第三極
魔族と人間が争うアグリニオンという世界。
大きな大陸でもあるその地を取り囲むように存在する海。
その海に浮かぶ環礁に囲まれたファンドリアナ島の中心として栄えるマンドリツァーラ。
「お帰りなさいませ。バレデラス様」
港が見えるその建物の自室から会議室にも使われる広間に姿を現した魔族の男にそう声をかけたのは……人間の男。
「ただいま、ペルディエンス。そして、これは今回の土産だ」
声をかけてきた、見た目でいえば自分よりも少しだけ若いガブリエウ・ペルディエンスという名のその男に向けて彼が放り投げたのはこの世界では使用されていない言葉が記された包みだった。
それを両手で受け取った男は一度それを眺める。
目の前の男が言うところの「ビニール」なる透明で柔らかい不可思議な素材に包まれた中身は焼き菓子のようである。
……妻のアリエットが好きそうな菓子。
……相変わらずの気配りです。そして……
……子供たちは食べ終わった後にこの袋の取り合いをするのだろうな。
……いつものように。
口元に笑みをつくって口を開く。
「ありがとうございます。この菓子は初めて見ましたが、やはり紙の生産地でつくられたものなのですか?」
「まあ、そうなるのだろうな。ところで、なにか変わったことがあったのか?」
どこかとまでは言えなかったものの、この部屋全体から漂う奇妙な違和感。
それは、それを感じた男の言葉だったのだが、返ってきたのはそれをすべて打ち消すものだった。
「特に……というか、僅かな時間に状況が激変するのは敵の襲撃か天変地異以外にはないと思いますが……」
「そうか」
……そうだったな。こちらも向こうの世界と同様、俺の転移直後まで時間は戻るのだった。
……それがどれほど長い時間であっても。
……だから、俺が向こうで過ごした何日もの時間がペルディエンスにとってはほんの数分のことでしかないのだ。
……便利ではあるが、どのような仕組みなのかはさっぱりわからんな。やはり。
バレデラスと呼ばれた魔族の男は心の中で苦笑いすると、何事もなかったかのように言葉を続ける。
「……一応確認のためだ。まずはその土産を奥方に届けてこい。これはかの地でも人気らしいからアリエットも子供たちもきっと喜ぶ。戻ってきたら会議をおこなう。幹部たちを招集してくれ」
相手の困惑を感じ、取り繕うようにそう言って、ペルディエンスを自宅へと送り出した魔族の男はひとりだけになったその部屋をもう一度見回す。
それから、目を瞑り、この部屋を最後に見たときのことを思い出す。
……一見すると、どこも変わっていないように思える。
……だが、何かが変わっている。
……そうは言っても、先ほどの会話はいつもどおり。ペルディエンスが隠しごとをしている様子もない。
……つまり、やはり俺の気のせいか。
……あんな実験をした直後だから、自分がつくりだした変な空気を纏っているせいかもしれん。
……切り替えよう。
アグリニオン。
そこは人間と魔族がお互いを不俱戴天の仇のように殺し合う二極化した世界。
のはずだった。
だが、先ほど会話を交わしていた魔族と人間には、上下関係こそあるものの、敵対しているとか、奴隷身分の者とその主というような雰囲気は一切感じなかった。
それどころか家族のような雰囲気さえ感じさせた。
魔族と人間が家族。
この世界の実情から考えれば全くもっておかしな話ではあるのだが、実を言えば、それはある意味正しいと言える。
なぜなら、ふたりが属する組織は魔族と人間が混在している組織なのだから。
ワイバーン。
そして、それがバレデラスと呼ばれたその男を頂点としているその組織の名となる。
別の世界ではドラゴン族に含まれる架空の生物に与えられた名である男の名字を名乗るその集団。
人員構成からも彼らがこの世界の理から外れた存在であることはあきらかなのだが、具体的にどのような組織なのかといえば……。
海賊。
それがその答えとなる。
そこに少しだけ説明を加えれば、御多分に漏れず、このアグリニオンにも海を荒らしまわる海賊と呼ばれる武装組織が存在する。
そして、数多くの海賊組織のうち大海賊と呼ばれる特別な呼び名を与えられているものが八つ。
そのなかでもワイバーンはその頂点に君臨する有名な組織となる。
もっとも、彼らがいわゆる海賊業を生業としていたのは先代までのことであり、現当主が成人してから徐々に軸足が動き、現在は完全ではないもののほぼ足を洗ったと言っていいだろう。
では、彼らは何によって糧を得ているのか?
というよりは、彼らの拠点となる港町マンドリツァーラを中心としたファンドリアナ島の住人がどの国の者よりも豊かな生活を送れているのはなぜなのか。
その答えがこれである。
仲介貿易。
そして、この世界にとっては異物でしかない魔族と人間の混成集団である海賊ワイバーンという存在が、魔族と人間という本来ならば相容れないはずの相手から必要物資を手に入れられるカラクリの根幹となっている。
それによって人間たちは自国で産出した量では足りず常に不足していた金や銀を魔族国産のもので賄い、その対価として支払われるそれぞれの国で産出する貴石はワイバーン、そして他の大海賊を通してアグリニオン中に流れているのである。
だが、それではこの取引は人間側にとって利になることばかり。
もちろん、フランベーニュやアリターナの高級酒は魔族たちにも好まれており、海に面した陸地の大部分を失った魔族にとっては海産物を手に入れる手段が輸入以外にはないのだから魔族が恩恵を全く受けていないとまでは言えない。
だが、金や銀の流通を止めてしまえば、自分たちが流した金や銀に依存している人間たちの経済は大混乱に陥って侵攻どころではなくなるのだから、戦略的にも金や銀を人間世界に流すのは望ましいものでもないのはあきらかである。
それにもかかわらず魔族が金や銀を放出し続けているのには当然理由がある。
紙。
具体的には別の世界にある国のひとつで「洋紙」とも呼ばれる種類の紙がその貿易をやめられない理由となる。
アグリニオンと呼ばれるこの世界でもっとも紙を消費しているのは魔族。
その普及率の高さは人間諸国とは比べものにならぬものであることは、ごくありふれた民家に残されていた子供の落書きに使用されたと思われる古紙を人間の兵士が奪い合い、さらにそれを国家が権力を行使して強制的に回収するなどという喜劇が起こっていることからも容易に推測できる。
だが、肝心のその紙であるが、見様見真似で自国生産された紙は手間ばかりかかり、その質は海賊が持ち込んでくるものとは比べるまでもないくらいに劣るうえに、生産量も必要とするものに遠く及ばない。
というよりも、ほんの僅か。
つまり、町の隅々にまで紙を使用する文化が根付いているこの時点で、自国生産ができないまま輸入をやめるという選択肢がとれない以上、その代価となる金や銀の流出は自らの首を絞めるものとわかっていてもやめられない。
まるで別の世界の麻薬を求めるその常習者のように。
それからもうひとつ、この件について言わねばならないことがある。
別の世界ではもちろん、この世界においても考えられぬほどの中間マージンを取る悪徳仲介業者を快く思わぬ者は当然彼らを挟んだ両側に多数存在した。
だが、前述したように、一方の側には彼らを排除しては敵国である魔族の国から金や銀が流れてこなくなる、もう一方ではどれほど努力しても彼らが持ち込むものと同じ質の紙を大量生産できないという弱みがある。
多くの場所で「守銭奴」、「拝金主義者」と、その悪徳仲介業者に対する最上級の軽蔑の言葉を盛大に吐き散らして憂さ晴らしをする。
それが彼らのできる精一杯の抵抗。
悲しいことだが、これが経済の根幹を押さえられた者の哀れな現実なのである。