あと2日
「それは、なんだ?」
アドニスの低い声が腹に響く。怒っているわけではない。ただ純粋にそれはなんだ、と聞いているだけ。
ミリアは急いでそのタブレットの電源を切ると。
「ええと、ただの板です」
というわけのわからない言い訳をした。そしてそっと、それをアドニスに差し出す。ここで変に隠してしまった方が逃げられないだろう、と思ったからだ。
それを受け取ったアドニスは、そのタブレットを下から上から斜めから見て、くるくると回転させてみたけれど、本当にただの板であったため。
「なるほど。ありがとう」
と言って、ミリアに返した。ミリアの作戦勝ち。と同時に、左頬に触れられた。
「赤くなっている。すぐに手当てをしよう」
アドニスに左腕を引っ張られ、ミリアはその場を後にするしかなかった。あの二人のその後が気になるところだけれど、必要なものは手に入れたので心残りは無い。アドニスに連れられて、部屋へと戻った。
彼は何も言わず、ミリアの赤くなった頬にタオルを押し当てていた。
その手当を受けていたミリアは、あと一人、と心の中で呟いた。
そのあと一人がこの学園長の息子であるミゲルだ。攻略場所は図書館だったはず。
ミリアの一日というのは、起きて、三度の食事をして、寝る、という何もしない時間の連続。その何もしない時間の過ごし方は、基本的にはチートアイテムのタブレットを触って、ムフフとするくらい。ときどきアドニスがやってきて、ミリアを散歩に誘うという、それだけ。
このタブレットのチートなところの一つは充電いらずということだろう。そもそも充電器が存在していない。むしろこの世界に電気は無い。あるのは魔力。魔力が電気みたいなものだけれど、さすがにWi-Fiとかそれっぽいものは無い。電波も無い。ラジオも無い。テレビも無い。つまり、娯楽が無い。
となるとやはりこのタブレットに頼るようになるわけで。それに飽きると本を読む、という感じだ。
何しろ今日はシャイナとミゲルのイベントの日。イベント会場はもちろん図書館。読み終えた本を返すついでに、彼らのイベントをこそっと覗こうと企んでいるミリア。ムフフしかない。
「ミリア。図書館に行くのか?」
と部屋を出たところでアドニスに呼び止められた。意外と神出鬼没なこの男。
「ちょうど、君の部屋へ行こうと思っていたところだったんだ」
「そうなんですね。私は図書館の方へ。こちらの本を読み終えてしまったので、続きを借りようかと思いまして」
ミリアは手にしていた本を、アドニスにも見えるように掲げた。
「そうか。その本は僕も読んだ。だが、その本は完結していない」
「そうなんですか。それは残念です」
夢の中の時間つぶしにちょうどいいと思って借りた本ではあるが、さすがに完結できないままこの夢の世界から立ち去ることになってしまうのも心残りである。本好きな人が思うのは「この本が完結するまでは死ねない」ということのようで、ミリアの中の人の読書家の友人はよくそれを口にしていた。ということは、ミリアの中の人はすでに死んでいるにもかかわらず、その夢の中でも死んでしまうわけで、さらにそれがこの本の完結を見送る前に、となると、死んでも死にきれないし、夢が覚めても覚めきれないということになるわけで。
「ミリア、どうかした?」
そんなどうでもいいことを考えているミリアだが、アドニスにそう声をかけられてふと我に返った。
「あ、いえ。この本の続きが気になっただけです。完結、していないのが残念でして」
アドニスはミリアのその言葉の意味を少し考えた。考えたら何も言えなくなった。
不本意ながら、ミリアはアドニスと図書館へ行くことになった。これからシャイナとミゲルのイベントというにも関わらず。例のタブレットを本の間に挟んで持ち歩いているものの、一度アドニスに気付かれてしまっているから、あまり公には使えないだろう。本に隠して使うしかない。
夢の中の世界なのだから、もう少し夢をみせてくれてもいいのに。
図書館へ足を踏み入れると、ぽつんぽつんと人がいる。もちろん、話し声など聞こえるはずもなく静か。
ミリアはとりあえず手元にある本を返却した。すると、タブレットを隠すものが無くなってしまった事に気付く。でも、仕方ない。新しい本を借りるかどうかは悩むところ。
だって、あと二日。あと二日で処刑されてしまうから、借りた本を返しに来ることができないかもしれない。
「アドニス様」
そっと、ミリアはアドニスの名を呼んだ。他の人の邪魔にはならないように。
「もし、私が今後、こちらに来ることができなくなるようなことが起こったら、私が借りた本を返しに来てくださいますか?」
それにアドニスは目を見開くが、彼女の言いたいことを察したアドニスは黙って頷いた。それを見て安心したミリアは、何冊か本を選び、貸出の手続きをした。あと二日で読めそうな本。続きものはやめておこう。
そうやって貸出手続きを終え、戻ろうとしたところ、どこからか人の話し声が聞こえてきた。
ミリアはアドニスと顔を見合わせる。その声が言い争いをしているようにも聞こえたからだ。何か起こる前にとめた方がいいだろう、という二人の判断。
何を話しているのかはわからない。ボソボソという話し声。場所は、どうやらこの地下にある蔵書庫。二人はゆっくりと階段を降りる。
やはり、そこにいた。シャイナとミゲルだ。アドニスは眉根をそっと寄せた。しっとミリアは右手の人差し指を唇の前で立てた。
シャイナがミゲルを励ますシーンなのに、どうやら様子がおかしい。まあ、今までのイベントシーンも何かがおかしかったのだが。
シャイナがミゲルの腕を引っ張り、無理やりどこかへ連れて行こうとする。シャイナは彼を引っ張る役だけれど、そういう物理的な引っ張りではない。精神的に引っ張っていくのだ。
その腕を放してほしいと、ミゲルは暴れている。
「シャイナ。その手を離しなさい」
つい、ミリアは二人の前にその姿をさらしてしまった。そして、シャイナの腕にそっと触れる。
「そのように強引に引っ張ってはいけないわ。もっとミゲル様の心の声を聞いて。あなたが引っ張るのはミゲル様の心」
「ミリア、あなた……」
シャイナはミゲルからその手を離した。それを見届けたミリアは、そっとその場から立ち去る。というよりもシャイナたちから見えない場所へと隠れた。
そして取り出したのはもちろんあのタブレット。本の間に挟んで、パシャリ。これで全てのイベントを見送った。もう心残りはない。この夢の中の世界からいつ旅立っても大丈夫、そうミリアは思っていた。
だけど、そんな彼女の姿を鋭い視線で見つめている男が一人。もちろんアドニス。
「ミリア」
静かに名を呼ばれ、ミリアはその肩を震わせた。そしてゆっくりと振り返る。
「アドニス、さま?」
「君は、一体何をしているんだ?」
彼のその疑問は正しい。
「なぜ君は、シャイナを助けているんだ?」
アドニスからはミリアがシャイナを助けているように見えているらしい。まあ、イベント進行のために手助けをしているから、助けるという表現はあながち間違いではない。
「なぜ? それを問われるのですか? 理由はありません。彼女がシャイナだからです。聖女、シャイナだからです」
ミリアは静かに目を伏せた。これ以上、アドニスからツッコミが入らないように、という思いを込めて。
「そのために君は、自分自身を犠牲にするのか?」
アドニスの声は、鋭く冷たかった。ミリアはそれに対して「はい、必要であれば」と答えた。