない。
現に取引相手との交渉や実務は彼がおこなっているのだから。
つまり、病弱というわけでもない。
では、なぜ彼は十七歳の娘に当主代行をさせているのか。
それはバシレオスが人を見る目があったために気づいてしまったからだ。
娘アドニアには特別な商才があることを。
もともとバシレオスの家は小麦を始めとした食料を扱っていた商家だった。
しかも、その多くが金払いの良い海賊たちとの商売。
どのような者に対してもいいものを安くという真摯な対応を気に入った海賊たちはこぞってこの店に注文を入れ、取引高は伸びる。
ただし、商品が商品だけにあるところまで来ると売り上げは頭打ちになる。
だが、この国のトップの商人になる気などないバシレオスは父から引き継いだその店を少しだけ大きくできたその状態を維持できれば十分に満足だった。
彼に転機が訪れたのは大海賊ひとりボランパックから流れてくるガラス製品を販売する七人に選ばれたことだった。
手堅い商売人であるバシレオスは他の商人と同じように海賊側からやってくる商品をただ店先に並べるつもりでいた。
だが、彼のその方針に反対の声をあげたのは当時十歳だったアドニアだった。
「それが良いものだということはわかりますし、そのままでも十分に売れるでしょうが、それでは他の六人には勝てません」
そして、彼女のその言葉に対しての「では、そのためにどうすればよいのかな」というバシレオスの問いに、彼女はこう答えた。
「カスタ……買う相手が欲しいと思っているものがどのようなものなのかをよく聞き、それをつくらせます」
……なるほど。悪くはない。悪くはないが……。
……相手は大海賊。そのようなことを言ったら機嫌を損ね、首を刎ねられなくても販売停止を食らうことくらいは覚悟しなければならない。
……十歳の子供には難しいかもしれないが、とりあえず将来この店を任せることになるアドニアにはそれを説明し納得させねばならない。
彼女の父親は心の中でそう呟いた。
だが、手遅れだった。
なんとアドニアはすでにそのための準備を進めていたのだ。
直後、父親が渋々受け取った羊皮紙に書かれていたのはずらりと並ぶ顧客になりそうな者たちからのリクエストだった。
そして、アドニアはこうつけ加える。
「もし、つくらせたものの、顧客がその出来に満足できず買い取らなくても、海賊の言い値で買い取り、改めて店頭に並べればよいでしょう。もっとも……」
「それをつくる大海賊とやらは意外に芸術家か職人の血が濃そうだから、つくれないとは絶対に言えない。かならずそれ以上のものを持ってきます。そして、それだけのものです。当然売れます」
そして、結果がどうなったかといえば、アドニアの言葉通り。
バシレオスからリストを手渡された子分たちはもちろん怒り狂ったものの、拝み倒して渡してもらったそのリストを眺めた当のボランパックは小さく「なるほど。こういうものが欲しいのか……」と呟いたあとに職人たちとともに工房に籠り、驚くほどの速さでそのすべてを叶えてみせたのだ。
もちろん商品は大喜びの顧客たちに高額で引き取られ、作り手と売り手双方に莫大な利益が舞い込む。
利益と、それ以上にその評判に気をよくしたボランパックはガラス製品の売り手を七人からバシレオスひとりに絞る。
さらにそれにとどまらず磁器の生産に成功すると、バシレオスにその独占販売権も与える。
当然のように売り上げは跳ね上がり、それと同時にそれを妬む他の商人たちからは不満の声が上がるものの、彼を指名した相手からの一睨みでそれはすぐに消える。
バシレオスの躍進はさらに続く。
ボランパックからの紹介で知己になった南国産の珍しい果実や野菜、そして最強の武器である砂糖を抱える三人のうちのひとり鉄壁の大海賊ワシャクトゥンからその独占販売権を手に入れると、バシレオスはその期待に応えるようにそれまでの売り上げがスズメの涙に思えるほどの勢いで仕入れたものを売りさばく。
遠く離れたノルディアにまで販路を広げて。
そして、現在。
バシレオスは三十六人しかいない評議員に選ばれたばかりか、アグリニオンで四番目の売り上げを誇る大商人にまでなっていた。
だが、それはすべてアドニアの指示に従った結果。
つまりバシレオスの後ろに立つ彼女の功績。
それを知るバシレオスは代理人という肩書を与えてアドニアにその地位をそっくり譲った。
それがあの会議に彼女が出席していた理由となる。
少女が父と会話をしてからしばらく時間が過ぎ、いつもどおりの夜となる。
……ここまで上がれるのは、まあ予定通り。
……だが、競争相手のことを考えればこの程度商社勤務一年目の新人にでもやれることだ。
……つまり、ここからが本番。
……この国のトップ?いや。せっかくこの世界に来たのだ。狙うのはこの世界のトップの総合商社だ。
バルコニーから港を見ながら、彼女は心の中でそう呟いた。
彼女にとっては懐かしさだけが残るこの世界にあるどこの国でも使われていない言葉で。




