凄惨な終幕 Ⅰ
「オディエルヌ提督。左翼方面からやってくる三隊の旗を判明しました。『三本の雷が描かれた黒旗』、『槍に下げられた錨が描かれた黒旗』、『十三本の剣が描かれた黒旗』です」
「カラクルム、ボランパック、ワシャクトゥンか。数は?」
「約百二十」
オディエルヌの問いに答える伝令係の言葉に部屋中がどよめく。
そして、言葉には出さないが、その場にいた誰も心の中で呟く。
……我が軍は全部で十三隻。
……戦いにもならん。
さらに悪い知らせは続く。
「正面にワイバーンの二百隻を確認」
「右翼の三隊もこちらへ移動はじめました」
「どうやら前に展開していた隊はすべて敗北したようです」
フォルマオンはオディエルヌに不愉快な報告をそれにふさわしい表情で報告し終わると、呼び出した三人の魔術師たちに厳しい視線を送る。
「どうだ?」
すでに何度も問うていたその短い言葉にはそれまで以上に期待が込められている。
その期待。
いうまでもない。
それは転移による戦線離脱。
十三隻の転移がだめでも、せめて提督だけでも港なり王都なりへ転移させることはできないかというものだった。
だが、返ってきたのはフォルマオンの期待とは正反対のものだった。
三人の魔術師の中で一番上位者となるアーネスト・トルシーが口を開く。
「先ほどから何度も試していますが、敵の防御魔法が張られており……」
途切れた言葉を補うようにさらに良くない話題を提供したのは次席となるファビアン・フェリエールだった。
「それよりも、転移を試す度にこちらの防御魔法を解除していては、いずれ相手の攻撃魔法が直撃します。なんといっても迫る敵には幻影の大海賊ボランパックがいるのですから」
……そうだ。ボランパックは有能な魔術師を多数抱えているのは有名な話だ。
その場にいる者は心の中でその言葉に同意する。
「わかった。可能性がないものに時間をかけて試す必要はない。防御魔法で我々を守ることに徹してくれ」
フェリエールの言葉にそう応じたのはオディエルヌだった。
言葉の端々から脱出を諦めている。
それどころかその気すらない。
そのようなオディエルヌだった。
だが、諦めないフォルマオンが再び口を開く。
「提督。まだ後方があります。敵はすべて前方から来ているのですから、後方には敵はいません。今なら脱出できます」
フォルマオンは自分が助かりたいためにこれだけ強硬に脱出を主張しているのではないのは十分に承知している。
承知しているが、さすがにオディエルヌも少しだけ不機嫌になる。
「おまえは私に部下たちを見捨てて自分だけ逃げろと言うのか?」
「彼らはすでに敗退しています」
「それではなおさら逃げるわけにはいかんな」
「ですが、このままここに留まっていてもただ死ぬだけです。それに、提督にはこの状況を陛下に報告し……」
「敗北の責任を問われる義務があります」
……そうでなければ、下位の者がその責を問われることになるということか。
……言葉を随分省略しているので誤解を生みそうではあるが、間違いではない。
……だが、この状況ではそのようなことにならないだろう。
……なぜなら……。
……生きて帰れる者などいるはずがないのだから。
「まあ、敗北に対する責任の取り方は別にあるが、陛下に報告する義務はたしかにあるな。そういうことなら……」
「その役はディナンに任せることにしよう。幸いにも彼は我々よりもさらに後方。十分に脱出できるだろう。旗下三隻で戦場を脱出し陛下に事の次第を報告するように連絡しろ」
「これでその義務を果たしたな。フォルマオン」
そう言ってフォルマオンを黙らせたオディエルヌは目を閉じる。
……何度も引き返す機会はあった。
……まず、ロシュフォールから帰港の提案があったとき。
……次は、ルゴンたちの先陣争いのとき。
……そして、先行隊による抜け駆けをしようと陣を崩したとき。
……私はそれをすべて逃した。
……そもそも王太子殿下の密命など受けなければよかったのだ。
……まあ、今さらではあるのだが。
……個人的欲望のために多くの部下を死に追いやったのだ。
……その私が負けたからと言って逃げるわけにはいかんのだ。
……ここにいる者には申しわけないことなのだが。
……とりあえずやるべきことはすべてやった。
……さて、これからどうするべきか。
……といっても、最後をどうするかということなのだが。
そのようなことをぼんやりと考えていたオディエルヌを現実に引き戻したのは伝令係の声だった。
「報告」
「いよいよ来たか」
オディエルヌの代わりに問うたのはフォルマオン。
その声に少し気圧された伝令係の少年だったが、決まり通り姿勢を正すと口を開く。
「いいえ。目の前の敵は今のところ一定の距離を保ったままです」
「では、なんだ?」
「見張り員からの報告です。東に狼煙が上がっているとのことです」
「東?」
つまり、西に舳先を向けている自分たちの後方となる。
すなわり、それは先ほど王都に戻るよう指示したベルナベ・ディナンが進んでいった方向である。
嫌な予感が全員の胸を過る。
「それはディナンからなのか?」
「……おそらくそうということです」
「それで、なんと伝えてきた?」
「信号は赤一本。黒二本。敵発見と我沈没がほぼ同時に……」
「大軍による待ち伏せか」
「これまでの状況を考えれば相手は五十隻から百隻。ディナンはわずか三隻。始まれば一瞬でしょうが……」
「だが、八大海賊は皆ここに……もしかしてウシュマルか」
「ここから確認できないのは暴虐の大海賊だけですからそうなのでしょうが……」
「ということは、ルゴンもやられたということか」
「残念ながら……」
自らの問いに対してやってきたフォルマオンからの言葉。
もちろんそれは十分に予想できるものではあったのだが、改めて言葉として聞くとまた別の感情が涌く。
……もしかしたらと思ったが……。
オディエルヌは大きくため息をついた。
「いよいよ囲まれたようだな」
「そうなります」
「そうか」
そこに再び伝令係が飛び込んでくる。
「報告。左翼前方に新たな敵発見。数百五十。海賊旗確認。交差する戦斧。暴虐の大海賊ウシュマルです」
「右前方?後方ではないのか?」
「いいえ。右前方とのことです」
「ウシュマルは後方にいたのではないのか?」
「だが、さすがにそこまで素早い移動などできまい」
「ということは、後方にいるのはまったく別の部隊ということか」
「いったい誰だ?」
「まあ、今さら八大海賊が九大海賊になろうが我々にとってはどうでもいいことだろう」
動揺する一同をその言葉で制したのはオディエルヌだった。
オディエルヌはさらに言葉を続ける。
「ついでに言えば、今の我々にとっては数だって九百隻が千隻になろうがたいして変わらぬ。それよりも、とりあえず役者が揃ったのだ。そろそろ始まるぞ。あの宴が」
宴が始まる。
オディエルヌのその言葉は報告という形ですぐにやってくる。
「敵が急速接近」
「信号旗関連の書類を焼き、迎撃せよ」
伝令にそう命じてからフォルマオンはオディエルヌに目をやる。
「いよいよですね」
「そうだな。ところで、フォルマオン」
「はい」
「奴らがこの船に上がってきたら迎撃の指揮はおまえがとれ」
「それは構いませんが、提督はどうされるのですか?」
「私はこれでもフランベーニュ海軍提督だ。無名の海賊に討ち取られるなどということだけは絶対に避けねばならない。申しわけないが先に行かせてもらう」
先に行く。
つまり、自死である。
実をいえばこの世界では自らの船が敵に乗り込まれた場合に海軍指揮官がとるべき作法としてそれは示されていた。
曰く、海軍の提督の地位にある者は同格である敵提督との一騎打ち以外で討ち取られることはあってはならぬ。
万が一にも一兵士に討たれるようなことにならぬよう船に敵がやってきたときは、すみやかに自らの身を処すべし。
海軍の幹部候補生として教育を受けており、当然その作法を知っているフォルマオンはさすがにそれを止めるわけにはいかない。
というよりも、指揮を取れと言われた時点ですでにその覚悟はできていた。
フォルマオンが硬い笑顔で口を開く。
「なにかお手伝いすることはありますか?」
手伝い。
これは自死の手伝いをするということである。
この世界には拳銃がないので、自死といえば、剣を使うか首を吊るというのが一般的である。
だが、地位が高くなれば別の手段もある。
毒入り高級酒。
もちろんフォルマオンの考えたものもそれであったのだが、オディエルヌはこれをあっさりと拒絶する。
「これから皆に苦しい思いをさせるのだ。私だけ楽に死ぬわけにはいかない」
「しかし……」
そこに伝令がやってくる。
「この船以外のすべてで白兵戦が始まっています」
「この船以外?」
「はい」
「なぜこの船には乗り込んでこないのだ」
「……おそらくここが宴の会場なのだろう」
フォルマオンの問いに答えたのはもちろんオディエルヌ。
「宴の会場?」
「もちろん大海賊の宴だ。奴らはそのために一隻だけ残すということだ。この船は大きく、そして新しい。たしかにその場にはふさわしいといえる」
「……なるほど」
「そういうことなら、いっそのことこの船を沈めてはいかがですか?たしかに無傷の船を沈めるのは軍規に違反します。ですが、どうせ死ぬのです。海賊どもにいいように使われるくらいならそちらのほうが百倍いいと思いますが」
「……悪くない。悪くない手だな」
「では……」
だが、遅かった。
「敵多数乗り込んできました」
「迎撃せよ」
フォルマオンの言葉を遮るように異口同音的にあちらこちらから同じ報告と命令の言葉を発する声が聞こえることから、それは一斉にやってきたことはあきらかだった。
「フォルマオン。残念だが間に合わなかったな」
「はい」
「では、これで失礼する。どちらが先になるかはわからぬが、とりあえず向こうで待っていると言っておこうか」
「こちらこそ。またよろしくお願いします」
オディエルヌが隣の自室に入るのを確認すると、フォルマオンはただちに行動を始める。
「海賊ごときに我々フランベーニュ海軍が遅れを取るなどありえぬことだ」
「迎撃せよ。全員を叩き出せ」
「海賊ども。フランベーニュ軍人の剣技を味わうがよい」
フォルマオンはニヤリと笑った。