あと4日
やはり、ミリアはしっかりとタブレットを胸に抱きしめて、ベッドでごろごろと転がっていた。時折思い出したように、それに保存されているあの画像たちを眺める。やっぱりカレンダーの背景にするのなら、この画像だよな、と勝手に写真を選んでいる。そもそもこの世界に『月』という概念が存在するかもわからない。
気を緩めると、口の端から涎がこぼれそうになってしまう。それはお腹が空いているから、ではなく、シャイナが可愛すぎるから。
いかんいかん、と右手首を口元に当て、涎を拭いた。
そのタイミングで部屋の扉をノックされたので「はい」と引き締まった声で返事をした。
「ああ、ミリア。もしかして、寝ていた?」
この部屋を訪れるたびに、アドニスはそう尋ねる。寝ていたというよりはゴロゴロしていたが正解なのだが。
「あ、いえ。まあ。そうですね。他にもやることがありませんから」
「すまない。その、君から自由を奪ってしまって」
「アドニス様のせいではございませんから。それに、こうやってのんびりと最後の時間を堪能するのも悪くはないと思っているのです」
「最後の時間……」
そう呟くアドニスの顔は、少し苦しそうにも見える。だけどそれを悟られないように、アドニスは「食事を持ってきた」と、いつもの口調で伝えた。
「ありがとうございます」
「ミリア。食事が終わったら、僕と少し散歩にでも行かないか?」
「お散歩ですか?」
「といっても、この王城の敷地内からは出ることはできないが」
うーんと、ミリアは考えた。恐らく今日は、シャイナとケビンのイベントの日だ。場所は、確か訓練場。あの訓練場にミリア一人で足を踏み入れるのは難しいだろうと思っていたので、今日のイベント参加は泣く泣くあきらめるしかないかな、と思っていたところ。だが、チャンスは転がり込んできた、というわけだ。
神様も捨てたもんじゃない。
「そうですね。気分転換にはいいかもしれませんね。ぜひとも、お願いいたします」
今日のイベントは、近衛隊長の息子であるケビンであったはず。訓練場で一人鍛錬に励む彼の姿を見つけたシャイナが彼の悩みを聞き、その背中をそっと押して上げるという静かなイベント。
シャイナが後ろから彼の背中を抱きしめるシーンは、感動ものだ。ミリアの中の人は涙を流しただけでなく、鼻水まで垂らしながら号泣した。とにかく、ケビンを想うシャイナの心が、じわじわっと染みわたってくるワンシーンなのである。
そもそもケビンはこの攻略対象イベントの中で、唯一の同い年。つまり、同級生。学園に入学した時から共に机を並べて勉学に励んできた仲。だからこそ味わえるあの切ない感動。
「あの、アドニス様」
隣を歩くアドニスを見上げて、ミリアは思い切って声をかけた。なぜならどうしてもあの場所に行きたいからだ。
「訓練場を見に行きたいのですが、よろしいでしょうか」
「訓練場?」
アドニスが不思議そうに首を傾げた。
「ええ、あそこもいろいろと思いが詰まっておりますので」
その言い方に間違いはない。
だが、アドニスは学園時代のことを思い出したのだろう、と思っていた。訓練場で励んだ様々な練習。女性でも剣を振るう者もいれば、弓を射る者もいる。もしくは魔法の練習、と、それぞれが様々な練習に励んだものだ。
もちろんミリアがいう思いというのは、別な方の意味。涙と鼻水をこれから垂らす方の意味。
食事を終えたミリアはアドニスと少し談笑をしてから、例の訓練場へと向かった。二階のギャラリーへと続く階段が、その訓練場の裏側にある。そこから全体を見回すのも悪くは無いな、とミリアは思っていた。むしろ全体を見回すことができないと、シャイナとケビンをロックオンすることができない。
ギャラリーをゆっくりと歩く。下で訓練に励んでいる者に気付かれないように。
「懐かしいな」
とアドニスが言う。その声に驚きミリアは立ち止まる。
「昔は、無我夢中で鍛錬に励んだものだ。だけど、最近はそのようなことをすっかりと忘れている。なぜだろうか」
恐らくアドニスの独り言。聞かなかったことにしようと思ったミリア。じっと下を見ていたら目を惹く人物が二人。
間違いない、シャイナとケビンだ。
「アドニス様。私、用事を思い出したので」
おほほほと作り笑いを浮かべて、アドニスから離れようとするミリアだが、しっかりとその腕をアドニスに掴まれてしまった。
「用事? ここで謹慎されているような君に、用事は無いはずだが」
さすがアドニス。鋭い。
「何か、あるのか?」
さすがアドニス。鋭い。
「アドニス様。時間がありません。ここはどうか見逃してはいただけないでしょうか?」
そう、二人がこの訓練場から建物の裏手に回ろうとしているということはこれから例のイベントが始まるということ。だから、時間が無い。
ミリアの表情が鬼気迫るものであったため、アドニスは掴んでいた手を離した。
「ありがとうございます、アドニス様」
ミリアは小走りで二人の後を追う。そしてそのミリアの後をアドニスが追う。
ミリアがやってきたのは訓練場の建物の裏。やはり、シャイナとケビンはここにいた。二人に気付かれないように、そっと物陰に隠れる。ミリアの後ろに誰かの気配がすると思って振り向いたら、アドニスだった。
「アドニス様」
「しっ」
アドニスの視線の先にはシャイナとケビンの姿がある。
「あの女。兄さんだけでなく他の男にも手を出していたのか?」
「誤解です、アドニス様。彼女は彼らを励ましているだけ」
なぜ君がそれを口にする? という思いをこめて、アドニスはミリアを見つめたが、ミリアの目にすでにアドニスの姿は無く、じっとあの二人を見守っているだけだった。
父と同じ道を進まなければならないという圧力に押しつぶされそうになっているケビンに対し、あなたは自分で自分の道を選べばいいというシャイナ。そこで二人は熱い抱擁を、という流れのはずなのに。
そこにまとわりつく空気の流れがおかしい。そのような甘い雰囲気にならないのだ。
「お前に何がわかる」
ケビンの怒鳴り声。
「俺の好きなように好きに生きろ、だと? 俺は、父の跡を継ぐ必要があるんだ。自由気ままに生きているお前とは違うんだ」
そう、違う。本来の流れと違う。そしてミリアはそのケビンが次に何をするのか、ということがなんとなく予想がついた。だから、隠れていたにも関わらず飛び出してしまったのだ。
「ミリア」
と、名前を呼ぶ声は恐らくアドニスのもの。
「ミリア?」
と、その声はシャイナのもの。
「ミリア嬢」
とその手を握りしめながら名を呼んだのはケビン。
ケビンが振り上げた右手は、思い切りミリアの左頬に当たった。その勢いで彼女は横に吹っ飛び、尻もちをつく。
「ミリア、あなた……」
シャイナが手で口元を押さえながら、ミリアを見下ろしていた。彼女はニコリと笑うと、すっと立ち上がり、服についた土をパンパンと払い、じっとケビンを見上げた。
「ケビン様。どうか自分の心の声と向き合ってくださいませ。シャイナはそれを伝えたかったのです」
ペコリと頭を下げると、ミリアはそそくさと建物のほうへと歩いていく。
「ミリア嬢、その、すまない」
という声が背中から聞こえてきたけれど、ミリアはけして振り向くことはしない。あの二人の仲を邪魔してはならないのだ。
その建物の角を曲がり、彼らの視界から消え去ったミリアはまたタブレットを取り出した。これから始まる二人のイベント。これを見逃してしまったら、殴られ損だ。
という思いがあって夢中になってしまったのかもしれない。だからすっかりと忘れていたのだ。そこにアドニスがいるということを。